■彼と彼女と彼のツレ【24:和解?】
寮を出てからずっと振り返りもせず歩いていく彼女。
その後ろを黙ってついていった。
鍵をかけた部屋に閉じこもり、誰からのコンタクトも拒絶するかのように携帯電話の電源を切っていた彼女の怒りが相当なものであることも当然承知している。
もちろんその理由も。
『悪かった』と一言詫びれば、ある程度機嫌が回復するであろうことも。
彼女が向かっているのは恐らく星奏学院。
思った通り、正門へと入っていく。
レンガが敷き詰められた美しい広い通路は、ほんの10分ほど前まで怪しげな集会が行われていたのが嘘のようにしんと静まり返っていた。
かち合っていれば、集会の目的が目的だけに彼女はもみくちゃにされていただろう。
まあ、今は大きなマスクが顔の半分を隠しているから、意外とバレなかったかもしれないが。
彼女はまっすぐ校舎へと伸びる通路を左へと逸れていく。
その先は、ここに通う生徒たちの憩いの場である森の広場だ。
じわじわと梢から滲み出してくるようなセミの声を浴びながら、奥へ奥へと進んでいく。
広場の最奥部のひと際大きな木の下で、彼女はようやく足を止めた。
前にも一度、ここで彼女と食事をしたことがある、と思い出した。
その時は、自分が彼女を引っ張ってここへ来たのだ。
彼女は持っていた袋の中からビニールシートを取り出し、ばさりと広げて木陰へ敷いた。
穿いている六分丈の白いパンツに合わせた白いサンダルを脱ぎ、シートへ上がってちょこんと膝を抱えて座る。
大きなマスクの上のくりっとした目がジロリと見上げて来たので、東金も彼女に倣って靴を脱いでシートに上った。
長方形のシートの上に、向かい合わせではなく隣り合わせで座ってしばし。
ずっと無言だった彼女が小さく息を吐いてから呟いたのは、『ごめんなさい』のひとことだった。
「っ……なんでお前が謝るんだよ」
「だって……今日は一日、笑って楽しく過ごしたかった……今日が最後なのに……」
深く俯いた彼女の表情は帽子のつばに隠れて見えない。
マスクでこもった小さな声は震えていた。
今日は8月30日。
明日の朝の新幹線のチケットが、ジーンズの後ろポケットに突っ込んだ財布に今も入っている。
彼女の機嫌が悪いのは昨日の出来事のせいだと思っていたが、近くに迫ったしばしの別れを惜しんで悲しみに暮れていたからなのだろうか──
いや、彼女から感じる感情は悲しみよりもやはり怒りだ。
それでも彼女が別れを惜しんでくれていることを嬉しいと思う自分がいる。
「……馬鹿、勝手に最後にするな。
神戸と横浜なんて、新幹線でたった2時間半。
日帰りで十分行き来できる距離なんだぜ?」
片膝を抱えながら、ニッと笑って見せる。
が、彼女は恨めしそうなジト目を向けてきた。
「……いいですよね、さっさと神戸に帰っちゃう人は。
私なんて、誰かさんのせいで学校が始まったらみんなに何を言われるか…」
「言いたい奴には好きに言わせておけばいいだろ」
「っ !?
ひ、他人事だと思ってっ!
言われるのは私なんですよ!
恥ずかしいじゃないですかっ!
だいたい、どうしてあんな大勢の人の前で、き、キスなんかっ!」
羞恥心と怒りが混じり合った興奮が彼女の顔を赤く染めていた。
彼女が興奮すればするほど、逆に冷静になっていくのが不思議だった。
抱えた膝に顎を乗せ、ほぅ、と溜息を吐く。
「── お前にとって、俺にキスされるのはそこまで恥じることなのか?」
「『恥じる』のと『恥ずかしい』のは意味が違いますっ!」
チラリと横目で視線を送ると、彼女は逃げるように揃えて抱えた両膝に顔を伏せた。
「── 俺は昨日のことを謝る気はないぜ。
謝らなきゃならないようなことをしたとは思ってないからな」
がばっと顔を上げた彼女。
大きく見開かれた目がマスクの上に乗っかっているように見えて、思わず笑い出しそうになった。
「そもそも昨日のライブを計画したのは横浜の奴らに見せ付けるためだ──
『東金千秋の隣に立つにふさわしい女は小日向かなでだけだ』とな」
にやりと笑えば、彼女はハッと目を見開いた後で眉間に皺を寄せた。
意図に気づいたのだろう。
昨日のライブは彼女が今後敵意を向けられないようにするためのもの。
彼女の持つヴァイオリンという武器で、暴走気味のファンの嫉妬心を打ち砕いたのだ。
つい先日、全国の頂点に立ったアンサンブルの1stヴァイオリンだと気づいた者も多いだろう。
実力を示せば嫉妬は羨望と尊敬に変わる。
そうすれば幼稚な嫌がらせをする気など起きなくなるはずだから。
「── 正直言うと、キスまで披露する気はなかった。
気づいたらお前が腕の中でぐったりしてて驚いたぜ。
たぶん、お前と合わせた音に酔っていたんだろうな」
小さく笑いながら、彼女ににじり寄る。
困ったように視線を泳がせている彼女から帽子とマスクを取り去った。
そっと肩に腕を回し、マスクの下から現れたトマトのように赤い顔を覗き込むようにしながら、自分の顔をゆっくりと近づけていく。
「これでも俺はずっと星奏の奴らに嫉妬してたんだぜ?」
「え……?」
「俺は練習を見てやれても、同じステージ上がることはできない。
だから、神戸に帰る前に一度お前と一曲合わせてみたかった。
期待通り、お前とのアンサンブルは心地よかった──
無意識にキスしちまうくらいにな」
言うと同時に彼女の唇を軽く啄ばんだ。
途端、彼女の手がぐっと肩口を押し戻す。
「っ !?
せ、せっかくマスクしてたのにっ!」
「は…?
このマスクは変装用じゃなくてキス防止用か?
それなら俺がマスクを取った時点で言えよ」
呆れて言うと、彼女はさらに顔を赤くして、
「だ、だって、今は周りに人いないし」
「マスクでガードするほどキスされたくないんじゃないのか?」
「だからっ、キスが嫌なわけじゃなくて、その、人に見られるのが恥ずかしいだけでっ」
「俺は気にならないぜ。
誰が見ていようと、抱き締めたくなったら抱き締める、キスしたくなったらキスする。
それが俺の愛情表現だ。
いい加減理解しろよ」
腕を突っ張る彼女に負けじと、肩を抱く手に力を込めた。
「わ、私だって『こんなに素敵な人が私のカレシなんです』って自慢したいって思うこともありますっ!
でもやっぱり人前では恥ずかしいんですっ!
私の気持ちも理解してくださいっ!
── って、あれ?」
肩口にあった圧力がふっと消えた。
肩から外した手を、目の前でひらひらと振っている彼女。
その向こうに小首を傾げる不思議そうな表情が見えた。
「……カレ、シ…?」
「えっ、違うんですかっ !?」
今にも泣き出しそうに顔を歪める彼女。
思わず首を横に振った。
「いや、違わない。
違うわけがないだろ」
よかった、とほっとした顔で微笑む彼女。
思わず腕を回した肩をぐいっと引き寄せ、彼女の顔を胸にぎゅっと押しつける。
「あ、あの、東金さん…?」
「……いいから大人しくしてろよ」
彼女の口から出た『カレシ』という言葉にうっかりときめいてしまったなんて、口が裂けても言えるものか。
そうだよな、そうなんだよな、としみじみ実感していると、ふいに彼女がくすっと笑った。
たぶん自分の心臓がバクバクと早鐘を打っていることに気づいたのだろう。
けれどそんなのはもうどうでもよかった。
こんなにも俺の胸を高鳴らせるのはお前だけだ、とこの鼓動が伝えてくれればいいとすら思っていた。
「── あの、そろそろお昼ご飯食べませんか?」
心拍数が平常値近くまで戻ってきた頃、胸元から声が聞こえてきた。
そういえば、彼女は何か作ってきていたはずだ── 台所で凄まじい音を立てながら。
「そう、だな」
「本当はどこかに出かけたいなって思ってたから材料揃えてなくて、簡単なものしか作れませんでしたけど」
抱き締めていた腕を解放してやると、くすっと笑ってバッグの中からあれこれ取り出し始めた。
メニューは黄色が鮮やかな卵焼きに炒めたウィンナー、焼き鮭を混ぜ込んだピンク色のおにぎりにコールスローサラダ。
確かにシンプルなメニューである。
スプーンが添えられたコールスローを手に取ると、なぜか彼女が顔を赤らめた。
「あ、えと…その、刻めるものがキャベツしかなくて……刻み過ぎて歯ごたえがないかもしれません」
ギクリとした。
『嫌なことがあったら、みじん切りでストレス解消』と彼女から聞いたのは、ほんの数日前のことである。(『いんたぁみっしょん【5】』参照)
ひとさじ掬ってみると、ドレッシングで和えたキャベツの細かいこと。
料理と言うより工事現場のような音を立てていた彼女はどんな気持ちでこのキャベツを刻んだのだろうかと考えれば、急に申し訳なくなってきた。
「……悪かったな」
するりと謝罪の言葉が口から滑り出た。
謝らない、と豪語しておきながら。
「だったら、もう人目のあるところではキスとかしないでくださいね」
「……約束はできないが、努力はする」
「駄目です、約束してください」
水筒からお茶を注いだプラスチックのカップを目の前にガンッと置いた彼女。
いつにない押しの強さと迫力に、しぶしぶながら『わかった』と答えざるを得なかった。
「── それならお前は、人目のないところで俺に何をされても文句を言うなよ」
悔し紛れの意趣返し。
少し余裕を取り戻し、ニッと笑って置かれたカップを手に取り、冷たいお茶を一口啜る。
「……言いませんよ」
返ってきた答えにゴフッとむせた。
てっきり『何馬鹿なこと言ってるんですか!』とか返ってくると思っていた。
そうしたら、冗談だよ、と笑って──
気管に飛び込んだお茶が肺に沁みて痛い。
ゲホゲホと咳き込むと目尻に涙が滲んできた。
「おっ、お前っ、自分で何を言ってるのかわかってんのか?」
「わかってます……わからないほど子供じゃありません」
「っ……」
俯く彼女の顔は真っ赤になっている。
それこそ言葉の意味を十分承知している証だ。
「……一度口にしたんだ、撤回は許さないからな──
覚悟しとけよ」
こくん、と彼女は頷いた。
ごくり、と自分の喉が大きく鳴った。
明るい日差しの中、なんでこんな微妙な会話をしているんだろう?
まるで静かな夜のクラシカルなバーで、キャンドルのほのかな明かりに照らされてアルコールを嗜みながらするような会話じゃないか。
もちろん未成年なので、そんな場所でアルコールを嗜んだことなどないのだけれど。
場違いすぎて奇妙な感覚に囚われながらも、心臓はさっきよりも遥かに激しく脈打っている。
確実に動揺していた。
自分の全身が、真夏の日差しよりも熱い。
「く……食おうぜ」
「……はい」
せっかく作ってくれた彼女には申し訳ないが、口に入れた食べ物の味を楽しむ余裕など皆無だった。
【プチあとがき】
えと、いんたぁみっしょんで作ってたお弁当は別の場所で食べたんですよ。
つか、なんでこんな微妙な展開になっちゃったかなぁ…?
何を申し合わせてるんだ、コイツらは(笑)
今回、すんごい難産でした(汗)
東金さんがなかなか動いてくれないし、会話がかみ合わないし。
そんな君は自分から仕掛けたくせに反撃されてドギマギしているがいい(笑)
【2010/05/10 up】