■SEASONS【I.Autumn(1)】
9月──
まだ夏の名残りが色濃い季節。
神戸在住の東金千秋はひとり新横浜駅の新幹線ホームにいた。
これから向かうのは、夏のひと月を過ごしたことのある古びた洋館。
『幽霊屋敷』と揶揄されるほど老朽化した学生寮で咲く、一輪の美しい花に会いに行くためである。
「── 無理、しないでくださいね」
歩き回って渇いた喉を潤すべく入った喫茶店で唐突にそう言ったのは、過ぎていった夏に手に入れた花・小日向かなで。
「……無理?」
おうむ返しに聞き返すと、テーブルの向こう側でかなでがこくんと真剣な顔で頷いた。
土曜日である昨日の午前中に横浜にやって来て、ランチの後は寮で一緒にヴァイオリンを弾いたり、彼女手作りのお菓子をお供にお茶を楽しみながらゆったりと過ごした。
もちろん電話やメールによってこの1週間の出来事はお互いあらかた知っている。
けれど、身振り手振りを交えつつ、顔を見ながら話せるのはやはり楽しかった。
完全な私用で来ている今、さすがに寮に泊まるわけにもいかず近くのホテルに一泊。
明けて日曜日の今日、ホテル近くで待ち合わせたかなでと街を歩き回った。
彼女が興味を示した店に入ることもあったが、一番の目的は不動産屋巡り。
星奏学院大学への進学を決めた東金の住居探しである。
彼女の高校卒業後を視野に入れ、2人で暮らしても十分な広さのあるマンション(まだ彼女にはそうとは言ってないけれど)を探している。
自分は神戸の人間だという自負のある彼は横浜に骨を埋める気はないので、賃貸で十分だと考えていた。
確かに彼女が無理をするなと言う程度にはハードスケジュールなのかもしれない。
平日は本分である学生として神南高校に通っていて、部活にもまだ顔を出しているし、副業ともいえる資産運用に関する情報収集にも余念がない。
もちろん遅まきながら受験へ向けた準備も始めた。
とはいえ、学校行事などで潰れない限り、今後半年間週末の横浜通いを続けるつもりでいたのだが。
だが決して短くはない移動距離のことも考え、彼女は身体の心配をしてくれているのだろう。
そう思えば東金の口元は知らず緩んだ。
「お前に会いに来る時間なんて、いくらでも捻出するさ。
それに今のうちから不動産屋に顔を覚えさせておけば、いい物件が出た時に優先的に知らせてくれるだろう。
いずれお前も住む部屋だ、妥協はしたくない。
そのための労力は惜しまないぜ?」
「でも」
今時珍しいほど純情な彼女のこと、ここまで言えばきっと照れて真っ赤になると思ったのに、実際の反応は全く違っていた。
顔色を変えることなくきゅっと眉根を寄せ、可愛らしい顔を歪める様子は泣き出す直前のようにも見えた。
「……私、7月に星奏に転校してきて、すぐ夏休みになって。
9月に入って本格的に授業が始まって、やっぱり音楽科の専門教科は大変だって思ったんです」
勉強が大変だから自分と遊んでいる暇はない、とでも言いたいのか。
それよりも、少し力を込めたつもりの『お前も住む』発言をスルーされたことが残念だと思っている自分に、知らず眉間の皺が深くなる。
「……それで?」
「友達に聞いたんです、音楽学部は楽典とかソルフェージュとかの試験があるって。
普通科にはそんな授業ないし、私も普通科から編入したばかりで誰かに教えてあげられるほど知識がないし……だからっ!
この半年は我慢の時期なんですっ!
勉強に専念してください!」
興奮気味に力説するかなでの拳が、ドン、とテーブルを叩く。
水の入ったグラスがガタッと揺れた。
「……お、お待たせいたしました」
ちょうど注文したメニューを運んできたウェイトレスが、苦笑しながらテーブルの傍に立っていた。
気付けば大声と物音に驚いた他の客からの視線がすべて彼女に注がれていて。
「ご……ごめんなさい…」
真っ赤になってしょんぼりと俯いた彼女の頭の天辺から湯気が上がっているように見えて、東金は思わず吹き出した。
「そんなに笑うことないじゃないですか……」
二人分のケーキセットをテーブルに置き終えたウェイトレスが去った後、小さな声でぼやくかなで。
真っ赤な顔で上目使いに睨んでくるその顔は、怖いどころか全然別の感情を抱かされる、なんて本人はわかっていないだろう。
「お前、俺が受験に失敗するとでも思ってるのか?」
「思ってませんっ!
でもっ……絶対合格してほしいから……」
呟くごとにさらに俯いて。
その顔はますます真っ赤に染まっていく。
── ああもう、なんて可愛いヤツなんだ。
二人の間にあるテーブルが邪魔すぎる。
せっかくの4人がけのテーブルなのに、どうして隣ではなく正面に座ってしまったんだろう。
隣に座っていれば、すぐに抱き締めることができたのに。
かなでは自分が横浜に来る春を待ち望んでいるのだ。
その気持ちを無碍にすることも、ましてや裏切ることなどしてたまるものか。
「── わかった……
確かにお前の言う通り、ナメてかかっていい問題でもないな。
しばらくは受験に専念させてもらうことにする」
顔を上げたかなでが、ほわっと笑みを浮かべた。
「私も質問に答えられるくらい、頑張って勉強します。
それから、不動産屋さんにもちょくちょく通いますから」
「ああ、頼む。
だが──」
逆接の言葉に小首を傾げる彼女に向けて、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「会いたくて我慢できなくなったら、いくらお前に止められても横浜に来るからな」
「ダメですっ」
即答で拒絶。
そこは真っ赤になって『はい』と頷くところじゃないのか?
予想外の反応に、思わずパチパチと瞬いた。
「── その時は呼んでください。
私が神戸へ行きますから」
えへっ、と照れつつも誇らしげに笑うかなで。
ああもう、ほんとに。
ここが喫茶店なのがまったくもって悔やまれる。
二人きりの密室なら、確実に押し倒しているに違いない。
「……毎週呼び付けるかもしれないぜ…?」
「構いません」
清々しいほどきっぱりとした答えが返ってきた。
こういうのが『床を転がり回りたい』ほどの歓喜というものなのか。
どうにも身体中がむずむずする。
「お前……そんなに俺のことが好きなのか」
「はい、好きです── あ」
うっかり口を滑らせた、とばかりにガバッと口元を手で覆い、真っ赤な顔を俯ける。
途端、静かな店内はくすくすと抑え気味の笑いに包まれた。
さっきの注目以降、客たちは二人の会話になんとなく聞き耳を立てていたに違いない。
なんともいたたまれない空気が落ち着かない。
救いなのは、深く俯いた彼女にみっともなく赤くなった顔を見られずに済んだことくらいのものだった。
* * * * *
楽しみにしていた横浜通いをやめたというのに、それほど不満には思わなかった。
呼べば会いに来てくれるという約束があるせいかもしれない。
9月最初の休日に横浜を訪れた時の彼女の憔悴ぶりには驚かされた。
離れていたのはたったの数日だというのに。
けれどあの時、自分が星奏を受ける気になったことを彼女はまだ知らなかったのだから。
今は彼女も落ち込むことはないらしい。
電話の声はいつも元気だし、メールで送られてくる写真も曇りのない笑顔。
先生に教えてもらった、とお勧めの書籍の情報を送ってくれたりもする。
春からの新生活を無事に笑顔で始めるためにも、今は耐える時。
けれど、声くらいは聞きたいと思うのも人情で。
本来なら翌日の逢瀬に胸躍らせているはずの金曜日。
10月の文化祭に向けて練習を始めた部活を終えて帰途に就きながら、東金はやけに落ち付いた気分で携帯を取り出した。
電話をかける相手はもちろんかなでである。
すでに6時を過ぎた今、彼女の練習の邪魔をすることもないはずだ。
『── あっ、はい、もしもし?』
もどかしい呼び出し音の後に聞こえてきた声に、思わず頬が緩んでしまう。
まだ外にいるのだろう、雑踏の音が背後に聞こえていた。
「ああ、俺だ。
今、話せるか?」
『えっ?
ごめんなさい、ちょっと聞こえなくてっ』
普段より大きな声。
電話の声が聞こえづらいと、話す声もなぜか大きくなるのは不思議なものだ。
思わず笑いながら、無意識に星奏学院周辺の地理を頭に思い浮かべた。
今どこにいるんだ、と聞こうとして、電話から聞こえてきた声に歩いていた足がぴたりと止まる。
『── 小日向さん。ああ、ごめん、電話中だった?』
『あ、すみません』
『少し急いでもらえるかな。君が来るのをみんな待っているから』
『わかりました、すぐ行きます── ごめんなさい、夜にかけ直しますっ』
そう言って、電話は一方的に切断された。
── みんな待ってる?
『みんな』って誰だ?
それより、今の男は一体誰なんだ?
しばらく呆然と手の中の携帯を見つめていた東金は、何かを決意したように携帯をパシンと畳み、ポケットに捻じ込んだ。
そして再び動き出した足が向かうのは自宅ではなく──
新神戸駅の方向だった。
【プチあとがき】
「彼と彼女と彼のツレ」をベースに、
出会いの夏から2度目の夏までの間の3つの季節を書いてみようと思います。
今回も見切り発車なので、どう転ぶかわかりませんが(汗)
実は「かれかの」の地の文には『小日向』『かなで』という文字は一切入ってないんです。
すべて『彼女』表記。気付いていてだけてましたか?
おかげで今もそのクセが抜けなくて困ってるんですが。
今回からはふつうに名前を入れていきます。
ま、どうでもいいことなんですけど(笑)
ともあれ、しばしのお付き合いをば。
【2010/05/17 up】