■彼と彼女と彼のツレ【25:去り行く季節、巡り来る季節】
日が傾いてきて、暑さも幾分和らいできた頃。
学院から寮までの短い距離を会話もなく手を繋いで戻ってきた。
すぐ先にはもう寮の門が見えている。
握り締めた柔らかい手の感触に全神経が集まっているようだった。
「手を繋ぐ」なんて、最も初歩的なスキンシップがなんだか照れ臭い。
キスを交わすような仲だというのに。
おそらく昼に生まれた微妙な空気を引きずっているせいだろう。
そんな空気の中、ほとんど会話のないじれったくももどかしい半日が過ぎていった。
自分が男であり、彼女が女である以上、これまで全く考えたことはないとは決して言わないが、話題に出してしまうとやけに現実味を帯びてしまって妙に意識してしまう。
ただ愛おしいという気持ちに任せて抱き寄せたりキスしたりしていたが、その先にあるものを意識していた彼女の方がよほど現実的だったということか。
考えてみれば、ツレにあれこれ目撃されてバツの悪い思いをしたことがある。
なるほど、『恥ずかしい』というのは、あの時のいたたまれない感情と似たようなものなのだろう。
あんな思いをずっと彼女に強いてきたのかと考えると、悪いことをしたなと改めて思った。
こんなガキみたいな男、よくぞ愛想を尽かさずにいてくれたものだ。
手の中の柔らかさを確かめるように、知らず握る手に力が籠った。
はっと顔を上げた彼女。
だが、そちらへ顔を向けることができなかった。
やけに緊張する。
視界の端で、彼女が再び俯いた。
同時に、きゅっと手を握り返される。
なんだか安堵して、こっそりと深い息を吐いた。
「── 着いちゃいましたね」
残念そうに彼女が呟いた時には、目の前に寮の玄関扉があった。
「……そうだな」
「じゃあ、晩ご飯の時に」
「ああ」
手の中から彼女の手がするりと抜けていった。
淋しい、と思った。
彼女が引いた扉が、ぎ、と軋みを上げる。
途端、奥から騒々しい声が聞こえてきた。
「あ、えと、私はお弁当箱を片付けてから部屋に戻りますね」
彼女は声の聞こえる食堂の方へと向かいかけ、わずかに躊躇ってからゆっくり振り返った。
「あの……紅茶、飲みませんか?」
ここで離れてしまう名残惜しさは共通のものだったらしい。
「……ああ」
思わず緩んでしまった口元をそのままに頷くと、彼女も照れ臭そうに微笑んだ。
そして二人揃って足を踏み入れた食堂は、まるで小学生のお誕生会のような雰囲気へと変貌を遂げていた。
* * * * *
『さよなら素敵な夏!
みんなお疲れサマーParty!』
マジックで書かれた手作りの横断幕が貼られ、折り紙のチェーンで派手に飾り付けられた食堂に並んだのは、いつもよりちょっと豪華な夕食だった。
8月のほとんどをこの菩提樹寮で過ごした他校生たちの送別会である。
コンクールの思い出や音楽の話に花が咲き、1、2年生は来年の対決に火花を散らす。
『オレもかなでちゃんのファンクラブ会員になる!』と水嶋 新が騒いだことで初めて自分にファンクラブができたことを知った彼女がパニックになったり。
とにかく賑やかしいひとときが過ぎていった。
後片付けをしていると、彼女が食堂を抜け出していく姿が目に入った。
「ええよ、こっちは任しとき」
彼女の行動と片付けの手を止めた自分に気付いたのだろう、ツレの言葉に甘えて彼女の後を追った。
部屋に戻るのかとも思ったが、ラウンジに入ったところで玄関の扉が閉まる音が聞こえてきた。
音に導かれるように東金も外へと出る。
ゆっくりと寮の建物に沿って回り込み、辿り着いたのは裏庭。
2脚の長椅子の1つに、彼女がぽつんと座って星空を見上げていた。
「── 片付けをサボるとは、いい度胸だな」
ひと騒ぎしたせいか、普段の自分の態度がとれていることに安堵する。
月明かりの中、彼女が瞠目するのが見えた。
「といっても、ここにいる俺も同罪だ。
咎めは一緒に受けてやるさ」
くつくつと笑いながら、彼女の隣の椅子に腰を下ろす。
木材がみしっと軋みを上げた。
「……みんないなくなっちゃうんだなって思ったら、なんだか泣きそうで」
「『みんな』、か?」
「……だけじゃありませんけど」
淡い明かりの中でも分かるほど赤くなった彼女が拗ねたように唇を尖らせた。
「もう……『ファンクラブ』とか、訳わかりませんよね。
あさってからどうしよう……」
「お前の演奏に惚れたってことだ、堂々としてろよ」
「そんなこと言ったって…」
「それほど嫌なら……俺と一緒に神戸へ来い」
知らず神妙な声音になった。
言った後で心臓が痛いくらいに高鳴った。
以前同じ言葉で誘ったことがある。
けれどあの時より、今は言葉の重みは何倍にも増しているはずだ。
彼女はどう答えるだろうか?
彼女は俯いて、ゆっくりと首を横に振った。
「私は……ヴァイオリンの腕を磨きたくて、音楽科のある星奏に転校してきたんです。
コンクールに出て、その気持ちはもっと強くなりました。
だから……神戸には行けません」
「……だろうな」
「え」
彼女がぱちぱちと瞬きをする。
拍子抜けしたきょとんとした顔に、思わず吹き出しそうになった。
東金はゆっくりと椅子から立ち上がり、彼女の正面に立った。
「── お前が俺の勧誘に頷いた瞬間、俺はお前に幻滅していたと思う」
「っ……」
淡い明かりすら遮られた闇の中で息を飲んだ彼女に向け、すっと手を差し伸べた。
おずおずと乗せられた細い手をぎゅっと握り、ぐっと力を込めて引っ張り上げる。
勢い余って胸にぶつかってきた身体をそっと腕の中に閉じ込めた。
「お前は向上心が強い。
俺に何を言われても、見事に自分の『花』を手に入れた。
俺はその強さに惹かれたんだ。
なのにそのお前がたかが男一人のために意志を曲げるようなことをしてみろ──
そんな女、こっちから願い下げだぜ」
ぽかんとして見上げてくる彼女に、ニヤリと口の端を上げて見せる。
言葉にすればするほど、そうなのだと納得していく。
彼女が頷いてくれなくてよかったと思えた。
神南高校にいくらいい設備があったとしても、普通科しかない学校では音楽の高みを目指すための専門教育は受けられない。
せっかく咲いた美しい花、摘み取るような真似なんてできるはずもないのだ。
自分から一緒に来いと誘っておきながら、断られて安堵しているなんて、どこまでも矛盾した身勝手な言い分。
思わず笑い出しそうになった。
「でも……もしも神南に音楽科があったら……一緒に行くって言ったかもしれませんよ…?」
上目使いで確認するように聞いてくる彼女。
「それは……ヴァイオリンの腕を磨く意志を曲げたことにはならない…か。
もしもの話をするのはあまり好きじゃねえが……それなら大歓迎だな。
お前が嫌がっても、無理矢理にでも連れて帰る」
へらりと相好を崩した彼女が顔をぼふっと胸に埋めてきた。
あまりに可愛い言動に堪りかねて、結局彼女が悲鳴を上げるほど力を込めて抱き締めてしまうこととなった。
* * * * *
翌日。
別れは至極あっさりと、寮の前で。
「……そんな顔するな。
いつでも会いに来てやるさ」
悲しげに曇る彼女の頬を指先で撫でるだけに留めた。
星奏の自宅組も駆け付けての大人数の中でハグやキスをして、わざわざ彼女の機嫌を損ねることもないだろう。
『我慢』や『忍耐』というものを学んでみるのも悪くない。
大きな荷物は車に積んであるから身軽なものだ。
横浜でも大活躍したその車は、今朝やってきた東金家の使用人が運転してすでに神戸へと向かっている。
新横浜駅で逆方向へ帰る至誠館のメンバーと別れた。
彼らが乗った新幹線を見送って、その方向から滑り込んできた新幹線に乗り込む。
指定された座席に腰を下ろした途端、何かのスイッチをオフにしたかのように何も考えられなくなった。
「── 千秋」
声は聞こえていたけれど、答える気にも視線を向ける気にすらもなれない。
「千秋、外見てみ」
ほっといてくれ、と思いながら視線だけを窓へ向ける。
「……かなで…?」
窓の外にはついさっき寮の前で別れたばかりの彼女の姿があった。
胸元で両手をぎゅっと握り締め、今にも泣き出しそうな顔で。
大きく肩が上下させ、荒い息をする様子に胸が締め付けられた。
懸命に走って追いかけてきてくれたのだ。
「かなで!」
抜け殻のようだった身体は驚くほど俊敏に窓に張り付いた。
ほぼ同時に鳴り響く無情な発車のベル。
ゆるゆると景色が動き出す。
開けることのできない窓が腹立たしくて、思わず拳を叩きつけた。
走り始めた新幹線にいつまでも彼女がついて来れるわけもなく。
速さを増して流れていった景色の向こうで両手で顔を覆って膝から崩れる彼女の姿が目に焼きついた。
空気が抜けたようにぽすんと座席に腰を下ろし、肘掛けに頬杖をつく。
思考のスイッチはオンのまま。
それどころかブーストをかけたようにフル稼働している。
「── ふっ」
結論に達して、込み上げてくる笑いが思わず口から漏れた。
「千秋?」
「俺は決めたぜ、蓬生」
「……なんやの、突然?」
不思議そうに小首を傾げる土岐に向けて東金がニヤリと笑ったのは、西へ走る新幹線が名古屋を過ぎた頃のことだった。
* * * * *
9月4日──
新学期が始まってから最初の日曜日。
まだ夏の名残りを感じる生ぬるい風が流れ込む自室のベッドに転がって、ぼんやりと天井を見上げていた。
4日前の別れの日から、彼女の世界から色が消えた。
元々ぽやんとした印象の彼女ではあったが、そのぼんやりぶりは久しぶりに会ったクラスメイトたちを驚かせた。
授業を一緒に受けたのは休み前のたった1週間だったが、コンクールのステージで輝く姿を見続けてきた彼らには憔悴しきった彼女はまるで別人のように見えたのだ。
もちろん彼女を見かけてコソコソと何かを囁き合う生徒もいた。
けれどそんなことも気にならないほど、濃密で色彩豊かだった夏の思い出は彼女から生気を奪い去っていった。
毎日電話はかかってくる。
が、話している間はいいけれど、電話を切る瞬間が辛すぎた。
それに相手の淋しくもなんともなさそうな明るい声が癪に障った。
確かに『いくらでも日帰りできる距離だ』と言っていたから、彼にとっては遠く離れているという意識はないのかもしれない。
けれど、ほとんど浮かれているといえる声を聞くのは少し辛かった。
コツコツ、と扉を叩く音。
返事を待つこともなくギッと扉が開いて顔を出したのは、隣の部屋に住む友人だった。
「小日向、君に客だ」
「……誰?」
「行けばわかる。
ラウンジだ」
仕方なく重い身体を起こして、スリッパに足を突っ込んだ。
無理矢理立ち上がったところでニアに腕を掴まれて部屋から引きずり出され、そのまま連行される。
辿り着いたラウンジの入り口で、彼女の足は凍りついたように動かなくなった。
「………あ」
つい数日前まで当たり前のようにあった光景が、すっかり静かになったはずのラウンジに再現されていた。
* * * * *
座り慣れた椅子に深々と身体を預け、連れてきた後輩の淹れた紅茶を飲みながら待つ。
待つ時間がこんなにも楽しいと感じるなんて。
ふ、と笑みを漏らせば、隣のツレが呆れた顔で持参した神戸土産の菓子包みを開いている。
「………あ」
聞こえた弱々しい声に目を向ければ、驚きに目を見開く彼女が佇んでいた。
眩しい日差しを浴びて晴れやかに咲き誇っていた向日葵が、切なく萎れかけている。
電話の声が沈んでいたから、もしや、とは思っていたが──
自分との別れがそうさせたのだと確信した。
それが申し訳なくもあり、不謹慎ながら身悶えするほど嬉しくもあり。
ゆらりと椅子から立ち上がり、
「── いつまで俺を待たせるつもりだ?」
腰に手を当て、ニッと口の端を上げる。
泣きそうに顔を歪めた彼女が、だっと駆け出した。
そしてぴたりと足を止めたのは東金のすぐ目の前。
向かい合って話すには近すぎる距離。
目の前に見える彼女のつむじのあたりは、今まで寝転がってましたと言わんばかりに乱れていて。
その下でおろおろと所在なく動き回る手に彼女の逡巡がよく見て取れる。
何をしようとしているかなんて一目瞭然。
前にも一度、同じことがあったから。
口元に人差し指を立てたツレが、ラウンジにいた他の2人を引き連れて出ていった。
茶目っけたっぷりにウィンクを残して。
「どうした?」
わざと意地悪く問いかける。
彼女はまさに『清水の舞台から飛び降りる』ような気合いの入れ方でぐいっと両腕を伸ばしてきた。
とん、と肩にわずかな重みが落ちる。
それからぐっと踵を上げて背伸びして、ぎゅっと締めつけるように首にしがみついてきた。
「情熱的だな」
「だって……会いたかったから……」
ぐず、と鼻をすする音。
「いいのか?
人目のあるところで」
気を利かせてくれた親友のおかげで、この場には二人きりだけれど。
気付いていない彼女にわざわざ知らせることもない、なんてちょっとした悪戯心。
「……抱きつきたい時はこうしろって教えてくれたのは東金さんですっ」
あれほど人目を気にしていたというのに。
それすら気にせずこんな熱烈な出迎えをしてくれるとは、離れているのも悪くないと思ってしまうじゃないか。
腰に当てていた手を彼女の身体に回してぎゅっと力を込めながら、
「── 俺もお前に会いたかったぜ」
耳元で囁いた途端身を固くする彼女の反応は相変わらずで、思わず笑ってしまった。
* * * * *
「── さて、出かけるか。
ほら、さっさと支度して来い」
感動の再会に浸ってしばし。
抱き締めたままの彼女の背中をぽんと叩く。
「え、出かけるって……どこに…?」
「不動産屋だ。
いい物件は早めに押さえておいたほうがいいからな」
目をぱちくりさせて見上げてくる彼女の頭の上にクエスチョンマークがいくつも見えたような気がした。
吹き出しそうになりながら、乱れ気味の彼女の頭をぐしぐしと掻き回し、さらに乱してやる。
「俺は大学は星奏の音楽学部を受験することにした」
「えっ !?」
「冥加との決着がまだついてねえ。
普通科の部活レベルの俺が、音楽漬けのヤツと互角に渡り合ったんだ。
本腰入れて腕を磨けば、絶対に俺が勝つ。
次は国際コンクールで確実に仕留めてやる」
「じゃあ、春から……」
「ああ、俺の住まい探しだ──
部屋はお前が選べ。
台所の使い勝手なんかは使う本人じゃないとわからねえからな」
「支度してきますっ!」
目を輝かせて腕の中から飛び出していく彼女。
外で待ってるぞ、と声をかけ、玄関を出た。
そこに待ち受けていたのはツレの冷たい視線とわざとらしい大きな溜息。
この寮に自室のない今、仕方なく外に避難場所を求めていたらしい。
「……蜘蛛の巣に引っ掛かってじたばたする蝶々見とるようで、なんや切ないなぁ」
「は?」
「悪い蜘蛛に捕まって、今にも食べられてまう……はぁ、可哀想に」
「アホ、逆だ」
「はぁ…?」
「絡め取られて必死にあがいてるのは、俺の方だよ」
ああそうだ、こんなにも俺は彼女に溺れている──
思えばあまりに可笑しくて、笑いが込み上げてきて仕方ない。
「── お、お待たせしましたっ!」
転がるように玄関を飛び出してきた彼女に手を差し伸べれば、ちょこんと指先を乗せてきた。
「ああ蓬生、ついでにお前の部屋も決めてきてやる。
何かリクエストはあるか?」
「……俺は星奏受けるて一言も言うてへん」
振り返りざまの問いに返ってきたのは、不機嫌そうに眉を顰めた不服の声。
「そうか」
あっさり答えて、きょとんとする彼女の手をきゅっと握って引っ張った。
後ろから聞こえてきた『意地でも星奏に合格したるわ』というぼやき声にぶはっと吹き出し、大笑いしながら菩提樹寮の門を通り抜ける。
踏み出した一歩は、過ぎていった季節で見つけた愛しい存在と迎える新たな季節の始まりだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
終わった!
終わらせたっ!
こんなエンディングでもいいですか?
おいしく食べられてしまう気満々(?)な小日向さん……いいのかそれで?(笑)
いろいろとツッコミどころ満載ですが、その辺りは雰囲気で読み流していただけると……
最後は『東金←土岐』的BL臭がそこはかとなく……いえ、まったくその意図はありません。
あくまで腐れ縁的幼なじみの関係で。
無計画妄想暴走垂れ流しな長ったらしい話にここまでお付き合いありがとうございました。
わずかでも楽しんでいただけたなら幸せです。
【2010/05/13 up】