■彼と彼女と彼のツレ【14:すれ違いととばっちり】
東金千秋の朝は新聞に目を通すことから始まる。
ことのほかすっきりと目覚めた今朝も、横浜滞在中は菩提樹寮に届け先を変更してある定期購読の経済紙を玄関に取りに行く。
途中、台所から聞こえてきた声にふと足を止めた。
「── まぁ、今日も最高の出来だわね」
「そうですか?」
「色どりもいいし、野菜メインでヘルシーだし」
「あら、色どりだけじゃなくて、味もよかったわよ」
「ふふっ、かなでちゃんはお料理上手ないい奥さんになるわね」
「えへ、ありがとうございます♪」
嬉しそうに答える声。
内容が内容だけに──
『ご主人』だの『奥さん』だの言われてドキドキしたのはゆうべのことだ──
東金の顔は焼いた鉄より熱くなり、心臓は狂ったように跳ね回った。
こっそり中の様子を窺うと、寮生の朝食を準備する調理師たちの間でなにやら作業していた彼女。
妙なキャラクター柄の巾着袋の紐をきゅっと締め、大事そうに抱え上げた。
なるほど、彼女は弁当を作っていたらしい。
そういえば、前に無理矢理『朝食』に誘った時にも弁当を持っていたっけ。
「いつもお邪魔してすみません」
「気にしなくていいのよ」
「そうそう、ほんといつも感心してるんだから」
「ありがとうございます……
じゃあ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「ちゃんと朝ご飯食べていくのよ〜」
調理師たちに深々と頭を下げて、台所を後にする彼女。
咄嗟に身を隠そうかとも思ったが、東金に隠れる理由はない。
そのまま彼女を待ち受けた。
「── あ」
出会い頭、大きな目をぱちくりさせた彼女は、みるみる赤く染まった顔をすっと俯けた。
「よう、おは──」
「昨日はご迷惑おかけしてすみませんでしたっ!
急ぎますので失礼しますっ!」
がばっと勢いよく頭を下げ、そのままダッと駆け出した。
まるで短距離走のクラウチングスタートのようだ。
「……その反応、過剰すぎだろ」
自分の顔も真っ赤になっていることを棚に上げ、ぽりぽりと頭を掻きながらぼやく東金。
まあ、今の彼女のそんな反応もわからなくはない。
温泉の中で意識朦朧となった彼女は、気づけば走る車の中、半ば抱きかかえるような形に回された東金の腕の中で目覚めてパニック状態になっていたのだから。
「……早いところ慣れてもらわねぇとな」
東金はククッと喉の奥で笑い、改めて新聞を取りに玄関へと向かった。
* * * * *
星奏学院の敷地内の中にある森の広場。
昼下がりのギラギラした日差しも、木陰に入ってしまえばそう気にはならない。
土岐は適当な木陰に腰を下ろし、木の根に凭れて目を瞑る。
耳に届くのは無駄に元気なセミの声と、ヴァイオリンが奏でる『ひばり』のどこか悲しげなさえずり。
「── 待て」
「え……」
「そこはもっと弓全体を大きく使った方がいい」
「………はい」
きゅっと唇を噛み締めて、ヴァイオリンを構えた彼女。
聞こえてきた彼女の音色に、土岐は眉を曇らせ、溜息を吐いた。
── 翼に傷を負ったひばりは傷の痛みに耐えかねて、羽ばたくことを放棄したのかもしれない──
ふとそんな風に感じて、ゆっくり開いた目に映る憎らしいほどに青い空を睨みつけた。
* * * * *
その日の夜、練習スタジオからの帰りに遅い夕食を済ませて寮に戻ってきた東金は、すぐさま隣の部屋のツレの訪問を受けた。
老朽化した壁の薄い建物では、同じフロアの人の出入りが丸わかりなのである。
「お疲れさん」
「ああ──
で、どうだった?」
普通、一日の練習を労う土岐が口にしそうな問いを、逆に東金が投げかけた。
土岐はそれにほんわりとした笑みとひょいと僅かに竦めた肩で応え、みしりとベットを軋ませ腰を下ろした。
「── 可哀想に、如月クンに相当しごかれとったわ。
千秋んことを『鬼部長』て言うたこともあるけど、あれがほんまもんの『鬼部長』やね」
「ま、あいつを如月に任せておくのも今だけさ……
で、それから?」
「ふふっ、過保護やね、千秋……
さっき如月クンに聞いたら、今日の練習は1日中学校の敷地内やて。
行きも帰りも如月兄弟がエスコートしたそうや。
妬けるやろ」
「ハッ、アホなことぬかすな。
言っただろ、『今だけ』だってな」
ニッと口の端を吊り上げて、東金は引き寄せた椅子にどさっと腰掛けた。
東金が星奏オケ部部長の部屋を訪ねたのは今朝のこと。
校外での練習と彼女の単独行動を避けるよう頼んでおいた。
念のため、ツレにもそれとなく様子を窺っておいてもらった。
悔しいことに、自分の練習も疎かにすることができない今の東金には、こんなことくらいしか彼女にしてやれることはない。
最初は眉をひそめ、鋭い眼差しで東金を見据えていた如月兄も、彼女の身に危険が及ぶかもしれないと簡単な事情説明するとすぐさま了承してくれた。
そのせいで思いがけずスパルタ特訓を受ける羽目になってしまった彼女が一番気の毒なような気もするが、それもすべて彼女の身を守るためである。
「せやけどなぁ……」
言い淀んだ土岐は、物憂げな溜息を吐いた。
「なんだ、蓬生」
「……ちょっと気になることがあるんやけど……
気のせいかもしれへんし……」
歯切れの悪い態度を見せる土岐。
見慣れた着流しの袖を肘のあたりまで捲り上げたり、また伸ばしたりを繰り返している。
練習疲れもあって、その単調な動きに苛立った。
「はっきりしねぇ奴だな……
俺は明日の練習最終日のためにもう休む。
お前はさっさと自分の巣に帰れ」
「はいはい」
駄々をこねる小さな子供をあしらうような呆れた笑みを浮かべて立ち上がった土岐は、着流しの裾を慣れた手つきで整え扉へ向かう。
ガチャリとノブを引き、身体半分が廊下に出たところで振り返った。
「一応確認なんやけど」
「ん?」
「千秋が知ってしもてること、あの子に言うてあるん?」
「は?
その必要がどこにある。
あいつは隠そうとしてるんだぜ?
知らんふりをしてやるのが親切ってもんだろうが」
土岐の眉間に微かに皺が生まれた。
「蓬生?」
「あの子、なんや思い詰めとるみたいやで……
ほな、おやすみ」
ゆっくりと扉が閉じる。
その瞬間、東金は身体の中を湿った冷たい風が吹き抜けたような気がして、微かに身を震わせた。
しばらくして『調子はどうだ?』と送ってみた短い文面のメールに返事は返ってこなかった。
* * * * *
置かれた境遇によって人それぞれ感じ方は違えど、時間は等しく過ぎていく。
昼間は不気味なほど静まり返っていた寮も、今日一日を思い思いの場所で過ごした青少年たちの帰還で息を吹き返したように賑やかになった。
今一番賑わっているのは夕食のいい匂い漂う食堂である。
早々に食事を終え、土岐はラウンジでのんびり身体を休めていた。
元来少食の彼の食事にかかる時間は普段からそれほど長くないのである。
と、玄関の古い扉がガタガタッと揺れ、ゆっくりと開かれた。
「……おや、芹沢クンやないの。
遅うまでご苦労さん」
寮に戻ってきた芹沢は、まるでフルマラソンを走った後のような疲労困憊ぶりだった。
「千秋は一緒やないん?」
「……部長は課題曲の弾き込みを続けるそうです……」
よろよろと椅子に辿り着き、そのまま倒れ込む。
「えらいお疲れやな。
そないに練習に熱が入っとったん?」
椅子の背凭れに沈み込み、両手で顔を覆って大きな溜息を吐く芹沢。
「……しばらくピアノを見たくありません。
部長はまるで迷いを振り払うように一心不乱に弾き続けて……
おかげで今日は昼食抜きです」
「へぇ……
千秋らしゅうないな」
「……ゆうべ部長の不安を煽ったのは誰ですか」
芹沢は顔から少し手を浮かせて、恨めしそうに土岐を睨んだ。
まるで他人事の言い方が気に障ったらしい。
「なんや、盗み聞きかいな」
「……壁が薄いんですから、嫌でも聞こえます」
ふてくされたように呟く芹沢に、土岐は思わず吹き出した──
ツレの行動によってとばっちりを受けた気の毒な人間がここにも一人。
けれど、付き合いが長い分、とばっちりを受け続けているのは自分自身に他ならない、と気づくと余計に笑いがこみ上げてきた。
くすくす笑っているうちに、玄関でまた物音。
「── 先にメシ食っちまおうぜ」
「そうだな」
「……私はちょっと部屋に戻るよ」
「そっか、じゃあ荷物置いたら早く来いよ」
「……うん」
そんな会話の後、如月弟がバタバタと食堂に駆けこんで行った。
続いてゆったりと歩いてくる如月兄。
ラウンジにいる土岐に気づいて小さく頷いて──
『今日も一日無事に過ごした』という報告のつもりだろう──
弟の後を追って食堂へ入っていく。
しばらくすると、重い足取りの足音が近づいてきた。
「あっ…」
目が合った瞬間、踵を返そうとする彼女。
「大丈夫や、俺ら二人しかおらへん」
すかさず声をかけ、振り返った彼女に手招きすると、それでも疑うようにきょろきょろしながら近づいてきた。
彼女と入れ替わるように、あれほどぐったりしていた芹沢が素早く席を立つ。
すれ違いざまにギロリと彼女を睨み付け、食堂へと姿を消した。
「あ、あの……」
「ああ、芹沢クンなら気にせんでええよ。
ちょっと練習しすぎで気が立っとるだけや」
「でも…」
睨まれて気にならないのはよほどの無神経。
不機嫌丸出しで去っていった芹沢を気にしてオロオロしながら彼女は俯いた。
「そや、小日向ちゃん、明日のことなんやけど」
「── っ」
「ホールの前で待ち合わせよか?
それとも別の場所がええ?
車で迎えに行ったるで?」
彼女は少しずつ後退りしながら、俯けた頭を激しく横に振った。
「私……行けませんっ」
「なんで?」
「だって……ファイナルまで日にちもないし……練習しなきゃ…」
「理由はそれだけなん?」
彼女は黙り込んだ。
このままでは部屋へ逃げ込まれてしまうと思った土岐は、腰を浮かして手を伸ばし、かろうじて届いた彼女の腕を捕まえた。
腰を戻すと同時に彼女は引っ張られ、後退った分だけちょこちょこと前へ進む。
「……私、ちょっと浮かれてました……
考えてみたらやっぱりおかしいんです、あんなに人気のある人が私のことなんて……
今ならまだ、忘れられる……
早く、忘れなきゃ……っ」
ぎゅっと閉じた彼女の目から、ぽたぽたと雫が落ちた。
落ちた雫は、土岐たちがこの寮に来た時に勝手に新調した絨毯に吸い込まれていく。
やっぱり──
土岐はこっそりと嘆息した。
この2日間の彼女の音は『痛い、痛い』と叫んでいるように聞こえたし、今彼女が流している涙は発した言葉とは真逆の想いが溢れている証拠だ。
危惧していたことが現実になってしまって、思わず天を仰いだ。
自分の調子を崩してしまうほど相手を思いやっているというのに、それが肝心の相手に伝わらないなんて。
昨日のうちに『バレてしもた』と一言言っておけば、展開は変わっていたかもしれないと思えば悔やまれる。
考えているうちにだんだん腹が立ってきた。
秘密を作った彼女にも、普段わがまま放題行動するくせ今回に限って腰が引けているツレにも、二人の間を掻き回したのにフォローが足りなかった自分にも。
一番腹が立つのは、そもそもの原因となったあの二人組だ。今度見つけたらどうしてくれよう──
けれどここで腹を立てているだけでは何も解決しない。
土岐は握っていた彼女の腕を少し引いて、隣の椅子に座らせた。
「── 小日向ちゃん、今日の練習はどやった?」
まるきり違う話を持ち出されて、彼女は戸惑ったようにまだ濡れている目を瞬いた。
「え……えと、個人練習と、アンサンブルの練習をしましたけど……」
「ふふっ、部長さんにえらいシゴかれてたなぁ」
「え、あ……見てたんですか……」
もじもじと恥ずかしそうに顔を赤らめ、俯く彼女。
「昨日と今日、寮の中以外で一人きりになる時間、なかったんとちゃう?」
「え…?」
記憶を辿るように視線を泳がせていた彼女は、そういえば、と呟いた。
「それ、千秋の差し金や。
あんたがふらふら一人で出かけて行かんように、如月クンに頼んどった」
「え……それじゃあ……」
「堪忍な、俺がバラしてしもてん」
彼女の顔が今にも泣き出しそうに歪む。
その顔があまりに切なくて、土岐はそっと彼女の頭を撫でた。
「ソロ優勝狙うとる千秋は自分の練習もあるから、回りくどいことでしかあんたを守ってやれんのを気に病んどる。
それで飯も食わんと芹沢くんがあんなヘロヘロになるほど無理な練習して、今も駅前のスタジオで課題曲の練習中や。
このままやと、明日の本番が心配なんよ。
小日向ちゃん、千秋の精神安定剤になったってくれへん?
あんたにしか頼めんことやから──」
「……秘密はないに越したことはないって、本当なんですね」
ぽつりと呟いて、彼女はすっくと立ち上がった。
「小日向ちゃん…?」
「言いたいこと全部言って、スッキリしてきます──
差し入れ持って!」
ぐいっと手の甲で頬の涙を拭った彼女はにっこりと向日葵のような笑顔を見せると、くるりと踵を返して食堂へ飛び込んでいった。
目的地はその奥にある台所に違いない。
土岐は長い息を吐きながら、ぐったりと椅子に身体を沈めた。
一応、これで役目は果たせただろう──
彼女の恐ろしいまでの素直さと単純さに助けられた部分が大きいけれど。
「あー……『恋』なんて、ほんまめんどくさいわ……」
ぼやきながらも、この後スタジオでどんなシーンが展開されるのかと想像するとなんだか楽しくなってきた。
土岐はそれからしばらくの間、ひとりラウンジでくすくすと笑い続け、食事を終えて通り過ぎていく寮生たちに変な目で見られたのだった。
【プチあとがき】
くどいようですが、このお話の寮のラウンジは玄関入ってすぐにある、という
独自設定となっております。
『妙なキャラクター』は、かなでちゃんの部屋にあるハンマーヘッドシャークみたいな
ぬいぐるみの柄だと思ってください(笑)
そして次回、『勝利のおまじない』イベント突入デスヨっ!
さーて、どんな展開になることやら…
【2010/04/11 up】