■彼と彼女と彼のツレ【7:謝罪】
東金が共用棟のラウンジへ向かった時には、他の者はもう出払ってしまった後だった。
それも仕方のないことである。
彼は寝過ごしてしまったのだから。
ベッドに潜ってからも悶々とした夜を過ごした彼がようやく寝入ったのは、すでに東の空が白み始める頃。
朝のうちに彼女を捕まえようと思っていたのに失敗した──
チッ、と舌打ちして、まだ多少ぼんやりしている頭を掻き毟った。
セミファイナルは明後日に迫っていた。
出番が2日目の神南にはあと3日ある。
だが1日目の演奏も聞いておきたい。
となると残された練習日は今日を含めて2日を残すのみ。
それは彼女たち星奏学院も同じはずだ。
今日と明日は駅前の貸しスタジオを終日借り切ってある。
彼と、彼のツレの持つサイレントヴァイオリンはスピーカーから音を出してこそ本領を発揮するのだ。
集合の時間はとうに過ぎていた。
昨日のこともあって、ツレは声をかけずに先に出かけてしまったのだろう。
東金は急ぎ足でスタジオへと向かっていた。
まもなくスタジオというところに行く手を塞ぐようにして人だかりができていた。
わっと拍手が起こり、ブラボーの声が幾重にも重なる。
誰かがちょうど1曲披露し終えたところなのだろう。
聴衆が何かの皮を向くように徐々にはけていく。
その中心で深々とお辞儀をする姿が見えた時、東金はドキリとした。
朝イチで捕まえようと思っていた彼女だったのだ。
賞賛や激励ににこやかに応えていた彼女の視線が東金の上に止まった瞬間、彼女の表情が一瞬にして強張った。
また目を逸らされる──
と思ったら、彼女は苦い表情のまま近づいてきた。
そして──
「── ごめんなさいっ!」
聴衆に向けたお辞儀よりもさらに深く頭を下げた。
「小日向……?」
「き、昨日はひどいこと言っちゃってごめんなさい。
さっき榊先輩から電話があって、聞いたんです。
蓬生さんが謝りに来て、東金さんは無関係だって言ってたって……
なのに、私──」
彼女は一気に捲し立て、だんだん尻すぼみになった声と同じように俯いて、きゅっと下唇を噛みしめた。
東金はちらりと腕時計を確認してから、彼女の横をすり抜けた。
え、と驚いたような声が聞こえたが、構うことなくさっきまで彼女が立っていた場所へと向かう。
そこにあったヴァイオリンケースとバッグを拾い上げ、小脇に抱えて踵を返した。
同じルートを戻った彼は、立ち止まることなく彼女の手首を掴み、そのまま引っ張って歩いていく。
「えっ、あ、あのっ!」
「……朝食に付き合え」
「ええっ !?
あのっ、もうすぐお昼ですけどっ」
「俺はさっき起きたんだ」
「で、でも私、お弁当が」
「だったらお前はそれを食え。
俺は朝食、お前は昼食ってことで問題ないだろう?」
彼は有無を言わさず近くのコーヒーショップでアイスアッサムティーとサンドイッチをテイクアウトすると、ふたたび彼女の手を引いて歩き続けた。
向かうのは星奏学院の森の広場。
本来は正門を通らねばならないのだろうが、そんな遠回りをしなくてもいいことを彼は知っていた。
学院の敷地を囲む生垣に僅かな途切れがあるのを、前に広場を訪れた時に見つけていたのだ。
木の間から広場に滑り込み、手近な木陰に腰を下ろしてテイクアウトの包みを開く。
観念したらしい彼女も隣に座り、東金が運んできたバッグの中から弁当を取り出した。
しばらくの間、自分の咀嚼音だけが大きく響いていた。
本来美味しいはずのサンドイッチの味覚情報は脳にまで届いていないのか、まったく味を感じない。
頭の中は『何かしゃべれや俺っ!』と関西弁イントネーションのセルフツッコミでいっぱいだからである。
ちらりと隣を窺えば、緩慢な動きでちまちまと弁当をつついている彼女。
おそらく彼女は自分が腹を立てていると誤解しているだろう。
腹を立てるどころか、謝罪の言葉を必死に探しているというのに。
「………あの…」
小さな声に隣を見やると、俯いた彼女は膝に置いた弁当箱の上で箸を休めていた。
「……なんだ」
「あの……さっきの私の演奏、どうでしたか?」
「……悪いが聞いていない。
俺があの場所に着いた時、お前がちょうど弾き終えたところだったからな」
「そう……ですか…」
残念そうにぽつりと呟く彼女。
「あ……でも、逆によかったのかも」
「……人に聞かせるほど仕上がってないのか──」
言ってはたと気づく。
あの人通りの多い場所で弾いた彼女は、聴衆から盛大な拍手を受けていたではないか。
この近辺の一般市民は場所柄からかクラシックを聞く耳が肥えている。
あの賞賛は決して仕上がっていない演奏ではないはずだ。
「── それとも敵である俺に聞かせるのは惜しいとでも?」
ふん、と鼻で笑いながら言う。
「どっちもハズレです」
彼女はくすりと笑った。
久しぶりに彼女の笑顔を見たような気がする。
それだけで心がどこか安らいだように思えた。
「── じゃあ、見つけたんだな? お前の「花」を」
「わかりません」
彼女の即答に東金はぽかんと口を開けた。
「……おいおい、セミファイナルはすぐそこだぜ?
今そんな状態で、本番に間に合うのか?」
「ちょっと思い付いたことがあって……
現在実験中なんです」
「そりゃまた悠長な……
ここで弾いてみろ。
俺がアドバイスをしてやらなくもないぜ?」
「いやです」
またもぴしゃりと即答。
「なっ !?
……お前な、人がせっかく──」
「今日はお菓子を持ってないので、セミファイナル本番で聞いてください」
彼女は意外に根に持つタイプらしい。
人の厚意を無碍にするなと怒鳴ってやろうか、それなら好きにしろと突き放そうかと考えていた時、彼女が深く俯いて、ぽつりと呟いた。
「……今はまだ、自分の気持ちもあやふやだから」
彼女はまだ何か葛藤を抱えている。
そんな姿を見てしまったら、考えていたどちらの行動も実行に移すことなどできるはずもなかった。
「……お前、ぽやんとしているようで、結構いろいろ考えてるんだな」
「わっ、ひどい!
私のこと、そんな風に思ってたんですか !?」
「いや、誰に聞いてもそう言うだろ……
そういうお前も、俺のことを『卑怯な手を使う陰険部長』とでも思ってたんじゃないのか?」
「そうじゃなければいいと思ってましたけどっ!
でもよくスポ根もののドラマなんかであるじゃないですか、キャプテン命令で相手チームの有力選手に怪我させるとか」
「はぁっ !?
それを言うなら、先走った部員を処分して相手に頭下げにいく正義のキャプテンってのもアリだろうがっ!」
「なるほどっ!」
彼女は開いた手のひらの上でぽんっと握った拳を弾ませる、という古典的なジェスチャーをしてから、そうですね〜、とニコニコしながら再び弁当を食べ始めた。
「お前……」
東金は言いかけた言葉を飲み込んで、代わりに溜息を吐き出した。
どこまでもマイペースな彼女。
惚れた弱みのせいか、どうにも勝てそうにない気がしてきた。
「まぁ……とにかく、今回のことは悪かったな」
空になった包みを片付けながら、東金はずっと言いたかった言葉をようやく口にすることができた。
「いえ、私の方こそ、本当にごめんなさい」
先に立ち上がっていた彼女がぺこりと頭を下げる。
それじゃ、と彼女が歩き始めたのは星奏学院の校舎のある方向。
午後は音楽室でアンサンブルの練習をするらしい。
さてそろそろスタジオに向かうか、と東金も腰を上げた。
大遅刻にメンバーふたりは不機嫌かもしれないが、自分自身はいい音を鳴らせそうな気がする。
顔を上げたちょうどその時、視界に入った彼女の後ろ姿がくるりと振り返った。
「── 東金さんが『正義のキャプテン』でよかったです!」
満面の笑みの彼女は一言そう叫ぶと、くるりと踵を返して駆けていく。
「── っ!」
木陰にいるというのに、頬の辺りが直射日光に照らされているかのようにじりじりと熱くなってくる。
『勝てそうにない』どころか、完全に白旗を上げることになってしまったランチタイムが名残を惜しみつつ終わりを告げた。
【プチあとがき】
東金さん、かなでちゃんに完全に落ちました(笑)
【2010/03/22 up】