■彼と彼女と彼のツレ【11:温泉に行こう】
「── 小日向」
呼んだ瞬間、彼女が身を竦めたように見えた。
しまった、そんなつもりではなかったのに。
苛立ちが思った以上に声に出てしまった。
東金はざわつく気持ちを悟られないようゆっくりと席を離れ、すっかり委縮してしまった彼女の前に立つ。
言葉を紡ごうと開いた口を、慌てて閉じた。
『今日はどうして来なかった?』だなんて聞けやしない。
練習を疎かにするなと言ったのは自分自身だ。
それもたった1日前に。
彼女が練習場所に顔を見せなかっただけで練習に身が入らなかったなんて、自分でも情けない。
彼女の手にはヴァイオリンケース。
如月弟と一緒に帰ってきたところを見ると、アンサンブル練習をしていたのだろう。
複数で集まるなら、時間が自由にならなくても仕方がない。
そもそもファイナルを控えたこの時期に、ふらふら人の練習を聞きに行く時間があるほうがおかしいのだ。
東金は彼女の頭の上にぽんっと手を乗せた。
彼女がひゃっ、と首を竦めるのもお構いなしに、わしゃわしゃと柔らかい髪を掻き混ぜる。
「……しっかり練習しろよ。
セミファイナルでお前らに勝ちを譲った俺たちのためにもな」
背後で深い溜息が聞こえたような気がした。
「── どうした?
何か問題でも?」
気配もなく現れたのは如月兄だった。
少し遅れて寮に戻ってきた彼は妹分が何かトラブルに巻き込まれているとでも思ったのか、その表情は険しい。
「いや、おたくの大事な1stを激励してやっていただけだ」
「……そうか」
如月兄は急に興味を失ったように険しさを消し、彼女の方に向き直る。
「小日向、今日は水に入った後の長時間の練習で疲れていると思う。
明日に疲労を残さないよう早く休め。
いいな?」
「……『水』?」
怪訝な呟きはもちろん東金の口から漏れたものである。
「ああ、水嶋の提案で今日はアンサンブルメンバーでプールに行ってきた。
娯楽を共にすることで生まれる結束力もあるだろう。
モチベーションの維持にはある程度の息抜きも必要だと判断した上でのことだ」
説明責任は果たしたとばかりに、それじゃ、と一方的に話を打ち切り部屋へ向かう如月兄。
「……へぇ、プール、か」
目の前の彼女を見下ろすと、ヴァイオリンケースの取っ手を握る両手に強い力がこもって筋が浮き出しているのが見えた。
彼女は皆でプールに行ったことを知られたくなかったのだろうか?
── そりゃそうだろう、付き合い始めたばかりの男を差し置いて、野郎4人に囲まれ水遊び。 それで罪悪感がなきゃただの尻軽女だ。 だが『アンサンブルのため』という部長命令なら、一部員に過ぎないこいつは断れないだろう。 如月にしても、もしも後ろ暗い出来事のひとつもあったのなら、しれっと『プールに行った』などと言えるはずはないだろうし。 もちろん俺を差し置きあいつらが先にこいつの水着姿を拝んだと思えば心穏やかではないが、その程度のことで目くじら立てるほど俺は狭量じゃねえ。 如月兄弟あたりはガキの頃から見慣れてるかもしれねえし。 泳ぎに行くのに海はもう無理だが、プールならファイナルの後でも十分間に合う。 その気になりゃ温泉プールでオールシーズン── 『温泉』……?
推理をする名探偵のようなポーズでしばし無言の百面相を続けていた東金が、すっと顔を上げた。
「── 蓬生、車を出せ」
「ええけど……どこ行く気や?」
「息抜きと言えば温泉に決まってるだろ── 小日向、早く支度して来い」
「え……ええっ !? 私もですかっ !?」
「ふっ、当たり前だ。
プール如きじゃ味わえないような楽しみってもんを教えてやるぜ」
* * * * *
東金が意気揚々と部屋へ引き揚げていった後。
残された土岐は溜息混じりで携帯を弄んでいた。
遊んでいるわけではない。
旅情報サイトで温泉宿を検索していたのである。
「── 芹沢クン、ここ電話して予約取っといて」
「……承知しました」
気だるげに差し出された土岐の携帯を受け取り、芹沢は自分の携帯で電話をかけ始める。
「ほ、蓬生さんっ!」
顔を真っ赤にして慌てる彼女が土岐に詰め寄った。
高校生が車飛ばして温泉宿、というのは彼女には信じられないことだろう。
彼女でなくとも耳を疑うはずだ。
だが、彼女が真っ赤なのには別の理由があった。
荷物を部屋に置きに戻る東金が、去り際に言ったのである──
『混浴露天風呂でな』と。
土岐はぽふぽふと彼女の頭を撫で、
「安心しぃ、混浴風呂のない宿、選んどいたから」
「でも、でも…っ」
「ああなった千秋はもう誰にも止められへん、おとなしゅう観念することや」
それでも彼女の動揺は収まらない様子で、赤い顔の前でもじもじと指先を絡めては解きを繰り返している。
初々しさに思わず笑みが浮かんだ。
「……それに秘密がひとつ減ってよかったやないの。
入れ知恵した俺が言うのもなんやけど、秘密っちゅうもんはないに越したことない。
千秋の対抗意識に火をつけてくれた、おたくの部長さんに感謝やな」
はよ支度しといで、と彼女の背を押して送り出し、土岐は僅かに淋しげな笑みを浮かべて溜息を吐いた。
* * * * *
かくて彼らは夕暮れと夜闇の狭間をくぐり、温泉へ向けひた走る。
「── ふふっ、小日向ちゃん、そないに固うならんでええよ。
ちゃんと安全運転するし」
ルームミラーをちらりと見た土岐が笑う。
首を捻って振り返ると、真後ろの座席に座る彼女はまるで面接官を前にした受験者のような姿勢の良さで座っていた。
その隣で芹沢が困ったような苦笑を浮かべている。
しまった、ついいつもの癖で助手席に乗り込んだ。
席を代われ、と言いたいところだが、いかんせん今は高速道路を走る車の中である。
一般道と違って、そう簡単に車を止めることなどできはしない。
よし、帰りは芹沢を助手席に座らせよう、と心に決めた。
「は、はい……あっ、そ、そうだ、ガム食べますか?」
「それええなぁ、口動かしとったら眠気防止にもなるし」
少し緊張を解いた彼女は持っていたバッグの中をごそごそ探り、手のひらほどの大きさのパウチを取り出した。
袋入りの粒タイプのガムらしい。
シャカシャカと振って、おずおずと差し出された芹沢の手のひらの上にガムを一粒、コロンと転がした。
シートベルトを外した彼女は前の座席の間から身体を乗り出して、東金にもガムを配る。
「小日向ちゃん、俺運転中やから、口の中に放り込んでくれへん?」
「はい、いいですよ」
一旦座席に戻った彼女は自分の手のひらに受けたガムを摘まみ、前方を見据えたまま口を開けて少し顔を後ろに傾ける土岐の口元に手を伸ばした。
── させるか!
ムッとした東金は彼女の腕を掴んで、指先に食らいつく。
代わりに自分がもらったガムを土岐の口の中に突っ込んだ。
「……千秋のいけず……」
カリッと音をさせて、土岐が苦笑する。
ふん、と鼻であしらって、東金も奥歯でガムを噛んだ。
途端、口の中に広がる爽やかな味。
「これ……オレンジか?」
「あ、はい、ブラッドオレンジ味です。
私、好きなんです、柑橘系。
リップとか、シャンプーとか、ボディソープとか、全部シトラス系で揃えてて」
「へぇ……」
ちらりと一瞬向けられた土岐の視線とぶつかった。
何か言いたげな、笑みを含んだ視線。
「小日向ちゃん、千秋に食べられんよう気ぃつけや?
オレンジは千秋の好物やからな」
「え……?」
「それとも……もう『食後』やったりするん?」
「え……ええっ !?」
暗がりでもわかるほど真っ赤になった彼女の反応をミラー越しに楽しんでいるツレ。
はっきり言って面白くない。
「……ハッ、小日向を俺に溺れさせるのは簡単だが、それでこいつが優勝を逃しでもしてみろ、せっかく今まで教えてやったことが全て水の泡じゃねぇか」
── 何が『溺れさせる』だ。
今にも溺れそうになってもがいているのは自分自身のくせに。
「……馬鹿言ってねぇで、しっかり前見て運転してろ」
ため息混じりに告げると、土岐はわかってるて、と苦笑したきり口を噤んだ。
ムキになって噛みつくとでも思っていたのだろうか。
興が冷めてしまったらしい。
残ったのは車のエンジン音とタイヤが路面を転がる音、そして居心地の悪い微妙な空気。
東金は漏れそうになる溜息を飲み込んで、気を紛らせようと外を流れる暗い景色に目を向ける。
ぎっと噛み締めた奥歯の辺りからほのかな苦みのある甘い果汁が滲み出た。
高速を降り、間もなく宿に着こうかという頃。
「── ぶ、部長っ !?」
車の揺れに誘われて、意識がふわふわと浮かび始めていた東金の耳に、一大事と言わんばかりの慌てた声が突き刺さった。
「……んあ…? どうした、芹沢…」
「こっ、小日向さんがっ!」
その一言に東金は勢いよく後ろを振り返る。
「っ!
芹沢っ、席代われっ!
蓬生っ、車止めろっ!
今すぐにだっ!」
彼女の身体は大きく傾いて、必死に隅に寄ろうとしてシートベルトに阻まれている芹沢の肩にこてんと頭を預け、すっかり睡魔に意識を委ねてしまっていた。
【プチあとがき】
東金さん、『かなで依存症』を発症しました(笑)
うちのコルダヒロインはなぜかシトラス好き設定になってしまう……
前の話で前振りしておきたかったなぁ。
なりゆきでそうなってしまったもので(汗)
あ、オレンジシャーベットは差し入れたことがないってことでお願いします。
【2010/04/01 up】