■彼と彼女と彼のツレ【10:秘密】
薬局から戻ってくると、彼女はしょんぼりと小さくなってベンチに座っていた。
可哀想に、と土岐は溜息を漏らす。
どうしても人の目を惹きつけてしまうツレと親密にしている場面を、おそらくどこかで見られてしまったのだろう。
嫉妬され、攻撃を受けた。
彼女はそれを身を持って悟ったのに違いない。
「── お待たせ、小日向ちゃん」
はっと顔を上げた彼女の頬に涙は見えない。
けれど大きな瞳は潤んでいて、目の縁は赤く染まっていた。
ひとりで待っている間、彼女の頭の中にはいろいろなことがグルグルと渦巻いていたに違いない。
その証拠に、助け起こして以降の彼女はずっと無言だ。
「ほれ、足出してみ?」
素直に足を延ばす彼女に、土岐は苦笑する。
いくら傷の治療とはいえ、こんなにも無防備に男の目の前に足を晒すなんて。
ツレに伝えてしっかり危機管理教育をさせた方がよさそうだ。
元は滑らかだったはずの膝にできた醜い傷の下に一掴みの脱脂綿を添え、消毒薬で血と汚れを洗い流す。
沁みたのだろう、彼女は微かに呻いた。
「……蓬生さん」
ようやく彼女が口を開く。
薬の与えた刺激が気つけ薬代わりになったのかもしれない。
「ん? なんや?」
綺麗になった傷を脱脂綿でそっと拭き取って。
「……さっきのこと、東金さんには言わないで」
まるで頭の中を読み取ったかのように彼女が呟いた。
「……なんでや?」
「……東金さんは今、ソロ決勝を控えた大事な時だから……嫌な思いさせて、邪魔したくないっ……」
彼女は膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締め、唇を噛んだ。
『千秋はそんなことで動揺して調子崩すような男やないで』
そう言ってやれば彼女も安心するのだろうが、土岐はそれを口に出すことができなかった。
本来のツレは実際そういう男である。
幼なじみということもあって思考と行動のパターンを確実に把握した上で断言できる。
けれど彼女と出会ってからのツレの反応は読みづらくなった。
さっきの意地悪女に言った『何をしでかすかわからない』というのは決して嘘ではないのだ。
薬が乾いた傷の上に大判の絆創膏をぺたりと貼ってやり、ベンチの上に広げた薬の箱やところどころ赤く染まった脱脂綿を薬局の袋に片付けて、彼女の隣に腰を下ろした。
「── ええよ、ふたりだけの秘密、やな。
なんやあんたと悪いことしとるみたいでゾクゾクするわぁ」
顔を覗き込みながら、ふふ、と含み笑いをすると、彼女の頬にうっすらと朱が差した。
「もう…っ、からかわないでください!
……私は、大丈夫……大丈夫ですから。
蓬生さんだって知ってるでしょ?
私の打たれ強さ」
そう言って彼女は笑う。
── そないに無理矢理自分に言い聞かせて、無理に笑わんでもええのに。
そう思いながらも、土岐はせやな、とだけ返した。
「ほな、寮まで送ったるわ。
車まで辛抱して歩いてな──
って、あんたここに何しに来たん?」
首を傾げる土岐。
持ってやった彼女の荷物はそう大きくもないビニール製のバッグひとつのみ。
あるはずのヴァイオリンケースがどこにも見当たらない。
「あ、プールの帰りなんです」
「なんや、友達と遊んどったんかいな……この時期にのんきやな」
「いえ、アンサンブルのみんなで。
ファイナルに向けての気分転換と結束力強化のために、ってハルに誘われたんです」
ふむ、と土岐は考え込んだ。
発案者があの生真面目なチェロ弾きのチビッ子なら問題ないだろう。もしもあの澄ました副部長の発案だったら考え物──
ああ、でも余計なことをしてまたツレに説教されるのも困る。
はふぅ、と大きな溜息が漏れた。
「小日向ちゃん……
こかされたんより、プールの方を秘密にしといたほうがええで?」
「え、どうしてですか?」
「そりゃあ……
好きな女の水着姿を自分より先に他の男に見られたと思たら気分悪いやろ」
「そ…そんな、私の水着姿なんて大したものじゃありませんよっ」
「はぁ……わかってへんなぁ。
小日向ちゃんはもう少し男心を勉強したほうがええよ」
くすくす笑いながら、ほな行こか、と赤い顔を俯けている彼女を促した。
「でも蓬生さん、用事があったんじゃ……」
「この辺ぶらぶらするんも飽きたし、そろそろ寮に帰ろう思てたとこなんよ。
ああ、寄りたいとこあるんなら回ったるで?」
ツレへの陣中見舞いはどうせ自分の気まぐれなのだから、このまま寮に戻っても支障はない。
それよりここで彼女を放り出す方が心配だった。
一瞬躊躇って、彼女は首を横に振る。
彼女が進んでいた方向、そのまま行けば公園だ。
躊躇の理由は一目瞭然。
今の彼女はツレと顔を合わせるのが辛いのだろう。
ベンチから立ち上がり、ひょこひょこと歩き始めた彼女は見ていて危なっかしい。
支えてやろうと咄嗟に腰に伸ばした手を止めて、引っ張るように腕を掴んだ。
さっきの行動──
彼女をかばうためとはいえ、抱き寄せたのは失敗だったのではないだろうか?
もしかすると、彼女に向けられる新たな悪意の種にならないとも限らない。
ほんま、失敗やったわ──
土岐は思わず嘆息する。
身を縮める華奢な身体の感触が腕の中にまだ残っているような錯覚に捕われて、振り払うように小さく頭を振った。
* * * * *
彼女はあれからちゃんと練習ができただろうか?
寮に帰るなり、ありがとうございました、と何度も頭を下げる彼女を、こないだの罪滅ぼしや、と納得させ、部屋に楽器を取りに戻った彼女が少し明るい表情で練習に出かけていくのを見送った。
出かける前に、ひとりで練習するなら学校で、と言い含めて。
この後はアンサンブルメンバーと合わせるらしいから大丈夫だとは思うけれど。
首を巡らせて見た外の景色は赤く染まり始めていた。
午後の大半を寮のラウンジで過ごした土岐は、ずっと垂れ流していたテレビの電源をオフにする。
そろそろツレも練習から戻ってくる頃だろう。
その時、古い建物の建て付けの悪い扉が大きな音を立てて開いた。
噂をすればなんとやら。
入ってきたのはツレと後輩だった。
テーブルの上に荷物を置いて、ドサリと椅子に沈み込む。
「おかえり、千秋」
東金は険しい顔つきで無言のまま、振り上げた足をガンッとテーブルに乗せた。
「どないしたん?
そないにハードな練習やったん?」
疲れ果てた顔でぼんやり立っていた芹沢に問いかける。
「あ……いえ、練習自体は1時間ほどだったのですが……」
芹沢は言葉を濁し、続きは土岐の耳元でこっそりと。
今日は一日課題曲の無伴奏を練習すると聞いていたのに、急に呼び出された芹沢がスタジオに行った時にはもうこんな荒れ模様だったらしい。
「………小日向は?」
地を這うような低い声に、ゾクリと背筋が凍った。
── もうバレた…? どれがバレた !?
「あー……まだ練習から戻ってないみたいやで?」
バクバクする心臓を押さえつけ、極力平静を装って答えを返す。
東金はフンと鼻を鳴らして、乱暴に頬杖をついた。
痛みを感じるような沈黙が続く。
芹沢は、お茶を、と呟いてそそくさと逃げてしまった。
だが一向にお茶は現れない。
どれくらい経っただろうか。
近づいてきた話し声、続けてガチャリと玄関の扉が開く。
「── あー疲れた。
じゃあな、かなで」
「うん」
男子棟の方へとラウンジを横切っていくのは如月弟。
「── 小日向」
呼ばれた低い声に、女子棟へ向かいかけていた彼女が足を止め、ゆっくりと振り返る。
ひくりと顔が強張った。
どう助け船を出してやればいいのだろう──
必死に知恵を巡らせる土岐は今、ムンクの『叫び』に描かれた人物の気持ちが理解できるような気がしていた。
【プチあとがき】
おおーっと! ついに蓬生さんからもかなでちゃんに矢印が出たっ !?(笑)
そして、一体何がバレた !?
かなでちゃん逃げてーっ!(笑)
【2010/03/30 up】