■彼と彼女と彼のツレ【9:現実を知る】 東金

 東金が潮風の吹く公園で練習を始めれば、必ずと言っていいほどギャラリーに囲まれた。 弾き終えるたび湧き起こる拍手と黄色い歓声。 地元にいる頃からのありふれた光景だ。
 だが、そこに異質なものが混じり始めたのはこの横浜に来てから。
 アイドル歌手やヴィジュアル系ロックバンドのライブと勘違いしているような熱狂的なギャラリーに隠れるようにして、ただひたすら彼の奏でる音に耳を傾け、溢れるままに静かに涙を流す少女。 その姿を今日も見つけてニヤリと笑う。
 ヴァイオリンを下ろした東金は、ぐるりとギャラリーを見渡した。 声をかけてもらえると期待したギャラリーは、目を輝かせながら彼の発言を待つ。
「── 聞いてくれてサンキュ」
 きゃあーっ、と黄色い声。
「楽しんでくれているところ申し訳ないが、俺はコンクールのソロ決勝を控えている。 少し集中して練習させてもらえるとありがたいんだが」
 もう一度黄色い悲鳴が上がった後、素直なギャラリーはそそくさと蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていった。 もちろん『千秋くん頑張ってね!』『応援してます!』『本番は絶対聞きに行きます!』と熱のこもったメッセージを残すのは忘れずに。
 はふ、と溜息を漏らし、こめかみを流れる汗を手の甲でぐいっと拭ってから、東金はすたすたと大股で歩き始めた。 目的は散っていくギャラリーに紛れそびれた彼女の捕獲である。
 こそこそと立ち去ろうとしている爽やかな空の色のセーラーカラーを猫の子を捕まえるようにむんずと掴む。
「── おい、なんでお前まで逃げる?」
「だ、だって……邪魔しちゃ悪いし……」
 そう言って、涙を拭うことも忘れてえぐえぐとしゃくり上げながらジタバタしている彼女がやたらと可愛い。
 まったく、と口の中で呟いて、襟首を掴む手を放してポケットからハンカチを取り出した。 器用に縁をつまんでひらりと振って、広がったそれを宙に放る。 ふわりと手のひらで受け止めて、そのままばふっと彼女の顔に押し付けた。 左手はヴァイオリンで塞がっているので、こうするより他に思い付かなかったのだ。
 んぶっ、と彼女が奇妙な声を上げるのと、遠くで悲鳴が上がったのはほぼ同時。 見れば少し離れたところに数人の女性が集まって、こちらを見ていた。 完全に立ち去らずに残っていたギャラリーの一部なのだろう。 『いやーっ!』『誰よあの女 !?』とかいう声が聞こえてきた。
 ムッとした東金は『俺の女だ!』と心の中で宣言して── なんだかくすぐったくて、少し照れた。 きっと顔は思い切り緩んでいることだろう。 ハンカチで視界を塞がれた状態の彼女からは見られずに済んでほっとする。 ごふっ、と不自然な咳払いでバツの悪さをごまかした。
 照れまぎれに彼女の顔をゴシゴシ擦っていると、ふと思い出した。 いつだったか、彼女の幼なじみである如月弟もこうして彼女の涙を乱暴に拭ってやっていたことを。 どうやら彼女は周囲の者につい世話を焼いてしまわせる天賦のものを持っているらしい。 まるで大勢の世話係に囲まれる『お姫様』。 ぽやんとしていて、少々気品も色気も欠けてはいるが、それでも姫は姫。 巷で『王子様』などと呼ばれている自分にはぴったりじゃないか、とほくそ笑む。
 だが彼女の世話を焼くのは俺ひとりで十分、その他大勢は蹴散らしてやる── と考えてふと気づく。 なんで俺がただの世話係なんだ、と心の中で自分自身にツッコミを入れた。
 最終的に至った『王子が姫の世話をして何が悪い』という結論に満足した東金は、彼女をハンカチで作られた闇から解放してやり、役目を果たしたそれをポケットに突っ込んだ。
「あ……ありがと……ございました」
「礼はいいから、泣くならハンカチくらい自分で使え」
「……泣こうと思って泣いてるわけじゃありません」
 不服そうに唇を尖らせて、『泣けてくるんです』と呟く彼女。 ここが人通りの多い昼間の公園であることが口惜しい。 そうでなければ彼女を引き寄せ抱き締めることができただろうに。
「そ……それはいいが、お前、自分の練習は?」
 彼女も室内楽部門ファイナルを控えて猛練習せねばならない時期。 こんなところでふらふら遊んでいる暇はないはずだ。
「あ、今から楽器店に行くんです。 そろそろ弦を張り替えて、本番までに慣らしておこうかなって」
「ここには楽器店はないぜ?  方向音痴にも程があるだろ」
 ニヤリと笑って揶揄すれば、彼女は気に止めた様子もなくにこりと笑った。
「気分転換も兼ねて遠回り、です。 きっとここで東金さんが練習してると思って」
 ── ああもう。
 彼女の何気ない一言がこんなにも自分を翻弄する。
 ほとんど無意識に手を伸ばした。 彼女の後頭部を捕らえて、自分の胸にぎゅっと彼女の顔を押し付ける。 どこかで悲鳴が上がったこともまったく気にならなかった。
「こそこそするな。 俺の演奏を聞くなら、堂々と最前列で聞いてろ」
「……邪魔じゃありませんか…?」
「いや、お前が俺の周りをちょろちょろするのを見てるのは悪くない。 ただし、自分の練習は疎かにするな。 俺のせいで優勝を逃したと責められるのは不本意だからな」
「はい!」
 元気な返事が聞こえて、東金は抱え込んだ彼女の頭をぽふっとひとつ叩いてから解放してやった。
 練習頑張ってくださいね、と言い残して駆け出した彼女の後ろ姿を見送って、東金は練習を再開する。 今なら苦手な曲調の課題曲も難なく弾きこなせそうな気がした。

*  *  *  *  *

 そんな出来事があった翌日──
 土岐は今日もツレが練習に勤しんでいる公園へ向けて愛車を走らせていた。
 途中、陣中見舞いに何か差し入れてやるか、と元町通りへ寄る。 駐車場を出ると前方に見えた小柄な人影。 楽しげな鼻歌でも聞こえてきそうなほどに軽やかな足取りで進む彼女を追いかけようと足を早めた。
 あと少しで追いつける、と思ったその時だった。
 奥からこちらに向かって歩いてくる女二人組がなんとなく目に止まった。 確か、ライヴと称してアンサンブルの練習をしていた時に何度か見たことがあるような気がする。 はっと何かに気づいた一人がもう一人に耳打ちした。
 めんどくさ、と土岐は嘆息する。 彼自身、ツレ共々周囲の耳目を集める存在である。 さてどうやって逃れようかと思案しているうちに気づいた。 二人組のターゲットは自分ではなく、前を楽しげに歩いている彼女であることを。 耳打ちされた女が小さく頷いて小走りになったと思ったら、通り過ぎざまにわざと彼女に肩をぶつけたのだ。
 次にどうなるか予想はついたけれど、いかんせん手を差し伸べるには距離がありすぎた。
 ぶつかられた彼女はきゃっと小さな悲鳴を上げてよろめいた。 その足元に、遅れてきたもう一人が足払いをかけるようにすっと足を出す。 悪意を持って出された足に躓いた彼女は、当然のごとく派手に転んでしまった。 合流してからチラリと後ろを振り返り、ニンマリと底意地の悪そうな笑みを浮かべる女たち。
「── あんたら、ちょい待ち」
 土岐はそのまま立ち去ろうとしていた女二人の行く手を遮った。 最初はムッとしていた女たちもそこにいるのが誰かを知った途端、『きゃあ、蓬生クンだ♥』『こんなところで会えるなんてラッキー♥』と興奮気味。 変わり身の早さに呆れの混じった溜息を吐きつつ、土岐は立ち上がりかけていた彼女に手を貸し、悪意から護るようにそっと抱き寄せた。
「── 今の、一部始終見とったで?  ああいうんは感心せんなぁ」
 長身の土岐から冷たい視線で見下ろされ、女二人は興奮一転、ヒッと声を上げて身体を寄せ合った。
 土岐はわざとらしいほど優しく腕の中の小さな頭を撫でながら、
「この子は俺らの大事な子や。 特に千秋は── こんなことしても千秋が悲しむだけやで。 あぁ、それよりもこの子が傷つけられたと知ったら逆上して何しでかすかわからへんなぁ…… わかる? 俺の言うとる意味」
 抱き合って、コクコクと首を振る女たち。
「ええ子やな。 もう二度と、こんなアホなことしたらあかんで?」
 儚げでありながら誰もがうっとりするような妖艶な笑みを浮かべ、必要以上に柔らかい声音で諭す。
「ほな、もうお帰り」
「「ご、ごめんなさいっ!」」
 蒼白になっていた二人組はガバッと頭を下げて、逃げるように去っていった。

 本当に女という生き物は恐ろしい、としみじみ思う。 腕の中でガチガチに身を固くしている彼女も同じ『女』であることが信じられないほどに。 土岐はくすっと笑って、彼女を囲う腕を解いた。
「傷つくわぁ、そない固くならんでもええやん。 抱きしめられたことくらいあるんやろ?  ………千秋に」
 ぼそりと付け加えた名前に、彼女の顔がぼふんと沸騰した。
 本当にわかりやすい、素直すぎる彼女の反応。 先日目撃してしまったラウンジでの光景からして、ふたりの間に何か進展があったのだろうことは予想してはいたけれど。
 しかし今は彼女をいじめて遊んでいる場合ではないと思い出し、まあええけど、と自ら話を打ち切った。
「どっか痛めてへん?  ちょっと見せてみ」
 彼女の手を取り、持っていたビニール製のバッグを取り上げて、手のひらを確認する。 少し赤くなってしまった部分はあるけれど、柔らかい手のひらに傷らしきものは見えなかった。 指の関節や手首の辺りを少し強めにつまんでみたが、彼女が痛がらないところを見ると突き指や捻挫の心配もないらしい。
 ほっとしながら下ろした視界に入った赤い色にドキリとする。 片方の膝に滲んだ血。 それほど深刻な傷ではないけれど、だからといって放っておいていい状態でもなさそうだった。
「あー…… まぁ、あれだけ派手にコケたらなぁ…… 許してな、コケる前に助けてやれへんで」
 人の流れから外れた場所にあるベンチに移動して彼女を座らせると、土岐は薬局へと急いだ。 足取りに迷いはない。 横浜に来て約2週間、この通りのどこに何の店があるか把握するには十分な時間だった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ものすごいお約束展開といいますか……
 今時それはないやろ、といいますか……
 かなでちゃんにメロメロの東金さんと、さらりとカッコいい蓬生さんが書きたかったんです。
 すっ転んだかなでちゃんの背後にいた蓬生さんの視界には何が映っていたんでしょうね(笑)
 中途半端なところで終わってすんません。
 あ、『ラウンジでの出来事』はいんたぁみっしょん【1】です。

【2010/03/28 up】