■彼と彼女と彼のツレ【22:ラストライブ】
サイレントヴァイオリンは空気を直接震わせ共鳴胴で音を増幅する代わりに、電気信号に変えてスピーカーから音を響かせる。 接続先をスピーカーからイヤホンに変えてしまえば、完全に自分の音の世界に入り込み、外界とは遮断されてしまうものだ。
彼女に与えたヴァイオリン──
どうしても貰えない、という彼女に妥協して、『贈与』ではなく『貸与』ということで落ち着いた──
の使用法を簡単に説明してやり、ざっと譜読みをしてから、少し音を出してみて。
時間が惜しい、とツレに頼んで買ってきてもらったテイクアウトのサンドイッチで少し早めの昼食を済ませた。
寝起きで連れ出されたせいで朝食抜きの彼女のことを考えてのことである。
ついでだから、と一緒にサンドイッチを摘まんだ土岐と芹沢が帰っていくのを見送ってから本格的に練習を開始して、
集中がふと途切れた時に見た時計の針はすでに午後のティータイムをしてもおかしくない時間を指していた。
少し休憩するか、と彼女の方を見れば、彼女は譜面台の上の楽譜を真剣な顔で見つめていた。
「……どうした?」
「えっ……あ、えと……」
カンタレラを近くのテーブルの上に横たえ、彼女の元へ。
何をそんなに真剣に見ていたのだろうかと、彼女の肩越しに譜面を覗き込んだ。
「これって、東金さんの楽譜ですか?」
「ああ」
「……すごいたくさんの書き込み……」
彼女は、ぱらり、とページを1枚めくった。
「俺の曲想を真似する必要はないんだぜ?
そんなもん無視して、お前はお前の演奏をすればいい」
「そうじゃなくて……こうやって東金さんはこの曲と向き合ったんだな、って思って見てました」
あくまで演奏のために必要なこととしてやったことではあるが、しみじみとそう言われると少し照れ臭くなってくる。
「こうやって……この曲とたくさん話し合って、あの演奏が生まれたんですね」
ふふっ、と笑って、さらにページをめくっていく彼女。
面白い表現をするものだ。
確かに曲を深く理解して自分の演奏を組み立てていく行程は『対話』と言っていいのだろう。
自分たちのライブを聞いて熱狂と興奮に包まれる者が多い中、彼女だけが静かに涙を流す、というのはそんな考え方から来ているのかもしれないと思った。
なんとなく、彼女の肩に腕を回す。
抱き寄せるのではなく、遠い方の肩に手首を乗せるだけ。
「なあ……この曲を初めて聞いた時、お前泣いてたよな。
どういう風に感じたんだ?」
「そうですね……かっこいいって思いましたよ」
「……そりゃそうだろう、演奏したのは俺だからな」
ふん、と鼻を鳴らすと、彼女はくすっと小さく笑った。
「それから、挑戦的だな、って感じました」
「挑戦的?」
「『どうだ、これでも食らえっ!』って鋭い刃物でグサグサ突き刺されるような。
殺される!って思いました」
ふむ、と唸って東金は考え込んだ。
曲のタイトル通り『死』をイメージさせる曲想を練ったのは間違いないが、少々自分の意図とはズレがある。
「……お前、感性が乏しいんだな。
俺のイメージは──
『恋』という名の甘い毒にじわじわと侵されて、迫り来る『死』に恐怖する。
だが、恋に死ぬなら本望だ、とな」
声音に甘い毒を滲ませるように、耳元で囁いた。
が。
「えーっ、嫌ですよぉ」
容赦なく切り捨てられてしまった。
「なっ…!?
お、お前っ、そこまできっぱり否定するなよっ!」
「だって、恋をしたのに死んじゃったら、もう好きな人とも会えなくなるんですよ?
そんなの嫌です、悲しすぎますっ!」
それから彼女は俯いて、『東金さんと会えなくなるのは嫌です』と小さな声で呟いた。
東金は息を飲んだ。
自分はもうすぐ神戸に帰る。
そうすれば出会ってから今までのように毎日顔を合わせることはなくなってしまうのだ。
それを遠回しに責められているような気がして胸がズキリと痛む。
肩に置いていた腕で彼女の頭を抱き寄せ、柔らかい髪に頬を擦り寄せた。
「── かなで」
そっと彼女の名を呼ぶ。
まだ呼び慣れていなくて、なんだかこそばゆい。
「── 俺と一緒に神戸に来い」
真っ赤になった彼女の顔を覗き込むようにして、自分の顔を近づけていく。
「だっ……ダメですっ!」
彼女の手がパシッと音を立てて顎へ。
ぐいぐいと押し戻そうとしながら、必死に顔を逸らしている。
「生活の心配は不要だぜ。
お前一人くらい、俺が面倒見てやる。
それに……なんだよ、今さらキスくらい」
「そうじゃなくてっ!」
彼女の叫びとほぼ同時に背後でカタンと音が聞こえ、彼女の頭を抱えたまま振り返った瞬間、ぼふんと顔から火を吹いた。
「── 一緒にお茶しよか思うて来たんやけど、俺らはお邪魔みたいやね。
芹沢クン、帰ろか」
「……そ、そうですね」
「ほな千秋、帰りは仲良う歩いて帰ってや」
「……お、お先に失礼します」
ひらりと肩越しに手を振った土岐、深く下げた頭を上げながら目を合わせないように後ろを向いた芹沢。
スタジオの扉が二人を外へと吐き出した。
がちゃり。
重い扉がゆっくりと時間をかけて閉まってから。
「………いたのか、あいつら」
「……はい」
「先に言えよ」
「蓬生さんたちがここに来たの、ずいぶん前ですよ。
てっきり知ってるとばかり……」
二人して湯が沸かせそうなほど熱くなった顔を寄せ合ったまま、しばらくの間動くことができなかったのは仕方のないことかもしれない。
── イヤホンでの練習中は周囲に注意しよう、と心に誓う東金だった。
* * * * *
山下公園の一画は黒山の人だかり。
神南の管弦楽部員たちが機材のセッティングを始めてから30分も経たないうちにこの状況である。
ファンクラブの情報網は想像以上の伝達能力を持っているらしい。
人が集まっていれば、好奇心に惹かれて来る者もいる。
膨れ上がった群衆の目は、まだ無人のステージに注がれていた。
そして王子様ふたりがヴァイオリンを手に歩いてくるのが見えると群衆は一気にヒートアップし、何かのイベント会場のような興奮に包まれた。
「── 今日はクソ暑い中、集まってくれてサンキュ」
張り上げているわけでもないのによく通る東金の声に、黄色い歓声が上がる。
「俺たちの横浜ラストライブ、存分に堪能していけよ」
再び上がった黄色い声に満足そうにニヤリと笑い、カンタレラに頬を寄せた。
切なくも激しいツィゴイネルワイゼンに始まって、土岐が1stを務める厳かなバッハ。
そこまでで土岐がステージを降りたため、彼のファンは残念そうな溜息を吐いた。
だが続く東金のヴァイオリンソナタで聴衆は甘い陶酔に包まれる。
幾分和らいだものの未だ夏を主張する太陽に照らされただけではない甘い熱が、まるで本当に酒に酔ったかのように聴衆の顔を赤く染めていた。
「── 次がラストだ。
しっかりと耳に刻みつけておけよ」
えーっ、もう?と不満そうな声が上がる中、東金は即席のステージの舞台袖に目をやった。
『プリマドンナ』を胸に抱えて立ちすくんでいる彼女。
土岐がそっと彼女の背を押した。
きっと聴衆は彼女の存在に気づいていなかったのだろう。
戸惑いのざわめきが聞こえてくる。
『あれ、うちの制服だよね?』
『あの子、どっかで見た気がするんだけど』
そんな声がちらほらと耳に入ってきた。
おろおろしながら聴衆の方へと向けた彼女の目が、ある一点で止まるのに気がついた。
彼女が見ているらしき方へ目をやると、そこには見覚えのある女──
夏祭りの夜、彼女に絡んでいた二人組の姿があった。
あんな出来事があったにもかかわらずライブに顔を見せるとは、たいした根性の持ち主だ。
賞賛に値する、と思わず笑い出しそうになった。
妬みの視線から引きはがすように彼女の手を引き、ステージの中央へ。
「── ここにいる奴らはこれから俺たちに身を焦がすような『恋』をする」
囁けば彼女は微かに眉を顰めた。
「墓場で眠る死人すら、恋をしたくて続々生き返ってくるぜ?」
にやり、と笑うと彼女がぷっと吹き出した。クスクス笑いながら、
「……それは怖いですね」
緊張が解れたらしい彼女の背中を励ますように軽く叩いてから、楽器を構えた。
後ろにいる芹沢に目配せし、彼女へと視線を向ける。
小さく頷く彼女と呼吸を合わせ、弦の上に弓を滑らせた。
弾き始めれば聴衆なんて関係なくなっていた。
ほとんど向かい合うようにして弾く彼女と何度も視線が絡み合う。
この曲を弾く自分を『挑戦的』と評した彼女。
ならば、と挑発するように口の端を吊り上げてやる。
すると彼女は逆にこちらを誘惑するかのように口元を妖しい笑みの形に歪め、強い眼差しを向けてきた。
ぽやんとして暖かく柔らかい彼女が、今は暗黒の世界に住む死神に取り憑かれているような──
いや、今の彼女は『恋』という呪いをかける魔女なのだ。
『死』を否定した彼女には悪いが、彼女の放つ強烈な恋情にならこの身を焼き尽くされても構わない。
そんな想いを抱きながら、東金は『死の舞踏』を踊り続けた。
スピーカーが空気を震わせるのをやめてからしばらく経って。
弾き切った二人が放心状態にある中、誰かが喉を詰まらせながら『ブラボー』と呟いたのをきっかけにして、盛大な拍手とブラボーの合唱、熱に浮かされたような甘ったるい歓声が湧き起こった。
思わず顔を見合わせる。
魔女の仮面を取り去ったいつもの彼女がへらりと笑った。
だが、恋の呪いにかけられたままの身体は無意識に動いていた。
片手で彼女をグイッと抱き寄せ、有無を言わさず口付ける。
すぐ傍の海上を進む大型船の汽笛が掻き消されるほどの凄まじい悲鳴で我に返った時、彼女が腕の中でくたりと意識を失った。
【プチあとがき】
あー、えーっと、やりすぎ…?
いやぁ、いろいろとツッコミどころがありますが……
これくらいのことやってくれてもいいんじゃないか、と(笑)
【2010/05/02 up】