■彼と彼女と彼のツレ【15:窮鼠、猫を噛む】
今日何度目か、なんて数えることも馬鹿らしいほどに繰り返した曲を弾き終えて、東金は大きく息を吐いてコキコキと首を回した。
どれだけ弾いても納得がいかない。
気を取り直すように肩を上下に揺すって、譜面をめくる。
何度も譜を読み込み、いろいろな文献を読みあさって得た自分なりの曲想が五線譜の周囲にびっしり書き込んである。
けれど自分で書いたはずの文字はどこか空々しく見えた。
派手なパフォーマンスを好む彼はソナタにしろ交響曲にしろ、第2楽章はあまり得意ではない。
課題曲として与えられたこの曲はまさにその緩徐楽章タイプ。
僅かな苦手意識と、それとは別の意識の削がれが、納得できる演奏をさせてくれない。
楽譜をめくる手が止まり、眉間に深い皺が刻まれた。
昨日の朝出くわした時の彼女は単に顔を合わせるのを恥ずかしがっているだけかと思っていたら、どうやらきっちり避けられているらしい。
メールの返事も全くないし、電話をかけても拒否されはしないものの、呼び出し音が鳴り続けるだけなのである。
こんなことで頭を悩ませるなど彼にとっては初めてで、苛立ちよりも戸惑いのほうが大きかった。
ふと、彼女ならこの曲をどう弾いてみせるのだろうか、と考えた。
ふんわりと柔らかく、何もかも包み込むような暖かな音色──
ふっと自嘲の笑みを浮かべ、小さく首を振る。
彼女の『花』を真似てどうする。
だいたいこの曲を彼女の音で聞いたことがないのに再現できるはずもない。
思い浮かぶのは柔らかい微笑みを浮かべる彼女の演奏姿だけだった。
「……まいったな」
自嘲の笑みを深くして、弓で首筋をぽんと軽く叩いた。
その時、コツコツ、と控えめなノックの音。
はい、と返事をしたものの、扉が開かれる様子はない。
防音の部屋だから聞こえなかったのだろうか。
東金は楽器を置いて扉に向かった。
「………っ」
重い防音扉の外に立っていたのは、大きな荷物を手に提げて俯く彼女だった。
「小日向……何しに来た…?」
「あの……ご飯、食べましたか?」
「は?」
言われて東金は腕を持ち上げ時計を見る。
針は普段ならとっくに夕食も風呂も済ませてくつろいでいてもおかしくない時間を差していた。
そういえば寮で朝食を食べて以降、今日は何も口に入れていないことを思い出す。
その途端、腹の虫が鳴きそうになって、慌てて腹筋に力を入れた。
「……いや、食ってない」
「よかった……
あの……入ってもいいですか…?」
「……ああ」
扉を引いて入れてやると、彼女は勝手知ったる様子で部屋の脇のテーブルに荷物を置き、隅に立てかけられてあるパイプ椅子を2つ引きずってきてセッティングする。
荷物の中からあれこれ出している間、ガサガサとビニールの音やカタンコトンと軽いプラスチックの音が聞こえてきた。
ふいに鼻をくすぐるのはこの場にはそぐわない匂い。
後ろから彼女の手元を覗き込んでみると、広口のポットからプラスチックのマグカップに注がれているのは、どう見ても味噌汁だった。
「お前……こんな遅い時間に一人で来たのか?」
「はい、そうですけど」
「馬鹿、一人でふらふら出歩くな。
危ないだろうが」
「大丈夫ですよ、寮の自転車に乗ってきましたから。
あ、座ってください」
いくつかの保存容器の蓋を開けながらの彼女に促され、東金は素直に椅子に腰を下ろした。
即座にはい、と渡されたのはラップに包まれたほんのりピンク色をしたかたまり。
「鮭の……おにぎり…?」
「はい、手も汚れなくて食べやすいかと思って。
あ、骨はちゃんと取ったつもりなんですけど、もし混ざってたらごめんなさい」
ラップを剥がして丸っこい三角形の角を一口齧る。
ほぐして混ぜ込んである焼き鮭の香ばしさは、懐かしさを感じさせるような優しい味。
「お味噌汁もどうぞ。
ここ、結構冷房効いてるから、身体があったまりますよ」
マグカップに口をつけ、一口飲み込んだ。
身体の内部がたちまち温かくなっていく。
空っぽの胃の形がくっきりと浮かび上がるようだった。
「── うまい」
お世辞ではなく、本当に美味しいと思えて口から滑り出た言葉だった。
きちんと出汁を取ったとわかる旨味。
入っている豆腐の水っぽさもない。
味噌の量は薄くもなく、濃くもなく、自分の好みの味だ。
「ほんとですか!」
嬉しそうに目を輝かせる彼女。
寮の晩ご飯のおかずも分けてもらってきたんです、と保存容器をすっと寄せてくる。
その側に割り箸が添えられた。
そして彼女はおにぎりを一つ手に取って、ラップを剥き始めた。
よく見れば、彼女の前にもマグカップがある。
「……お前も食うのか?」
「はい、私も晩ご飯、まだですから」
「………そう、か」
どうしてだろう。
せっかく彼女がわざわざ食事を持ってきてくれたというのに、ありがとうの一言も出てこない。
嬉しくて仕方がないのに、なぜか拗ねた子供みたいなそっけない態度しかできない自分に腹が立ってきた。
無視していたかと思えばこうして差し入れを持ってくる彼女の意図も理解できなくて、苛立ちはさらに増す。
彼女は木の実を齧るリスのようにしてピンクの三角形の角をほんの少し齧り、何度か噛み締めてからこくんと飲み込んだ。
「私──
東金さんが好きです」
唐突な告白に、東金は飲みかけていた味噌汁でゴフッとむせた。
花火の夜にお互いの気持ちは確認してあるのだから今更驚くことでもないのだが、食事の味を聞くようなこの流れでいきなりというのはさすがに心臓に悪い。
「── でも、東金さんにはファンの人がいっぱいいて……
そんな人を後から横取りしてひとりじめしちゃうなんて、身の程知らずですよね。
だから、諦めようって思ったんです」
「小日向、お前──」
「でも、諦めなきゃって思えば思うほど、膝の傷よりも心が痛くなって……
忘れなきゃって思えば思うほど涙が止まらなくなって……」
どんどん俯いていく彼女の横顔は髪に隠れて見えなくなった。
思わず出た舌打ちは、自分自身への苛立ち。
彼女だって、こんなにも心を痛めていたのだ。
どうしてもっと早く安心させてやらなかったのだろうか。
『隠そうとしているのだから、知らんふりしてやったほうが親切だ』なんて、よく言ったものだ。
東金はマグカップを置くと、彼女の手からおにぎりを抜き取った。
震える肩を抱き寄せ、胸に閉じこめる。
「馬鹿か、お前は。
俺の気持ちを無視して、勝手に諦めるな。
お前は大人しく俺の側にいればいいんだよ」
「でも……」
「ファンなんて何人いようが関係ねえ。
こうして抱き締めてやろうと思う女はお前だけだ。
よく覚えとけ」
小さく頷いた彼女を、言葉通りしっかりと抱き締める。
しゃくり上げるたび上下する華奢な背をそっとさすりながら、心の中で誓った。
もう二度と、辛い涙は流させない。
これから彼女が流す涙は、感動と喜びの涙だけだ、と。
* * * * *
なんとなく気恥ずかしさ漂う食事を終え、東金は練習を再開した。
弾き終えるたび、パチパチと拍手が響く。
「小日向、いちいち拍手をするなよ。
納得いかない演奏に拍手されてもな……」
心につっかえていたものが一つなくなったとしても、曲自体に対する苦手意識が払拭されたわけではない。
頭をぽりぽりと掻きながら、部屋の隅っこの椅子に座る彼女に背を向けた。
「でも……今はお腹いっぱいだし、ピアノ弾けないから伴奏できないし、私にできるのは拍手くらいしか」
「ここじゃ料理はできねえ。
曲は無伴奏だ。
だから何もしなくていい」
むぅ、と唇を尖らせて何やら考えていた彼女は、いいこと思いついた、とばかりにピンと人差し指を立てて、
「そうだ、肩もみとか!」
「俺を年寄り扱いするな」
「してませんよ」
彼女に背を向けたまま、東金はこっそりと笑みを浮かべた。
他愛のない軽口の応酬がやけに楽しくてしょうがない。
煮詰まっていたものがすぅっと溶け落ちていくようだった。
「他に何かありませんか?」
「ない──
もういいから、お前は激励の言葉のひとつも言い残して、さっさと寮に帰って寝てろ」
「激励?」
肩越しに振り返ってみれば、彼女はきょとんとした顔で小首を傾げていた。
「激励って、『頑張れ』ってことですよね?」
「……他に何がある?」
「今めいっぱい頑張ってる人に『頑張れ』なんて言ったら失礼ですよ」
そう言って彼女は口元を押さえてくすくすと笑った。
彼女の励ましを受けてもうひと頑張りしようと思っていたのだが、確かに彼女の言うことも一理ある。
相手と状況にもよるだろうが、さっきまでの煮詰まった自分に対して『頑張れ』なんて言われたら怒りが爆発していたかもしれない。
黙り込んでしまった東金を彼女はキラキラした目で見つめながら、次の言葉を待っているようだった。
「── そんなに俺のために何かしたいのか?」
彼女は嬉しそうにこくこくと首を振る。
「だったら、そうだな──
『必勝祈願のキス』でもしてもらおうか」
悪戯心からのちょっとした思いつきだった。
実は彼らはまだキスをしたことがない。
しようと思えばいくらでもチャンスはあった──
なかったとしてもチャンスというものは自分で作るものだ、と彼は思っている──
けれど、今はまだ想いが通じ合っているとわかっただけで十分満たされていた。
正直言って全く考えたことがないわけではないが、今はお互い目標がある。
それが終わってから、と無意識にセーブしていたのかもしれない。
彼女の反応は彼の悪戯心を十分満足させた。
ぼんっ、と爆発したように真っ赤になった頬を両手で覆い、視線はきょろきょろと挙動不審に泳ぎ回る。
あまりに予想通りで、思わず吹き出しそうになった。
しかし、そこからの彼女の行動は彼の予想を裏切るものだった。
大きく息を吸ってから、決意したようにすっくと椅子から立ち上がる。
つかつかつかと近づいてきて、
「キ、キスしたら……ほんとに優勝間違いなしなんですか」
耳まで真っ赤に染まった顔。
潤んだ涙目の上目使いの彼女の声は少し震えている。
そんな顔で見つめられたら──
それもこんなに間近で──
跳ね回る心臓は今にも破裂しそうだった。
先制パンチをヒットさせたつもりが、カウンターを食らってノックダウン寸前の東金。
『からかって悪かった』と謝って、彼女を寮に帰してさっさと練習に戻らなくては──
そんな自制心とは裏腹に、彼の口は勝手に『ああ、そうだな』と動いてしまっていた。
こくん、と唾を飲み込む音が聞こえる。
彼女の両手がおずおずと東金の肩に乗せられた。
「……おい、いつまでこうしてる気だ?」
「うぅ……」
真っ赤な顔で手を肩に乗せた格好のまま、彼女が躊躇い続けることおよそ3分。
湯を入れたカップラーメンが出来上がる時間、と言えば長いのか短いのか。
確実に言えるのは、二人にとっては途轍もなく長い時間だったはずである。
「── あぁもういい、期待した俺が馬鹿だった」
東金はすっと一歩後ろに下がった。
彼女の手が支えをなくしてパタリと落ちる。
彼女の反応からして、キスなんて初めてのことなのだろう。
それを勇気を出してここまでしてくれたのだ、これ以上の励ましはない。
「ほら、お前も明日練習があるんだから、早く寮に帰って休めよ」
俯く彼女を残して譜面台の前に立ち、楽譜のページをめくる。
「だが……明日もし間違ってでも俺が優勝を逃すようなことがあれば、全部お前のせいだからな」
微妙な感じになってしまった雰囲気を蹴散らすように、ははは、と高らかに笑い飛ばした。
すると、たたたっ、と足音が聞こえたかと思うと、ぐんっ、と身体が引っ張られた。
見れば彼女の手がジャケットの深紅の飾り襟を掴んでいる。
さらに引っ張られて、身体が少し前のめりになった。
視界いっぱいに映るのは涙目の彼女の真っ赤な顔。
直後、唇に何か柔らかなものが押し当てられた。
「─── !!」
何か言おうと思っても、口は塞がれていて動かせない。
柔らかくて、じんわりと温かい。
熱い、と言ってもいいほどで、どんどん頭がぼんやりしてくる。
不意に温もりは消え、冷房に冷やされた空気がすっと熱を奪っていった。
その冷たさに我に返った東金が見たのは、荷物をひっ掴んでスタジオを飛び出していく彼女の後ろ姿。
動けずにいるまま、まだ感触の残る唇に恐る恐る指先を触れてみる。
「……こひ、なた……?」
人目を引く華やかで整った容姿と自信溢れるわがまま放題の行動は百戦錬磨なのかと思いきや、実は『恋愛初心者マーク』を貼らねばならない東金千秋のファーストキスの瞬間だった。
【プチあとがき】
追い詰められたかなでちゃん、東金さんに噛みつきました(笑)
はい、『勝利のおまじない』悠那ちゃん妄想ばーぢょん。
まあ、ありがちっちゃありがちなんですけどね。
『女心に鈍感』な東金さんにとって、かなでちゃんはファーストラブに違いない!
と主張してみる(笑)
ま、このお話は『いろいろと規格外なかなでちゃんに一目惚れした東金さん』ってことで。
そして『ほっぺにちゅ♥』くらいであんなに驚いてデレる東金さんは絶対キス未経験(笑)
【2010/04/13 up】