■彼と彼女と彼のツレ【13:さらば温泉】 東金

「── 遅いっ」
 宿の玄関ロビー、片隅の待合スペースのふかふかソファにゆったりと座り、出された冷たいお茶をたしなむ土岐と芹沢。 二人の前をせわしなく行ったり来たりしながら、東金は何度も腕時計を睨みつける。
「しゃあないやん、女の子はいろいろと時間がかかるもんやで?」
「それにしても遅すぎるだろ。 俺たちがこのロビーに来てから、もう30分は経ってるぜ」
「そうは言うても、女湯の中に見に行くわけにもいかんしなぁ…」
 客室が使えるのは食事のみ。 食後の風呂の後はロビーに集合、と申し合わせてあったのだが、彼女は一向に姿を見せない。 勘違いして部屋へ戻ったのかと芹沢に見に行かせたが、すでに部屋は後から来た泊まりの客が寛いでいた。 それならさすがの彼女も気づくだろう。 入浴中なら当然ではあるが携帯を鳴らしても応答がないので、彼らにはどうしようもないのである。
 幸い、この宿は入浴だけの客も受け入れているため、浴場の入り口がロビーに近い。 東金は人の出入りを見に行っては戻りを繰り返していた。
「……行ってくる」
「千秋……大事なソロ決勝の直前に不祥事はあかんよ?」
「……お前、俺が女湯に乱入するとでも…?」
「あれ、違うん?」
「アホか、違うに決まってるだろ。 女湯から出てきたヤツを捕まえて、中を見てきてもらうんだよ!」

 さすがに女湯の真正面に立つわけにもいかず、男湯側の少し離れた壁際に凭れてしばし待つこと10分。 組んだ腕にかかる指先がぴこぴこ上下する。 その速さは東金のイライラ度に比例していた。
 腕時計を見ようと俯いたその時、視界の端にふわりとした動きが入ってきた。 暖簾がゆらりと揺れたのだ。
 暖簾の隙間からにゅっと出てくる頭。 布地を手で持ち上げることもせず姿を現したのは、待ちに待った彼女だった。
「いつまで俺を待たせるつも── おいっ、大丈夫かっ !?」
 ゆうらりと揺れる彼女の身体。 さっきみた暖簾の揺れよりも頼りない。 酒に酔ったかのようにおぼつかない足取りだ。 東金は慌てて駆け寄り、両肩を掴んで支えてやった。
「ったく……湯あたりか?」
 基本的にいわゆる『カラスの行水』である東金には、こんなになるまで湯に浸かっていた経験がない。 強いて言うなら、少々頭がぼんやりしている今が湯あたり気味なのかもしれない。 湯の中でツレとしゃべっているうち、普段より長湯をしてしまっていた。
 と、全体重をかけて倒れてくる彼女の身体が手をすり抜けてしまった。 慌てて抱え込み、支え直す。
 茹で上がったタコのように真っ赤な顔を、猫が甘えてくるようにして胸に擦り寄せてくる。 きちんと拭ききれてない髪が触れたシャツが水を吸ってひんやりと冷たくなった。
「……溺れちゃいました」
 えへ、と弱々しく笑って、ふぅ、と艶っぽい吐息をひとつ。 閉じたまぶたを飾るまつ毛は長くくるんと弧を描いていて、やけに『女』を感じさせた。
 ドクン、と東金の心臓が飛び出しそうなほどに跳ねたのは言うまでもない。
 『溺れる』というキーワードが出たのは、この温泉に向かう車の中。 彼女をからかった、というより、ツレにからかわれて半ばヤケクソ気味に口から滑り出た言葉だったのだが。 湯に浸かっていろいろと考えているうち、彼女自身そういう結論に達したのだろうか。
「小日向……お前、何を真に受けて──」
 その時。
「── ちょっとあなた!  忘れ物よ!」
 女湯から飛び出してきた浴衣姿の恰幅のいいおばさん。 魚屋か八百屋の店先にいそうな雰囲気を持っている。 その手には見覚えのある可愛らしいバッグが握られていた。
「あら、よかった、お迎えが来てたのねぇ。 もうびっくりしたわよ〜、湯船に浸かってたら、突然姿が見えなくなるんですもの。 でもすぐに引き上げたから、たぶん湯を飲んだりはしてないと思うけど──」
 はい、と押しつけられた彼女のバッグを慌てて掴み、
「……ご面倒をおかけして、申し訳ありませんでした」
 いつもは傲慢な態度の東金だが、大企業の子息だけあって幼い頃から礼儀はきちんと叩き込まれている。 彼女を抱えているため、動かせる首だけで頭を下げた。
「まぁ、お若いのにきちんとしたご主人ねぇ」
「は?」
「奥さん、ずいぶん疲れてらっしゃるみたいだから、少し休ませてあげて」
「あ、いや、あの」
「そうそう、冷たい水を飲ませてあげたほうがいいわね。 自分で飲めないようなら、口移しで無理にでも」
「いっ、だ、だからっ」
 さすがの東金も、人生経験豊富なおばさんの思い込みマシンガントークには勝てるはずもなく。 お大事にね〜、と去っていくおばさんの後ろ姿を見送ると、どっと疲れが出てしまった。
「お前……本当に風呂で溺れたのか」
 プールで泳いで、アンサンブルの練習をして── 疲れがピークに来ていたのだろう。 その上たらふく食べた満腹状態なら眠気に襲われても仕方ない。 車の中でも寝ていたくらいだし。
 思わずくすっと笑って、彼女の顔を覗き込む。 夢うつつを彷徨う彼女はほんのり微笑んでいて、とても幸せそうに見えた。 ふと、さっきのおばさんの言葉が蘇る。
 ── 俺が、『ご主人』。こいつが……『奥さん』…?
 ぼむっ、と爆発したように東金の顔が真っ赤に染まった。
 身体がムズムズするほど気恥ずかしいが……悪くはない。 いや、むしろ大歓迎だ。
「馬鹿……風呂で溺れるくらいなら、いっそ本気で俺に溺れちまえ」
 彼女の微笑みが深くなったように見えて、東金はくすぐったそうに口元を緩ませた。

*  *  *  *  *

 寮へと戻る車中にて。
「── なあ、芹沢クン?」
「はい」
「メモリー、まだ空いとう?」
「……2、3枚程度なら」
「ほんなら頼むわ」
 指示を受ける前に自主的に助手席に乗り込んだ芹沢が後ろに乗り出して携帯を構えた。

 なかなか戻ってこない二人が心配になってきて様子を見に行った土岐が目にしたのは、廊下のど真ん中で抱き合っている二人の姿だった。
 いや、『抱き合っている』と言えば嘘になる。 東金が一方的に彼女を抱き締めていた。 よく見れば、彼女はのぼせてしまったのか、意識がほとんどないらしい。
 抱えた彼女を近くのベンチに座らせてから、東金は男湯に飛び込んで行った。 すぐさま戻ってきた彼の手には、浴場備え付けのタオル。 ばさっと彼女の頭に被せ、掻き回すようにガシガシと拭いてやる。
 ぼさぼさになった彼女の髪を丁寧に手櫛で整えてやってから、傍らの可愛らしいバッグの中を覗き込んだ。 手を突っ込み、取り出したのは昼間土岐が彼女に渡した絆創膏の箱。 湯に濡れた膝の絆創膏をそーっと剥がし、新しいものに貼り替えてやる。 遠慮がちなその手つきは、まるで繊細なガラス細工を扱うかのようだった。
 律義にも男湯に戻ってタオルを返してきた彼は、自分に抱きつかせるようにして彼女を凭れさせると、ひょいとベンチから抱え上げた。
 当然、彼が向かうのは玄関ロビー。 ばちっと目が合った瞬間の彼のバツの悪そうな真っ赤な顔は、一生忘れることができないだろう。

「いやぁ、ええもん見たなぁ」
 ── いつもは人に命じて世話をさせる東金千秋が、かいがいしく人の世話を焼いているなんて。
 実は土岐の携帯は一連のシーンの画像で埋め尽くされていた。 もちろん芹沢の携帯も同様である。 すぐに携帯を後ろ手に隠したから、写真を撮っていたことはバレていないはず。
 芹沢は手を伸ばして天井のルームランプのスイッチをオンにする。
 パシャッ、と作り物のシャッター音。
 被写体はもちろん、後部座席で頭を寄せ合い幸せそうにすやすやと寝息を立てる二人。
 運転の邪魔にならないように、明かりはすぐに消した。
「ふふっ、神戸に帰ったら、写真集にして部員全員に回覧したろか」
「副部長……風呂の中での会話と矛盾している気がしますが」
「ええんよ、神戸からわざわざ横浜まで来て小日向ちゃんにどうこうしよう思う奴はおらんやろ」
「はぁ……」
 幸せな夢を見ているであろう二人を乗せ、車は菩提樹寮に向けて夜の闇の中をひた走った。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ザ・お約束展開(笑)
 そして乙女な東金千秋(笑)
 よく考えると、東金さんとかなでちゃんの間の問題は解決してないんですけど。
 でも、東金さんが幸せならそれでいいさ(笑)
 あれ? せっかくの『口移し』発言をスルーしたぞ…?

【2010/04/07 up】