■Stormy Days【14】 火原

 まもなく小学校を卒業、という時期。
 少年は母親から、もうすぐ引っ越すのよ、と聞かされた。
 行き先はフランス。
 海の向こうの遠い国。
 場所くらい彼にもわかる。小学校の授業で習ったから。ただ実感は湧かなかったが。
 大きな街ならば日本人学校もあっただろうが、彼らが落ち着いた場所は小さな地方都市だった。
 当然、現地の中学校へと入学した。
 右も左もわからない異国。意味のわからない言葉が飛び交う教室。
 気の弱い消極的な子供だった彼は、学校へは行かなくなった。
 ほとんど外へも出ず、自宅で過ごす毎日。

 開け広げた窓辺から、さして広くもない庭を眺めながら、日本にいた時のことを思い出す。
 隣の家に住む、活発でおてんばな少女。
 赤い髪を振り乱し、男の子たちと一緒になって駆け回る姿を、彼は少し離れたところから眺めていた。
 しばらくすると、少女は少年の前に駆け寄り、すっと手を差し伸べ、にこりと笑う。
「いっしょにあそぼ」
 その時の手の温もりを、少年は少女と仲良くなった後でも、いつまでも忘れることがなかった。

 柔らかな陽射しと、爽やかな風。
 暖かな思い出の中で、彼は自然と歌を口ずさんでいた。
 流行りの歌に疎かった彼が歌うのは、小学校で習った歌やクラシックのフレーズ。
 その時、彼の視界に何かがよぎった。
 彼の歌に合わせ、楽しげに宙を舞う妖精たち。
 ある者は肩の上に、ある者は頭の上にちょこんと座り、彼の歌を楽しそうに聞いていた。
 彼は友達ができたようで、嬉しくなった。

 数日後、同じように窓辺で歌っていると、やって来た妖精たちが手招きをした。
 誘われるままついていったのは、町の小さな公園。
 軽やかなメロディーが耳に入ってくる。
 ぐるりと見回した彼の目に映ったのは、ひとりのクラウン。
 青と黄色の派手なストライプのだぼっとした服と、おそろいの帽子。
 真っ赤な丸い付け鼻に、大きな目からは一滴の涙のペイント。
 唇は大きな笑みの形に縁取られている。
 大勢の小さな子供たちに囲まれて、クラウンは楽しげにヴァイオリンを弾いていた。
 メロディーに合わせて、子供たちが楽しげに歌う。
 その光景は、なぜか少年の胸に焼き付いて離れなかった。

 しばらくして、少年はヴァイオリンを習い始めた。
 それまで自分の意志をはっきり言うことのなかった少年の、初めてのおねだりだった。
 両親は喜んで彼の希望を聞き入れた。
 才能があったのか、少年のヴァイオリンはどんどん上達した。
 彼の周りを舞う妖精たちの数も増えていった。
 音楽学校に編入すると、ちょうど開催されるという学内コンクールにいきなりエントリーされた。
 彼の自信に満ちた力強い演奏と、優勝という結果を見届けると、妖精たちは彼の前に姿を見せなくなった。

*  *  *  *  *

「音楽ってさ、言葉が通じなくても通じる、っていうか。俺みたいに音楽で人生変わるっていうか。 んー、言葉じゃうまく言えねぇけどさ─── 俺も人の人生変えるほどのヴァイオリン弾きになりたい。あ、もちろんいい意味で、だけどな。 だから俺は、音楽を、ヴァイオリンをやってる。── お前は?」
「え…、あたし?」
 突然話を振られて、香穂子は答えに詰まり── しばらく考えた後、くすっと笑った。
「おい、人が真面目に話してんのに、笑うか?」
「ごめん、そうじゃないの。あたし、大事なこと忘れてたなと思って」
 再びくすくすと笑うと、香穂子はヴァイオリンを始めることになった経緯を簡単に話した。
「祥太の音楽は人の人生を変える音楽、あたしの音楽は人に音楽の楽しさを伝える音楽。あたしはあたしの音楽をやればいいんだよね。 ── あー、なんか気が抜けちゃった」
「ははっ、お前ずっと思いつめた顔してたもんな。やっと笑った顔見たよ」
「うん、あたしも久しぶりに笑った気がする」
 吹っ切れたような笑顔を向ける香穂子に、祥太は眩しげに目を細めると、ベンチからすっと立ち上がった。
「で、どうするんだ?」
 横に座っている香穂子には顔を向けず、正面を向いたまま祥太が訊いた。
「何を?」
「── 留学」
 しばしの沈黙。そして香穂子が口を開く。
「祥太のヴァイオリンを聴いて、自分の技術の未熟さが痛いほど身にしみたの── ま、今に始まったことじゃないけどね。 あたし、たぶん祥太の演奏に嫉妬したんだと思う。── だからレッスンは続けるよ」
 自嘲の笑みを浮かべたかと思うとすぐに真剣な眼差しになり、香穂子はそこで言葉を切った。俯きがちな目は、膝に乗せた両手をじっと見つめている。
 祥太は言葉の続きを確認するかのようにくるりと香穂子のほうへ向き直ると、ポケットに手を突っ込み、香穂子が口を開くのを待った。
「── けど、留学はしない。ここを離れたら、あたしの音楽は楽しい音楽じゃなくなっちゃうから」
「あいつ、か」
「うん」
「… そっか」
 祥太の顔が納得したような、ガッカリしたような複雑な形の笑みに歪む。
「リリたちの願いもあるしね。── それにしても、祥太もファータに会ってたなんてびっくり。あ、そういえばここのファータも、 昔、外国から来たって言ってたから、もしかして知り合いだったりしてね」
「かもな───── つーわけで、そろそろ出て来いよっ」
 楽しげに話す香穂子に微笑で答えると、祥太は香穂子の背後、森の中に向かって呼びかけた。
「えっ、な、なにっ!?」
 香穂子がキョロキョロと周りを見回していると、背後にあった木の陰から、おずおずと和樹が顔を出した。
「和樹先輩っ!?」
 バツの悪そうな顔を少々赤らめ、後ろ頭をワシワシと掻きながら、香穂子のところまで歩いてくる。
「ご、ごめん香穂ちゃん……その、えーと、あの………盗み聞きするつもりじゃなかったんだ………ごめん……」
 深々と頭を下げる和樹に、香穂子は思わず駆け寄り、身体を起こさせようとした。
「こいつ、ここ最近ずっと、お前の後ろに張り付いてたんだぜ。ものすごい心配そうな顔しちゃってさ」
「えっえっ、な、なんで知ってんのっ!?」
 含み笑いする祥太に、和樹はうろたえた。まだ飲み込めていない香穂子は、ふたりの顔を交互に見比べる。
「そりゃあ── ひとりの人間追っかけてんだ、気付きもするさ」
 クククッと意地悪く笑うと、祥太の表情がふいに引き締まった。
「火原… だったっけか? こいつ── 香穂子のこと、よろしく頼むわ」
「うん、まかせてよ」
 和樹は自信ありげに頷いた。迷いなく即答する和樹に、祥太は思わず苦笑した。
「… 俺が頼むことでもないか、悪ぃ。…… じゃあな」
 ポケットに手を入れたまま、踵を返して歩き出した祥太が、ふと足を止めた。
「そうそう、人の音楽に嫉妬したってのは、ファータに貰った音楽が、お前自身の音楽になったからだと思うぜ………たぶん、だけどな」
 それだけ言うと、祥太は再び歩き出す。
 香穂子はくすっと笑うと、
「祥太、ありがとっ!」
 手をメガホン代わりに、香穂子は祥太の背中に向かって叫んだ。
 祥太は足を止めることもなく、振り返りもせず、軽く手を振って歩み去っていった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 うーん、あたしは一体、何を書きたいんでしょうか?
 とにかく、祥太もファータとの接触があった、ということなんですねぇ。
 それにしても相変わらず、火原の出番少ないですね。

【2005/08/08 up】