■SEASONS【I.Autumn(3)】
あっという間にやってきた週末。
東金がツレと共に訪れたのは、夏にコンクールが行われたみなとみらいホールである。
続々とホールに入っていく人の流れを目にして、準備期間が短いわりにこれほど大々的に開催するとは大したものだ、と少しばかり感心しつつ。
受付で単色コピーの簡単なプログラムを受け取ると、その横に置かれた箱に目が止まった。
コンサート自体は無料だが、そういえば彼女が『チャリティー』と言っていた。
箱は募金箱で、チャリンチャリンと小銭を入れていく客の中、東金は福沢諭吉の肖像のある紙幣を1枚入れてやる。
それを見ていた周りの客や、箱の向こうで募金を呼び掛けていたボランティアが目を瞠っているのに思わず苦笑した。
客席に入ると、ステージに近い前の席には小さな子供たちの集団が占めていた。
『施設の子供たちを招待する』と言っていたな、と思い出しつつ、そこから離れた後ろの方の席に腰を下ろした。
本当は極力前の席で聞きたかったが、演奏されるのは子供には少々敷居の高いクラシックである。
すぐに集中力を切らして騒ぎ始めるに決まっている。
邪魔されるくらいなら、少しでも離れた場所で聞こうと思ったのだ。
手元のプログラムにざっと目を通し、交響曲の演目を見てクスリと笑う。
どうやらハープは諦めたらしい。
その辺りを後で聞いてやろうとこっそり笑う東金にとって、今日のコンサートも楽しみだったが、その後の楽しみのほうが大きいのかもしれない。
ちょっと時間を潰してから、少し早目の夕食を中華街で、ということになっている。
残念なのは二人きりではないことと、最終の新幹線で神戸に戻らなければならないこと。
開演を告げるアナウンスが流れた後、照明が落とされた。
まずは星奏のアンサンブルが2曲。
どちらもコンクール決勝で演奏したもの。
『演奏を聞いてもらうのが楽しい』と言っていただけあって、ステージの上でライトを浴びるかなではとても楽しそうにヴァイオリンを奏でていた。
『調子がいい』というのも本当らしく、音の伸びもいい。
また腕を上げた、と素直に思えるいい演奏だった。
食い入るように耳を傾けている聴衆を見ると、自分のことのように誇らしい。
盛大な拍手を受けて袖に下がったかなでたちと入れ替わりに舞台に登場したのは、天音のピアノトリオ。
ピアノに向かうひ弱そうな男を見て、『ああ、あれが天宮か』──
ふん、と小さく鼻を鳴らした。
始まった演奏に、不本意ながら息を飲む。
コンクールの時には『空々しい』と思った演奏は、同じ曲であるにもかかわらず、余裕と深みが感じられた。
競うための音楽ではなく、楽しむための音楽だからだろうか。
3人の音は見事に寄り添い合っていた。
宿敵・冥加玲士の、前とは違った優越感のようなものを感じる演奏姿に、東金は思わず奥歯をギリと噛み締めた。
ぱ、と照明が灯る。
15分間の休憩である。
トイレに行くのか、ロビーで休憩するのか、ざわめく客席に人の動きが生まれる。
暗い舞台の上ではオーケストラの準備で椅子を抱えたスタッフが忙しく動き回っていた。
「── ねえ、せんせー!
とらんぺっとは?」
「次の曲には出てくるわよ」
「ほんと?」
「ええ、他にも前に大学のお兄さんたちが見せてくれた楽器がたくさん出てくるのよ」
「わあい!」
座席の横の通路を上がっていく数人の子供、その後ろからついて来ていた大人の会話が聞こえた。
あれが招待された施設の子供なのだろう。
話からして、星奏の大学生が楽器を携え慰問をしているらしい。
ある程度クラシックに馴染んでいるのなら演奏中に騒ぐこともないだろう。
もう少し前の席に陣取ればよかった、と少し後悔した。
「── なかなか本格的やねぇ」
隣の席で土岐が感心しきりに呟いた。
「次の交響曲もお誂え向き、ていうか」
「そうだな」
演目はベートーヴェンの交響曲第7番。
華やかで勇ましくもあるこの曲は、好きな部類に入れていい一曲である。
CMなどでも使われていて、素人にも耳馴染みの曲だろう。
そうこうしているうちに席を外していた客が戻ってきて、照明が落とされると同時にせわしないざわめきがすぅっと波が引くように静かになっていった。
オーケストラがぞろぞろと列をなして舞台袖から姿を現し、ステージに並べられた椅子が徐々に埋まり始めた。
今日のコンマスは如月兄が務めるらしい。
その隣に冥加。
ライバル視している2人が並んで座っているのが奇妙な感じがして面白い。
「── っ !?」
「千秋」
思わず立ち上がりかけた東金を、クスクス笑いながら土岐が制した。
東金が慌てた理由──
冥加の隣にかなでが腰を下ろしたのだ。
彼女はさらにもう1つ奥の席に着いた如月弟と楽譜を見ながら何やら囁き合った後、事もあろうに冥加に話しかけた。
そして小さく頷いた冥加に、ふわっと花が咲いたような笑みを返したのである。
「あいつ…っ!」
「千秋、落ち着きぃ」
他の男と一切口をきくな、とは言わない。
言ったところで不可能なこともよくわかっている。
けれど東金にとって彼女は、できることならずっと自分の腕の中に囲い込んだまま、他の男の視線にすら晒したくないほど愛しい存在である。
『他の男』が今一番倒さねばならない敵ならば尚のこと、彼女の髪の毛一本たりとて拝ませてやりたくなどない。
── そんな奴に笑顔を振りまくな!
もったいないだろうが!
一気に不機嫌になった東金は、約40分間の交響曲の演奏中、ずっと仏頂面で過ごすことになった。
* * * * *
コンサートの後のホール前には人垣と黄色い声があった。
人待ち中の西の王子様2人を見つけた女性たちが集まって来たのである。
ほとんどが客席で彼らを見つけて、コンサート終了と同時に追いかけてきていた。
だが仏頂面を崩さない東金がファンの声に応えることはなく、辟易とした呆れ顔の土岐が『今日はプライベートなんよ』と苦笑しつつやんわりと拒絶すると、次第に人垣は崩れて消えていった。
しばらくすると、閑散としたホール前に後片付けを終えた制服姿の集団がぞろぞろと姿を現し始めた。
じっと凝視していると、見慣れた顔の一団。
その中の一人がぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「どうでしたか、コンサート!」
キラキラした目で見上げてくるかなで。
先行ってんぞー、と声をかけてきた如月弟に、すぐ行くー、と答えてから、またキラキラの目で見上げてくる。
まるで『誉めて誉めて!』とせがむ子供のようだ。
── 『可愛さ余って憎さ百倍』なんて絶対ありえねえ。
誰彼かまわず愛想を振りまく彼女に怒っていたはずなのに、つい頬が緩んできてしまう。
だが、素直に『いい演奏だった』と言ってやるのも癪なので、彼女のふわふわの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻き回した。
誉められていると解釈したのだろう、かなではくすぐったそうに首を竦めながら、嬉しそうにクスクス笑った。
と、ふいに眉を曇らせた彼女が、
「えと、それで……申し訳ないんですけど……」
「ん? どうした?」
「急にこれから打ち上げをやることになって……あ、近くのファミレスなんですけど……すぐに抜けてくるので、ちょっとだけ待っててもらえませんか?」
片手で乱れた髪を整えながら、申し訳なさそうに俯く。
「ああ……そういやお前、コンサートの責任者とか言ってたな。
責任者が打ち上げに顔出さないわけにもいかねえか」
「ええよ、どうせ少し時間潰そ言うてたんやし」
「じゃあ、抜けたら連絡しますね」
「ああ、あんまり待たせるなよ」
「はい!」
踵を返したかなでが、なぜかすぐにぴたりと足を止めた。
「── 小日向さん、打ち上げに行くなら、一緒に行こうか」
彼女に声をかけたのは天音のピアニスト──
天宮だった。
いつからそこにいたのか、柔らかい笑みを浮かべて立っている。
くるんと身体の向きを変えて駆け寄ってきたかなでがクイクイっと袖を引っ張る──
東金の、ではなく、土岐の袖を。
「おい……なんで俺じゃなく、蓬生に行く…?」
低い声で唸って睨んでやるものの、それを見ていないかなでは口の横に手を当てて土岐の顔を見上げていた。
苦笑しながら土岐が彼女のほうへと身体を傾ける。
典型的な内緒話シーンを見せ付けられて、東金のこめかみがヒクヒクと引きつった。
「───── ああ、そうやったん」
今度は口元に手をかざした土岐が、かなでの耳元で内緒話。
「─── えっ、そ、そうなんですかっ !?」
ほんわりと顔を赤らめたかなでがトボトボと近づいてきて、同じように口の横に手をかざす。
── 今度は俺と内緒話か?
一応身体を傾けて、耳を近づけてやる。
「(……あ、あのですね、その人、前に東金さんが盗み聞きした時に私が話してた『恋人ごっこ』を持ちかけてきた人なんです)」
「……盗み聞きって……お前な」
余計なことを吹き込んだツレをジロリと睨みつけ。
だがなるほど、話は理解した。
今の内緒話は目の前で微笑んでいる非常識男に対する配慮だったらしい。
露骨過ぎて、逆に失礼になっている気がしないでもないが。
彼女の顔が赤いのは、必死に『花』を探していた頃のあの会話を東金自身に聞かれてしまっていたことを知った恥ずかしさからだろう。
「いやだな、目の前で内緒話されると気になってしまうよ。
内容を聞くのは怖いけれど」
相変わらず微笑みを絶やさない天宮。
その背後に大きな人影が現れた。
「── 何をしている、天宮」
「ああ、冥加。
打ち上げに一緒に行こう、って小日向さんを誘っていたんだ」
「小日向…?」
険しい目つきが僅かではあるが明らかに和らぎ、かなでへと向けられる。
だが彼女の隣に立つ東金に気付いた瞬間、現れた時よりもさらに険しくしかめられた。
「……小日向、貴様がそんなくだらん俗物と付き合いがあるとは思わなかった」
「ハッ、『俗物』だと?
言ってくれるじゃねえか」
キン、と空気が凍った。
二人の間に火花が散るのが見えるような気がするほど緊張が張り詰める。
それをいとも簡単に打ち破ったのは、かなでが発した『えへっ』という気の抜けるような笑い声だった。
彼女は擦り寄るように東金に近づく。
腕と腕とをぴたりと寄せ合わせると、
「── はい、私たち、絶賛お付き合い中なんです♥」
瞬間、冥加が目を見開いて、ぽかんと口を開けた。
ダメ押しに、かなでは東金の顔を下から覗き込み、にっこり笑って『ね♪』と一言。
関西の人間としては『それは『付き合い』の意味が違うやろ!』とツッコむのが義務なのだろうが、今の東金にそんな余裕があるはずもなく。
がばっと彼女を抱き寄せて、こめかみ辺りにこれ見よがしの熱烈なキスを贈る。
「もうっ!
人前でキスしちゃだめって何度言ったらわかるんですかっ!」
「だからこめかみで妥協してやってるだろ。
それに、お前のそのセリフはもう聞き飽きた」
真っ赤な顔で暴れる彼女をがしりと抱き締めて離さない東金は、口調はうんざりといった風だがどうしようもないほど口元が緩んでいる。
「── というわけで、かなでは俺が連れていく。
冥加、星奏の奴らにそう伝えておけ!
ハッハハハハッ!」
東金は鬼の首を取ったかのような高笑いを上げ、『打ち上げ〜!』と叫ぶかなでを半ば強引に引きずっていく。
「ほな、伝言頼むわ」
いまだ動けないでいる冥加に向けて、土岐はにっこりと笑ってそう告げると、じゃれ合いながら中華街の方へと向かっていく親友たちを急いで追いかけた。
* * * * *
【おまけ】
「── だそうだ」
打ち上げが行われているファミレスにて、不本意丸出しの顔をしながらも律儀に伝令役を果たした冥加。
「あー、東金のやりそうなことだなー」
「まあ、二人は遠距離恋愛中だから、少しでも長く一緒にいたいんだろうね」
「まったく、いつも公衆の面前でイチャイチャと……破廉恥にも程がありますよ、あの二人は!」
「……小日向が楽しんでいるなら、それでいいだろう」
伝えた星奏のアンサンブルメンバーの反応に、再び言葉を失う冥加であった。
【プチあとがき】
ごめんねっ!
一部の方々の期待を裏切っているかもしれませんっ!
冥加さんが気の毒すぎる(笑)
天宮さんがほんとにただのヘンな人に(汗)
いいの、東金さんが幸せならそれで(笑)
前半とおまけは不要だったかもしれないな。
それにしても、うちの東金さんは相変わらずヘタレ気味……
あ、『盗み聞き』の話は「彼と彼女と彼のツレ【4】」を復習してくださいませ。
【2010/05/28 up】