■SEASONS【I.Autumn(5)】 東金

 土曜日、神南高校の講堂では管弦楽部の練習が行われていた。
 ステージ本番である文化祭まではまだ3週間あるというのに── 招待する他校生に恥ずかしくない演奏をするために土日も練習すると言われれば、従わないわけにもいかず。 それが東金千秋が命じたことならば尚のこと。
 そう、既に引退した『元・部長』であるにも関わらず、部員たちはいまだ彼のことを『部長』と呼び、その権限も維持されたままなのである。
 その東金といえば、朝から妙にそわそわしていた。
 音楽監督よろしく最前列の座席であれこれ指示を出す彼は、合間に何度も腕時計を確認し、その度にほわっと気味の悪い笑みを浮かべている。
 部員たちはいつぞやの不機嫌オーラ丸出しの時よりもさらに集中しきれない状態に晒されていて、 双方を見比べながらの土岐の溜息は練習開始から2時間半ほどで既に100回を超えていた。

 遡ること2日前、木曜日の夜のこと。
 鳴り響く携帯が愛するかなでからの着信を告げていた。
「── もしもし」
『あっ、こ、小日向ですっ』
 やけに緊張した声音に、思わず頬が緩んだ。 何を今更緊張しているのやら。
「ああ、どうした?」
『えと、今度の土曜日、そちらに行ってもいいですか?』
「そちら、って……神戸にか?」
『はい』
「別に構わんが……あまり時間は取ってやれないぜ?」
 彼女が神戸に来る── 嬉しくて頬がゆるゆるに緩んでいるというのに、わざとそっけなく言い放つ。 相手の顔が見えない電話だからこそできる駆け引きだ。 駆け引きなんて、それこそ今更だというのに。
『はい、1時間くらい会えれば十分です』
 きっぱりとした返事が返ってくる。
 彼女はたった1時間のために、わざわざ横浜から往復5時間かけてやってくるというのか?
 もちろん会いに来てくれるのは大歓迎だし、いつでも神戸に来れるようにと前もって新幹線の回数券を渡してあるので交通費の心配をする必要もないのだが。
「……なあ、かなで。 どうせこっちに来るなら、俺がゆっくり相手してやれる日に来いよ」
『いえ、今度の土曜日に行きます』
「そうは言ってもな……時間がある日なら、あちこち案内もしてやれるぜ?」
『もう……まだ意味がわからないんですか?』
 ちょっと拗ねたような彼女の声。
「意味?」
『カレンダー見て考えてくださいっ!』
 プツッと通話は一方的に切れた。
 首を傾げながら言われるまま通話の切れた携帯のディスプレイにカレンダーを表示させ、じっと見つめる。
「── そういうことか」
 呟くと同時に、東金の顔は真夏の戸外に放置したアイスクリームのようにドロドロにとろけていく。
 忙しさにかまけてすっかり忘れていたが── 今度の土曜日である10月1日は東金千秋・18回目の誕生日だった。

 ポケットの携帯がブルルと震えた。
 素早い動きで取り出しカパッと開いて画面を確認すると、まだお世辞にも完成とは言えない交響曲の鳴り響く講堂を抜け出し電話に出る。
「── ああ、すぐ行く」
 東金はそのままの勢いで外に飛び出した。

*  *  *  *  *

 かなでは2時間半の新幹線の旅を終え、新神戸駅のみどりの窓口の前に佇んでいた。
 持ってきた荷物を大事に胸元に抱え、コンコースを行き交う見知らぬ人々の流れの中から知った顔を探そうと必死に視線を巡らせて。
 昨日の夜かかってきた電話で、『改札を抜けたらすぐにみどりの窓口がある。迎えに行くからそこで待ってろ』と言われたのである。
 自分の誕生日を忘れている彼がじれったくて、つい怒鳴ってしまった前日の電話のことは怒っていないようで安心した。
 それどころか、たぶん喜んでくれている。 声を聞けばわかる、なんて言ったら自惚れすぎだろうか。
 土曜日に神戸へ行く、と言い出した理由に気づいたはずなのに、何故かそんなことは一言も話題に出さない彼。 まるで今回の神戸行きが前々から決まっていたかのように、簡潔に新幹線の発着時刻と待ち合わせ場所を告げてきたのである。
 いつもより早起きしたせいで込み上げてくるあくびを噛み殺し、少し滲んだ視界の中で目に止まったのは、自分と同じように誰かを探してきょろきょろする初老の男性の姿だった。 仕立ての良さそうな服装は、何かの制服だろうか。 白い手袋をした手に持っている帽子に気づいて、きっとタクシーの運転手さんなんだろう、と納得した。
「……え?」
 ふと目が合った瞬間、男性はにっこりと微笑んでから近づいてくる。 まさか、不躾にじっと見ていたことを咎めようというのか。 だとしたら、あんな優しそうな笑顔をするはずはない。
「── 失礼ですが、小日向かなで様でしょうか?」
 じりじりと後退り、後ろのガラス壁にトンと背中がついた時、目の前に迫った男性にそう尋ねられた。
「えっ !?  あ、は、はいっ!」
「お待たせして申し訳ございません。 私は東金家の運転手をさせていただいております、中野と申します。 千秋坊ちゃんのお言い付けで、お迎えに参りました」

 ふかふかの座席の隅に小さくなって座っているかなで。
 連れて行かれた駐車場で、どうぞ、とわざわざ扉を開いて乗るように勧められたのは黒塗りの大きな高級車だった。
 駅に着くまでに考えていた予定では、迎えに来てくれた東金に近くの公園か何かに案内してもらって1時間ほど過ごしたら、そのまま新幹線で横浜に帰るつもりだったのに。
 ── ま、まさかいきなりのお宅訪問っ !?
 思いがけない展開に、かなでは膝の上の荷物をぎゅっと抱き締める。
 ── ど、どうしようっ !?  『ご両親にご挨拶』なんて日がこんなに早く来るなんてっ!
 真っ赤になって俯くかなでには、窓の外を流れる神戸の景色を楽しむ余裕なんてあるはずもない。
「── 長旅でお疲れでしょう。 到着まではわずかの時間ですが、お気を楽になさって寛いでいてください」
「えっ、あっ、ありがとうございますっ」
 急に話しかけられて、がばっと顔を上げたかなでの声は見事に裏返った。
「なっ、なんだかお姫様になった気分ですっ」
 自分の父親よりも確実に年上の人に労われ、何か言葉を返そうと必死になって捻り出した。 ミラー越しに見えた中野の目は相変わらず優しく笑っていて、かなでは恥ずかしさにますます真っ赤になった。

「── 着きましたよ」
 声をかけられ顔を上げると、フロントガラスの向こうに立派な門が見えた。 その奥にはレンガ造りの立派な建物がそびえている。
「わ……さすがお金持ちのおうち……」
 思わず出た呟きに、中野が僅かに首を傾げた。 直後、くすっと笑って、
「東金家の本邸はもう少し小さいですよ。 敷地はここの何倍もありますけれど」
「えっ、じゃあ……ここは?」
「千秋坊ちゃんの通われている神南高校です」
「え……」
 水路の流れる正面通路をぐるりと迂回して、車は大きな建物の前で静かに停止した。 と、中野が携帯を取り出して、どこかに電話をかけ始める。
「── もしもし、中野です。 只今到着しました」
 中野はそれだけ言って電話を切ると車を降り、かなでが呆然と座る後部座席のドアを開けてくれた。
「お疲れ様でした」
「す、すみませんっ!  どうもありがとうございましたっ!」
 転がるように車を降りたかなでは、微笑みながらドアを押さえてくれている中野に向かって深々と頭を下げた。
 その時、目の前の建物の大きな扉がガチャリと音を立てて開いた。
「よう、かなで── 神戸へようこそ」
 つかつかとやって来た東金は、かなでが抱える荷物を見て目を瞬いた。
「やけに大荷物だな。 泊まるつもりだったのか?  だったらゲストルームかゲストハウスの準備をさせ──」
「ちっ、違います違いますっ!  帰りますっ!  日帰りですっ!」
「……なんだ、つまらんな」
 頭をブンブンと振り、かなでは目いっぱいの否定をする。 東金は言葉通りつまらなそうに眉をひそめると、かなでの腕の中からひょいと荷物を取り上げて、空になった細い腕をきゅっと掴んだ。
「ご苦労だったな、中野。 帰りは4時に頼む」
「かしこまりました」
 目の前で繰り広げられる非現実的な光景に、かなではぽかんと口を開けて見入っていた。 年若い青年が命じ、それに初老の男性が頭を下げるなんて。 まるでドラマか映画のワンシーンに紛れ込んでしまったような錯覚に陥ってしまう。
「ひゃっ !?」
 急に腕をくいっと引っ張られ、かなでは思わず悲鳴を上げた。
「ほら、早く行くぞ」
「えっ、あっ、ど、どこへっ !?」
 引っ張られながら後ろを振り返ると、頭を上げた中野が優しい笑みを浮かべて見送ってくれていた。

*  *  *  *  *

 土岐が何気なく後ろを振り返ると講堂の入り口の扉が開き、ついさっき携帯を握り締めてものすごい勢いでここを飛び出していった東金がちょうど戻って来たところだった。
 続けて現れた姿に驚いた。 なるほど、彼が朝からそわそわするはずだ。 おっかなびっくりの様子で講堂に入って来たのは、横浜にいるはずの小日向かなでだったからだ。
 二人は最後列の座席に並んで座り、何やら小声で話している。
 呆れたように目を細めた時、ステージで演奏されていた楽章が終わった。 腕を持ち上げ時計を見ると、12時まであと10数分。
「少し早いけどキリもええし、昼休みにしよか」
 東金が連れてきた少女にざわつく部員たちにそう告げて、座席の間の通路を後ろへと歩いて行った。
「── あっ、蓬生さんっ!」
 ひらひらと手を振ってくれる彼女ににっこりと笑みで答えて。
「なんや小日向ちゃん、来るんなら言うてくれたらええのに」
 彼らの座る座席の前列に入り、その前の座席の背もたれに腰を落としながら腕を組み、少し拗ねたように言ってやった。
「お前に言う必要はないだろ。 かなでは俺の誕生日を祝うために来たんだからな」
 若干『俺の』に力を込めながら、東金が自慢げに口の端を上げた。
「でもおととい電話した時、東金さんってば自分の誕生日、忘れてたんですよぉ」
 かなでの口調は、友達の悪戯を先生に告げ口する小学生のようだ。
「誕生日を心待ちにする年でもないだろうが」
「じゃあ帰ります」
 腰を浮かしたかなでの腕をすかさず掴み、ぐいっと引っ張って座らせる東金。
「駄目だ。 俺が満足するまで帰さねえ。 4時に迎えがくるまで、お前も一緒に練習見てろ」
「もう……わがままなんだから」
 二人のやり取りを最後に目にしたのはたった1週間前だというのに、バカップル度に拍車がかかっているように思えるのは気のせいだろうか。 土岐は思わず苦笑した。
 ステージを下りた部員たちが横の通路を通り過ぎていく。 飲食厳禁の講堂を出て昼食を取るためなのだが、ファンクラブがあるほど人気者の二人と見知らぬ少女のやり取りに興味津々といった感じでその歩みは不自然なほど遅い。 中には少し離れた場所から明らかにこちらの会話を聞き取ろうと立ち止まっている者もちらほら見られた。
「で、もしかしてわざわざプレゼントでも届けに来たん?」
「あー……本当は何か買って送ろうと思ってたんですけど……これだ!っていうものが見つからなくて」
 残念そうに目を伏せたかなでは、隣の座席に置いてあった荷物をひょいと取り上げ、膝に乗せた。
「だから、お弁当作ってきました!  東金さんの好きな物、いっぱい作ったんですよ♪」
「かなで……」
 ふわりと笑う彼女を見つめ、その名を呟く東金は明らかに感動しているように見えた。
 はるばる横浜から手料理持参なんて、彼でなくとも感動ものだろう。 おまけに彼女の料理の腕は下手な料理人より確実に上であることは実証済みである。
「あ、でも今日練習してるって知らなくて、二人分しか── きゃっ !?」
 申し訳なさそうに俯く彼女の最後の悲鳴は、東金に肩を抱き寄せられたから。
 同時に遠巻きに耳をダンボにしていた女子部員から『キャーッ!』と黄色い声が上がり、男子部員からは『うおおおおっ!』と地を這うようなどよめきが起きた。
「かなで……俺は今、無性にお前にキスしたくてたまらないんだが、今したらさすがに怒るよな?」
「すごい……ひとつ年を重ねた途端、分別というものが芽生えたんですね」
「……おい、それはどういう意味だ…?」
「言葉のままの意味ですけど」
 この東金千秋という人間に向かってここまでズバリと言いたいことを言える女子は、この神南高校にはいない。 星奏の生徒である彼女がここにいるという異質な光景が、更にそれを強く実感させる。
 そう考えた瞬間、土岐は込み上げてくる可笑しさを堪え切れずに吹き出していた。 寄せ合ったまま見上げてくる怪訝そうな二つの顔に向け、
「せっかくのお弁当、はよ食べんと時間なくなってしまうで?」
「……それもそうだな。 中庭にでも行くか」
 立ち上がった東金はかなでの手を引き、二人の会話を耳にしてほんのり顔を赤らめた部員たちを掻き分け、講堂を出て行った。
 それから土岐はふと首を捻って考え込み、しばらくして何かを思いついたようにニンマリするとおもむろに携帯を取り出した。
「── ああ、千秋?  午後の練習には出んでええよ」
『はぁ?  なんでだ』
「あんたら二人がおったら、部員らの気が散ってしゃーないわ」
『………っ』
「……4時までなんやろ?  小日向ちゃんの相手してやったらええ」
 溜息混じりにそう告げると、サンキュ、と彼には珍しく照れ臭そうな答えが返って来た。
 パタン、と畳んだ携帯をポケットにしまい込み、ふふっ、と楽しげに笑った土岐は、僅かな量の昼食を調達するため近くのコンビニに向かうべく、 ざわめきの収まりきらない講堂を後にした。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 一応日にちと曜日は2011年になってる……はず。
 最後に『いいひと』蓬生さんが全部持ってった(笑)
 今回のポイントは『千秋坊ちゃん』(笑)

【2010/06/09 up】