■彼と彼女と彼のツレ【16:ソロ決勝】
「── 調子はどうや?」
1曲目を弾き終えたツレのいる楽屋へそっと入り、土岐は静かに訊いた。
「……聞いてたんなら、わかるだろ」
気分転換のつもりか、ストレッチをしながら東金は憮然と答える。
直前のライバルの演奏はバロック期の曲らしい厳格で荘厳なものだった。
息を殺すようなピンと張り詰めた緊張の中で聞かされた後の東金の演奏はまったく印象の異なる別の解釈。
シンプルなメロディラインをそっと撫でていくような優しく柔らかな音色に、聴衆はうっとりと聞き入っていた。
実力は互角。
客席の反応も悪くない。
だが、先制で与えられたインパクトは、審査員の採点に影響することは間違いなかった。
弾いた本人もそれを感じ取っているらしい。
「……小日向ちゃんも、聞きに来とうよ」
「知ってるさ」
言って東金はふっと表情を和らげた。
「演奏を聞こうと身構えている聴衆の中で、ひとりだけ『祈りのポーズ』だったからな。
つい目が行っちまった」
「へぇ……客席が見えとるなんて余裕やねぇ。
千秋より俺の方が緊張しとったかもしれんなぁ」
「なんでお前が緊張するんだよ。
やれることは全てやった。
今さらジタバタしてもしょうがねぇだろ」
ニヤリ、と笑った東金は、最後の仕上げとばかりにぐいっと背筋を伸ばした。
「ここに来るのも声かけたんやけどな」
「来ねえだろうな──
ま、あいつにはあいつの事情があるのさ」
くくくっ、と喉を鳴らして笑う彼は、やけに楽しそうだった。
おそらく昨日の夜、差し入れを持っていった彼女ときっちり話をつけたのだろう。
彼の元に向かうよう彼女をけしかけたのは誰でもない、自分だ。
ここは礼のひとつも言ってもらわねば、とも思ったが、今はやめておくことにした。
根掘り葉掘り聞き出すのは、全部終わってからで十分だ。
「ほな、しっかり楽しんできてや」
「ああ」
相変わらず不敵な笑みを浮かべているツレを残し、土岐は楽屋を出た。
ラスト1曲で勝敗が決まる──
客席にいる彼女のように、土岐も祈らずにはいられなかった。
* * * * *
舞台袖で合流した芹沢を引き連れステージに向かう。
スピーカーへとつながるコードをしっかりとカンタレラに差し込んで準備完了。
ステージの中央に立ち、見据えるのはただ一点。
強く握り締める両手に鼻先を埋め、必死に神に祈りを捧げている彼女。
1曲目の時に見たのと全く変わらない格好に、思わず苦笑が浮かぶ。
すると隣の席に座っていた猫女がニヤリと笑って彼女に軽く肩をぶつけて何やら耳打ち。
はっと顔を上げた彼女と視線が絡み合った。
『ガンバッテ』
昨夜触れたばかりの彼女の柔らな唇が、そう紡ぐのが見えた。
東金の片眉がぴくりと跳ね上がる。
── 『頑張れ』は失礼なんじゃなかったのか?
心の中でひとりごちた。
けれど、今の不利な状況では『頑張れ』と励まされても仕方ない。
おまけに今の彼女は泣いた形跡がない。
ある程度聞き慣れてしまったからとはいえ、たかが練習でボロボロ泣いていた彼女が、である。
演奏の出来の判断を彼女の涙に全て委ねるつもりはないが、つまりはそういうことなのだ。
── 覚悟しろよ。
ハンカチが何枚あっても足りないくらいの演奏を聞かせてやる。
ニヤリと挑戦的な笑みを浮かべ、東金はカンタレラを肩に構えた。
* * * * *
ガンガンガンッと激しいノック。
返事も待たず開いた楽屋の扉から駆け込んできたのは、予想通りの彼女だった。
待ち受ける東金の元へダッと勢いよく駆け寄ってきた彼女はてっきり飛びついてくるのかと思いきや、直前で我に返ったようにぴたっと急ブレーキ。
肩透かしを食らった東金は、彼女の身体を受け止めようと広げた手を腰に当てて小さな溜息を吐いた。
対面して話をするには近すぎる距離で見下ろす彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
目や鼻の頭が赤いのはもちろん、顔全体が真っ赤だった。
「あ……あの……っ」
「── 小日向、こういう時にやるべきことはひとつ、だよな?」
俯いておろおろしている彼女に向けて、わざと冷淡に言い放つ。
彼女の急ブレーキの理由を確信した上で、昨日の不意打ちのお返しを兼ねてのちょっとした意地悪である。
「えっ、な……なんですか…?」
案の定、彼女は困ったように顔をひきつらせた。
「── めでたい時は『万歳三唱』だろうが」
「え……えっ…? あっ、はい!」
一瞬きょとんとした彼女は、ぱっと顔を明るくして、ちょこちょこと後退って手を後ろに下げた。
馬鹿正直な反応に、東金は思わず苦笑した。
これだから彼女への意地悪はやめられないのだ。
いつかのように『ドS』と言われても仕方がない。
「ばんざ── っ !?」
振り上げられた両手をすかさず捕まえた。
担ぐように肩に乗せ、少し身体を屈めて彼女の腰を引き寄せる。
「俺に抱きつきたかったら、こうすればいい──
簡単だろう?」
耳元で囁くと、抱き寄せた瞬間身を固くした彼女から少しだけ力が抜けた。
首の後ろに彼女の腕がやんわりと回される。
「ゆ……優勝……おめでとう……ござい…ます」
「ああ、サンキュ──
お前のおかげだ」
細い腕に包まれた首がきゅっときつくなる。
お返しとばかりに華奢な身体をぎゅっと抱き締めた。
「── さてと、次は」
軽く肩を掴んで背を逸らしている彼女の腰をしっかりと支えるという、まるで社交ダンスでも踊っているような格好で、東金は彼女の顔を覗き込みながらニヤリと口の端を上げた。
「ええっ !?
まだ何かあるんですかっ !?」
「何ってお前……
優勝者には勝利の女神から祝福のキスが贈られると相場は決まってるだろ」
「めっ、女神って誰 !?」
「馬鹿、お前のことだよ」
「だ、誰がそんなこと決めたんですかっ」
「俺が決めた」
「いつ !?」
「今──
と言いたいところだが、昨夜の時点で考えてたな」
意味ありげな笑みを浮かべると、彼女の顔がぼふんと火を噴いた。
「やられっ放しは俺の性に合わないんでな、責任は取ってもらうぜ?」
顔をどんどん近づけながら囁くと、彼女は観念したようにぎゅっと目を瞑った。
大胆なんだか、臆病なんだか──
笑い出しそうになるのを必死に堪え、彼女を怯えさせないようにそっと唇を重ねる。
昨日の事故のような不意打ちではなく、自分の意思でのキスは想像以上に甘くて柔らかい。
こういうのが『幸せ』なんだろう、と頭の片隅でぼんやり考えている自分がやけに可笑しかった。
彼女が再び首に腕を回してきたのに満足した東金は、ふわふわの髪をあやすようにそっと撫でた。
* * * * *
「部長! 優勝おめで──」
見事ソロ部門優勝を果たした部長の祝福のため楽屋を訪れた神南高校管弦楽部の部員たちは、一瞬にして氷漬けになったように固まった。
彼らが目にしたのは、すっかり見慣れた星奏学院の制服を来た女子生徒をしっかりと抱き締めている部長の姿。
その女子はんーんーと声にならない悲鳴を上げながら、部長の背中をぱしぱし叩いている。
彼の顔はしっかりと手で押さえつけられている彼女の頭に隠されていて窺うことはできないが、彼女の腰に回された手が野良犬を追い払うかのようにひょこひょこと動いたので、
部員たちはぎこちなく後ろに下がって扉を閉めた。
少し遅れてツレの楽屋を訪れた土岐は、扉に背を向けて固まっている部員たちを見て首を傾げた。
「あれ…?
みんな、赤い顔してどないしたん?」
「あっ、副部長っ!
い、今は駄目っす!
入っちゃいけません!」
「なんやの……
ああ、小日向ちゃんが先に来とるはずやからなぁ。
もしかして熱烈なラブシーンでも見せつけられたん?」
さらに顔を赤く染めた部員たち。
答えは一目瞭然である。
「……ビンゴかいな」
土岐は部員を掻き分け、扉の前に立つ。
コンコン、と短くノックして僅かに扉を開けると、
「千秋、先にパーティ会場に行ってるで」
隙間から声をかけて、パタンと扉を閉めた。
「ほれ、色ボケ部長はほっといて、俺らはパーティ楽しもか」
土岐は未だ興奮冷めやらぬ部員たちを促しながら、彼女よりも先に溺れてしまったらしい親友を心の中で笑い、そして祝福した。
【プチあとがき】
『ソロ ファイナル』悠那ちゃん妄想ばーぢょん。
オレ様本領発揮の東金さんは、もう誰にも止められない(笑)
今後は本能の赴くまま行動してくれることでしょう(笑)
【2010/04/15 up】