■彼と彼女と彼のツレ【20:ファイナル】
そろそろ眠ろうとベッドに転がってみても、なぜか睡魔は訪れてはくれなかった。
ソロ決勝の時のツレの気持ちが今になって理解できた。
たぶん、緊張しているのだ。
明日は室内楽部門決勝。
自分が演奏するのなら、何があっても自分の責任下にある。
だが明日ステージへ上がるのは彼女。
大きな楽しみの中にわずかな心配が混じる。
電話をかけてみようかとも思ったが、きっともう眠っているだろう。
起こしてしまうのは忍びない。
それなら少し夜風に当たろうと、日付が変わっているにもかかわらず物騒にも施錠されていない勝手口から庭に出た。
テラスの長椅子にでも転がって、しばらく星空を眺めるのもいい。
向かったテラスには、意外なことに先客がいた。
「あ……東金さん?」
テラスの屋根に月明かりを遮られた闇の中から聞こえてきたのは、紛れもなく彼女の声。
「小日向か…?」
「はい」
「こんな時間に何してるんだ。
明日はファイナルだってのに、のんきなもんだな」
「えと……なんだか眠れなくて」
長椅子に近づくと、ようやく闇に慣れてきた視界の中で、椅子の先端にちょこんと腰かけたパジャマ姿の彼女が困ったように微笑んでいた。
椅子をまたいで座り、後ろから彼女の身体を包み込む。
こんな時いまだに身を固くする彼女のういういしさに思わず苦笑が漏れた。
「── 奇遇だな、俺も同じだ」
「あ、もしかしてテレパシー受信しちゃいました?」
「はぁ?」
「ここでずっと東金さんのこと考えてたから」
── ああもう、なんて可愛いことを言ってくれるんだ。
彼女を包む腕に思わず力がこもってしまう。
「どうしても考えてしまうんです──
もしこの夏、東金さんに出会わなかったら、今頃私は何をしてただろう、って。
きっとセミファイナルの後、来年は頑張ろうねってみんなで励まし合って、去年までと変わらないのんびりした夏休みを過ごしてたのかな、って」
「小日向……」
「だから、眠るのが怖いんです。
今日までの20日間、辛いこともあったけど、毎日がすごく輝いてて──
目が覚めたら全部夢だったらどうしようって考えると──」
「かなで」
ぴくりと肩を震わせた彼女が首を捻って振り返る。
すかさず身体を乗り出し、彼女に深く口付けた。
溢れ出す思いを深く刻み込むように。
「── これでも夢だと思うのか?」
唇が触れ合う距離でそう囁く。
荒い息を吐く彼女が首を小さく横に振った。
「だろ?」
満足いく答えに口の端を上げながら、それでも容赦なく再び口付ける。
これが現実なのだと教え込み、彼女の不安が消え去ってしまえばいいと願いながら──
「── もう……余計に眠れなくなっちゃうじゃないですか」
そろそろ眠らねば本気でまずい、と戻ってきた勝手口で、彼女がぷくっと赤い頬を膨らませた。
「お前……俺のソロファイナル前日のことを忘れたのか?」
「…………あ」
「目には目を──
『唇には唇を』だ」
ニヤリと笑えば、彼女は赤い顔をさらに赤く上気させた。
「明日は勝ちに行けよ。
優勝トロフィーを手にしたお前には、俺からの祝福のキスが待ってるんだからな」
「……なんかもう、ありがたみが薄れてます」
拗ねたように呟かれた声は、きっちり耳に届いていて。
悔しさ紛れに一瞬軽く唇を重ねてやった。
「っ!
……も、もう寝ます、おやすみなさい!」
「ああ、おやすみ──
かなで」
最後の一言にぽんっと顔を赤くした彼女がよろよろと女子棟へ帰っていくのを見送って、東金も部屋へと戻った。
今夜初めて呼んだ彼女の名前を口の中で反芻してみると、じんわりと胸の中が温かいもので満たされていくような気がした。
* * * * *
客席は溢れんばかりの聴衆で埋め尽くされていた。
ファイナルは図らずもホールのある横浜の地元校対決。
いやが上にも注目は集まった。
最初に演奏するのは、東金とソロで競い同率優勝を果たした冥加玲士率いる天音学園。
わざわざファイナルでメンバーチェンジしてきたチェリストが実力を発揮しきれていないらしいのが気にはなったが、
それをカバーして余りある優美なピアノと圧倒的な技術を持つヴァイオリンに会場は息を飲んで聞き入った。
「── はぁ……緊張するわぁ。
小日向ちゃん、大丈夫やろか?」
空調はちゃんと効いているというのに、扇子でぱたぱたと仰ぎながら土岐が呟いた。
「小日向には俺がきっちり指導してやった。
それをアンサンブルにまとめ上げたのは、あの如月だ。
不安要素がどこにある?」
「せやけど千秋……」
ぱちん、と閉じた扇子で彼が差し示したのは、自分の手元。
がっちりと握り合わせた指に力が入っているのが見た目にもわかる。
「あ」
「千秋かて『お祈りポーズ』やん」
「うっ、うるせえっ!
余計なこと言ってねえで──」
「あ、星奏の子らが出てきたで」
場内アナウンスと共に星奏のメンバーが舞台へと登場した。
思わずゴクリと喉が鳴る。
半円状に整列した彼女らは楽器を構え、目を合わせた。
音が聞こえてきそうな緊張した呼吸の直後、溢れ出したのは重なり合う弦の響き。
演奏された4曲は、どれも素晴らしいものだった。
結果発表を待つ会場もまだ余韻に浸りきっていて、席を立つ者はほとんどいない。
ただ、どこか他人行儀で空々しく聞こえる天音に対し、星奏は細かな1音までも見事に寄り添っていた。
それこそ嫉妬を覚えてしまうほどに。
発表を待たずとも、結果は明白だった。
ステージの上の彼女は光り輝いて見えた。
この会場の誰もが彼女に目を奪われているのかと思えば、本気で妬ましい。
彼女を見つめていいのは、自分ひとりだけなのに──
子供じみた独占欲に自嘲の笑みが浮かぶ。
「ほんま、ええもん聞かせてもろたなぁ……て、千秋?」
隣に顔を向けると、土岐が見開いた目をパチパチさせて覗き込んでいた。
ふ、と微笑んで、
「あの子に会いに行く前に、顔洗ったほうがええよ」
言われて顔に手を当てると、ぬるりと湿った感触があった。
人は感動すると自然と涙が零れてしまうらしい──
彼女の場合は感受性が強すぎるのか、ちょっと泣き過ぎだけれど。
「── ああ、そうする」
ポケットからハンカチを引っ張り出して顔を拭う。
会場に流れるアナウンスが『星奏学院』の名をコールした。
* * * * *
一足先にホールを出て待っていると、興奮した一団がぞろぞろと出てきた。
優勝を勝ち取った星奏学院の生徒たちである。
おそらくオーケストラ部のフルメンバーだと思われる集団に囲まれているのは今日ステージに上がったアンサンブルメンバー。
もちろんその中に彼女がいた。
出てきた時の興奮のまま、歓声と同時に小柄なチェリストが宙を舞い始めた。
「次は如月弟!」
「うおっ !?
なっ、やめっ」
抗議も空しく、彼も宙に放り上げられる。
顔を輝かせて見上げている彼女の姿がちらりと見えた。
あの弾けるような喜びを自分が率いる管弦楽部の部員たちに味わわせてやれなかった悔いが全くないと言えば嘘になる。
だが、あの敗北が彼女が輝くためのステップならそれでいいと思えた。
彼女を手に入れた自分の単なるワガママだと言われても構わない。
喜びは自分の手で掴み取ってこそ、本当の価値があるのだから。
部長、副部長の大きな図体が舞った後、
「── じゃあ次、小日向さんっ!」
女子生徒の声に我に返るや否や、東金は駆け出した。
集団の中心に引きずり込む魔の手から彼女を救い出し、触るなとばかりに腕の中に囲い込む。
「馬鹿かお前らっ!
スカート履いた女を胴上げする気かっ !?」
「え……」
「あ……」
バツの悪そうな顔を見合わせるオケ部員たち。
「……じゃああんた、小日向の代理な!」
ぐいっと腕を引っ張られた。
「なっ!
お、おいっ!
なんで俺がっ!」
こうして神南高校管弦楽部部長の東金は、興奮冷めやらぬ星奏学院オーケストラ部部員たちによって何度も空に放り上げられ、もみくちゃにされてしまうこととなった。
【プチあとがき】
キス魔暴走警報発令中!(笑)
せっかく同じ寮にいるんだから、電話で済ませて欲しくなかったんだ。
ちょっとやりすぎだけど(汗)
ファイナル後の胴上げであたしが抱いた疑問を東金さんに解決してもらいました(笑)
だからスカートの子を胴上げしちゃダメだってば(笑)
【2010/04/26 up】