■彼と彼女と彼のツレ【17:祭の夜(1)】
全国学生音楽コンクール・室内楽部門のファイナルは4日後にまで迫っていた。
星奏学院オーケストラ部・アンサンブルチームは残る4日のうち、3日間は午前を個人練習に充て、午後はアンサンブル。
ラスト1日は終日アンサンブルの最終調整をする、という計画を立てたらしい。
昨日のソロ決勝を終えて身体の空いた東金は、当然のごとく3日間の午前中を彼女のために費やすことに決めた。
練習場所は星奏学院の練習室。
駅前の貸しスタジオでもよかったが、今の大事な時期に街をうろついて、また彼女の身に何かあってはまずい。
それにさすがは有名音楽家を何人も輩出しているだけあって、星奏の設備もなかなかのもの。
暇を見て勝手に校舎内をうろついていた時に見つけて感心していたのである。
そう広くもない個室に二人きり。
最初は落ち着かない様子の彼女だったが、練習を始めれば一人のヴァイオリニストに変わる。
そういえばセミファイナル以降、彼女の演奏を聞いていない。
いろいろと心を乱すような出来事があったから少し心配ではあったけれど、最初の1音を聞けばその心配は一瞬にして吹き飛んだ。
彼女の演奏は耳にしなかった数日間でさらに磨きがかかっていた。
彼女の成長を喜びつつも、東金は貴重な練習時間中は指導者の顔を崩さなかった。
セミファイナルで神南を破った彼女たちには、何としても優勝を掴み取って欲しかったから。
ただし、練習が終われば話は別である。
ありがとうございました、と律義に頭を下げた彼女が身体を起こした時、東金の顔は指導者のものから『恋人』のものへと早変わり。
すかさず腰を抱き寄せ、『お疲れさま』の代わりにキスをする。
顔を真っ赤にして照れまくる彼女の反応を堪能した後は森の広場に移動して、木陰でランチタイム。
食べるのはもちろん彼女手作りのお弁当である。
生まれた環境からそれなりに美食家である東金の舌をもうならせる彼女の料理の腕。
満足しないわけがない。
午後からは音楽室でアンサンブルの練習をする彼女とは、音楽科棟の前でしばしのお別れ。
彼女とひとつの音楽を作り上げ、披露する場がないことがこんなにも悔しいなんて。
これから彼女と音を合わせる男たちに嫉妬を覚えつつ、校舎に飛び込んでいく彼女を苦笑を浮かべて見送った。
『別れのキス』をしようと抱き寄せたら、残念なことに逃げられてしまったのだ。
寮へ戻りながら考えたのは、『こんなに楽しい毎日が送れるのなら、本気で彼女を神戸へ連れて帰る算段をしなければ』、である。
うっすら笑みが浮かぶ彼の策謀顔。
たまたますれ違ってしまった通行人はさぞ気味の悪い思いをしたことだろう。
そんな彼がふと足を止めた。
笑みの消えた顔は真剣そのもの。
腕組みをしてしばらく考え込んでいた彼は、思い付いたいくつかの計画を実行すべく、寮へ戻るのをやめて街へと足を向けた。
翌日。
東金は練習を終えて寮に戻ってきた彼女を待ち構えていた玄関で捕まえた。
1日のハードな練習を労うことすらせず引っ張って行ったのは寮母の部屋。
「じゃあ、頼む」
「ふふっ、任せといて」
寮母との短い会話に訳がわからずオロオロしている彼女を部屋に放り込み、東金は意気揚々と自分の部屋へ戻っていった。
* * * * *
「── 珍しい格好しとうね、千秋」
ラウンジでのんびりとした時間を過ごしていた土岐が見たのは、紺絣の浴衣に身を包んだ東金だった。
さらに珍しいのは、風呂上がりか水泳の後のように髪をオールバックにしていることだろう。
少し着崩して広めに開いた胸元には、レンズに度の入っていない伊達眼鏡がぶら下がっている。
「……そういや今日は近くの神社で祭がある言うてたな。
小日向ちゃんと行くんやね」
「ああ。
邪魔するなよ?」
「せぇへんよ。
誰が好き好んで人混みになんか……疲れるだけや」
考えるだけで本当に疲れてきたような気がして、土岐はぐったりと椅子に身を沈めた。
と、奥からパタパタと軽い足音が近づいてくる。
「東金くーん、おまたせ〜」
人のよさそうな顔をさらにニコニコと綻ばせながらやってきたのは、この寮の寮母である。
「ああ、世話になったな。
助かった」
「これくらいお安いご用よ──
って、ほら、かなでちゃん、早くこっちいらっしゃい」
おずおずと柱の陰から現れたのは──
「……………へぇ、可愛らしいなぁ」
薄紅の生地に白や黄色の小花を散らした可愛らしいデザインの浴衣を纏う彼女。
前に温泉で見たシンプルなものも清楚な感じで似合うと思ったが、今着ている浴衣の方が格段に彼女らしい。
「当然だ。
俺の見立てに間違いがあるわけがないだろう?」
ちらりと目をやると、想像通りツレは満足そうな笑みを浮かべて彼女の浴衣姿を眺めていた。
「へぇ、千秋が買うてきたん?」
「ああ、せっかく祭に行くなら、それなりの格好で楽しまないとな」
ツレはどうやら買ってきた浴衣の着付けを寮母に頼んでいたらしい。
楽しんでらっしゃいね、と寮母に背中を押され、彼女はたたらを踏んで前に進み出た。
「あ、あの……」
ずっと恥ずかしそうに俯いていた彼女が顔を上げ──
一瞬僅かに眉を曇らせたことに、ツレは気づいただろうか?
彼女はちょこちょこと彼に近づいて、ゆっくりと手を伸ばした。
指先がそっと触れたのは彼の額。
「……おい、何をしてる」
「あ、えと……おでこ、初めて見たから……なんかご利益がありそうな気がして」
「俺は願かけ地蔵かっ……ったく、こうでもしねえとすぐに俺だとバレちまうだろうが」
── あー、言うたらあかん。
思わず土岐は溜息を吐いた。
恐らく彼女が表情を曇らせたのは、変装のような真似をしなければ一緒に出かけることもできないのか、と考えたからに違いないのに。
「もうええから、早う行っといで。
お祭り、終わってまうで?」
「それもそうだな。
小日向、行くぞ」
「え、あ、はい」
浴衣姿の二人を見送って、土岐は再び椅子に沈み込んだ。
── 何事も起こらんとええんやけど。
彼らにとってこの祭がいい思い出として残ることを願うばかりだった。
* * * * *
神社の長い参道の両側にはびっしりと屋台が軒を並べ、目当てのものを手に入れようと群がる人でごった返していた。
祭という独特な雰囲気に、東金は子供のようにワクワクしている自分が滑稽に思えて楽しくなっていた。
おまけに隣には彼女がいるのだ、相乗効果は計り知れないものがある。
「── さて、どこから覗いていくかな」
「あの、東金さん」
「ストップ」
「え…?」
きょとんとして小首を傾げている彼女をジトリと見下ろして、小さな溜息を吐いた。
「馬鹿、名前を呼ぶな。
誰の耳に入るかわからねえだろう?」
この街でも自分の名前は知られ過ぎている。
『東金』は元々珍しい部類に入る苗字だし、ファンたちは当然のように『千秋くん』と呼ぶ。
どちらで呼ばれても聞き咎められる可能性があった。
そうなると──
ふと思いついたアイディアに、東金はニヤリとした。
「そうだな……祭の間は『あなた』と呼んでもらおうか」
「あ、『あなた』…?」
「ああ、妻が夫を呼ぶ時の一般的な代名詞だろう?」
「つっ、妻っ !?」
ぷしゅっと湯気が吹き出たように真っ赤になった彼女。
「お前は覚えてないかもしれんが……前に温泉でお前が溺れた時、助けてくれたオバハンがいただろ。
そいつ、俺たちのことを夫婦だと思ってたんだぜ?」
「え、ええっ !?」
さらに赤みを増す彼女の顔。
こうも毎回赤くなられると、いつか脳の血管が切れてしまうのではないかと心配になってくる。
だからといって、彼女をからかって照れさせるのはやめられそうにはないけれど。
「ははっ、まあ、いずれそう呼ぶ日のための練習だと思え──
さて、何から食べる?」
彼女の腰にすっと手を回して歩き出す。
と、彼女はカラカラと軽やかな下駄の音をさせて小走りで逃げ出した。
少し離れたところでくるりと振り返り、
「屋台を見るのは、お参りの後ですっ!」
真っ赤な顔をぷいっと背けて、再び歩き始めた。
確かに彼女の言うことはもっともである。
人混みに紛れてしまいそうな彼女の後姿。
せっかくの祭の夜、はぐれてしまうのはもったいない。
東金は急いで彼女の後を追いかけた。
【プチあとがき】
ドルチェお祭りイベントの妄想でございます。
『有無を言わさず着替えさせられた』とはどういうことかと考えた末、
せっかくなので寮母の白石さんにご登場願いました。
【2010/04/19 up】