■彼と彼女と彼のツレ【19:ホームワーク】
夏休みも残り1週間となったこの時期、ぐったりと疲れ果てていとこに連れて来られた水嶋 新により、
星奏学院オーケストラ部部長・如月 律が夏休みの宿題に手をつけていない、という一大事が発覚することとなった。
いくらコンクール優先とはいえ、学生の本分を疎かにしてはさすがにまずい。
他人事のように飄々としている本人よりも余程危機感を抱いた他校の部長の提案により大勉強会が始まり、
いつもは楽しい食事の場である食堂は一転図書館の閲覧室のような緊張感を持つ空間へと変わったのである。
── 面白くない。
食堂の片隅で紅茶を飲みながら、東金は心の中で吐き捨てた。
隣で同じく紅茶を啜っている土岐、その紅茶をサーブしたのは芹沢である。
神南高校の3人だけが優雅にティータイム。
なぜなら、ここで皆に混じって広げる宿題を持ち合わせていないからだ。
『出場者及び横浜遠征に同行する者は、出発までに宿題をすべて終わらせておくこと』
コンクール参加申し込みをした時点で、全国大会進出は当然のこととして部員全員にそう言い渡してあった。
ここにいる3人は出場者なのだから、もちろん今すぐにでも提出できる状態だ。
胸を張って自慢してもいい状況であるにも関わらず、このそこはかとない疎外感は一体何だろう。
それはすべて彼女の行動にあった。
勉強道具を抱えてきた彼女は、迷わず幼なじみの隣に座ったのである。
仕方がないと言えば仕方がない。
食堂内をざっと見回せば、学校ごとに綺麗に分かれて座っているのだから。
さらに星奏は学年で分かれている。
同じ学校、同じ学年となれば出された宿題も同じ。
違う学校、違う学年の自分に何ができるだろうか。
それでも『勉強教えてください』と彼女が頼ってくることを期待していたなんて、隣にいるツレに知られでもしたら大爆笑されかねない。
微かに眉間に皺を寄せてぼんやり眺めていると、彼女は幼なじみの二の腕をぺちぺちと叩き、テーブルに広げた問題集を彼の方へ寄せて何かを尋ねた。
彼は迷惑そうに、けれどまんざらでもなさそうに一言二言答えると、彼女は大きく頷いて再び問題集との格闘へと戻っていった。
* * * * *
「── ねえ、響也」
「ちょっとタンマ」
私の問いかけを遮った響也は後ろを振り返りながら『おい、大地!』と声を張り上げる。
すぐ行く、と答えた榊先輩はあっちこっちから呼ばれていて、大忙しで駆け回っていた。
「……ちっ、何回呼んだら来るんだよ」
ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がった響也。
呼んでも来てくれない先輩を自ら捕まえに行くらしい。
仕方なく私はなかなか解けてくれない数学の問題に戻ることにした。
睨みつけても、頭を抱えてみても、憎たらしい問題は解けてはくれない。
カタン、と椅子が鳴って、視界の片隅に入ってきたのは白いシャツの袖。
シャーペンを左手に持ち替えて、数式を睨んだまま空いた右手でぺちぺちと袖の辺りを叩いた。
「ねえ、この公式であってるよね?」
「── 違う」
「え…?」
返ってきた声は響也のものではなく。
隣に座って手元を覗き込んでいたのは──
「あ……東金さん……」
彼は一瞬だけ私の方を見ると、腕を伸ばして私の左手からシャーペンを抜き取った。
「問題文をちゃんと読め。
当てはめるのはこっちの公式」
目の前ですらすらと整った形の数字やアルファベットが書き込まれていく。
彼の顔がとても近くにある──
意識した途端、心臓が痛いくらいにドキドキしてきた。
顔もなんだかカッカと熱い。
こんなに近くでじっくりと彼の顔を見たのは初めてかもしれない。
いや、もっと『近い』ことは何度もあったけど……その時私はたいてい目を瞑ってるし。
なんとなく口元がムズムズしてくるのが恥ずかしくなって、きゅっと唇を引き締めた。
すっと高い鼻。
意志の強そうな眉。
ちょっとタレた目はそれを感じさせないほど力強い視線でいつも私を射抜いている。
その目は今は少し伏せられいるから、いつもと雰囲気が違って見えてなんだか落ち着かない。
それから形のいい唇はとても意地悪。
最初はずいぶんひどいことを言われたし、今もよくからかわれる。
さらに最近は恥ずかしいくらい甘い言葉を紡いでいくし。
おまけに私の大胆すぎる行動──
うわぁ、今思い出しても穴掘って埋まってしまいたいほど恥ずかしい!──
以来、隙あらば私目がけて近づいてきて私を困らせるのだ。
── ああ、やっぱりかっこいいんだ、この人は。
じっと観察していて、つくづくそう思った。
見た目だけに惹かれたわけではないけれど、こうして改めてよく見るとファンの女の子たちがキャーキャー騒ぐ理由がよくわかる。
「── ほら、あとは自力で解いてみろ」
ぽん、とシャーペンを手渡されて、はっと我に返る。
気づけば彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべて私を見つめていた。
* * * * *
「── 俺の魅力を再確認、ってところか」
ぽつりと呟けば、ほとんど突っ伏すようにしてガリガリと問題を解いていた彼女が、ごん、とテーブルに額を打ち付け、本格的に突っ伏した。
『その通りです』と告白したも同然の反応に、思わず笑みが漏れた。
「そんな赤い顔でぽーっと見惚れられれば、嫌でもわかる」
「うぅ……なんか悔しい……」
「悔しがることなんてないだろ。
物欲しそうな視線でねだらなくても、キスくらいいくらでもしてやるぜ?」
「ちっ、違いますっ! 誤解ですっ!」
ぎゅっと頭を抱え込み、真っ赤になった耳を必死に腕で塞ごうともがいている彼女。
口にした言葉は紛れもなく本心であり、今すぐにでも行動に移したいくらいなのだが、人目を気にする彼女の抵抗はそれなりに痛いのでやめておくことにした。
「なんならここを抜け出して、庭にでも行くか?
皆が宿題に気を取られている今なら、確実に二人きりだ」
塞ぎきれていない耳元で、追い打ちをかけるように囁いて。
じたばたと悶える様子が可笑しくて、込み上げてくる笑いを堪えながら突っ伏す彼女の頭をぐいっと持ち上げた。
「もうっ……ほんとに意地悪」
真っ赤な顔にうっすらと涙の浮かんだ目で恨めしそうに睨んでくる。
やたら可愛いというか、どことなく艶っぽいというか── その表情にいろいろと想像を掻き立てられて、思わず生唾を飲み込んだ。
「と……とにかく、早く宿題を終わらせろ。
ファイナルが終わった後の残りの夏休み、のんきに宿題を片付ける暇は与えてやらないからな」
自分のファイナルが終わって以降、観光のリサーチはもちろん、他にもいろいろと計画を練っている。
その計画のひとつが先日の『浴衣でお祭りデート』だったわけだが。
「え……」
喜びに輝くだろうと思っていた彼女の顔は、逆にすっと蒼褪めて切なく歪んでしまった。
「そっか……夏休み、終わっちゃうんですよね……」
ぽつりと呟いて、深く俯く彼女。
誰もが長く楽しかった休みを惜しんでカウントダウンを始める時期でもあり、いずれ時が来れば他校の生徒は賑やかなこの寮を去り、在るべき場所へと帰っていく。
去る者より残される者の方が寂寥感が強いに違いない。
「……一緒にいられるのも……あとちょっと……」
神戸へ帰ってしまう自分も、彼女のそばにずっといるわけにはいかない。
出かける計画を立てるのが楽しくて、そこまで考えていなかった──
いや、考えないようにしていたのだろう。
「馬鹿……夏休みが終わっても、俺はお前を手放す気なんかさらさらないからな」
かしゃっ。
小さな機械音に我に返ると、テーブルの向こうにカメラを持った猫女がいた。
「……断りもなしに撮るとはいい度胸だな」
「いちいち断っていたら、スクープ写真なんて望めないのさ──
それより君たち、いちゃつくなら場所を移した方がよくはないか?」
『後ろを見てみろ』とばかりに、猫女は顎をしゃくってみせる。
言われてゆっくりと後ろを振り返ってみると──
さまざまな感情を乗せたいくつもの目。
大部分の呆れた視線の中にいくつか『嫉妬』が混ざっていて、抱き込んだままの彼女の頭の上にぽすっと顎を乗せ、してやったりとばかりにニヤリと口の端を上げる。
「は………破廉恥ですっ!」
星奏のチェリストがこちらを指差しながら真っ赤な顔でそう叫んだ。
【プチあとがき】
宿題イベントより。ゲーム中よりちょっと時期が遅いですが。
初めてかなでちゃん視点が入りました。
本当はもっと東金さんについて語らせたかったけど、
ドキドキしてる彼女にそんな余裕はないだろう、と。
ハルに『破廉恥』を使わせたかっただけかもしんない(笑)
【2010/04/24 up】