■Stormy Days【13】 火原

「はい、今日はここまで」
 小笠原の声に、香穂子は弓を下ろしつつ、壁の時計にチラリと目をやる。あと数分で4時になる。
「先生、まだ1時間しか──」
「これ以上は何時間レッスンしても時間の無駄ね。今日はおしまいにしましょう」
「でも」
 香穂子の抗議の声に、小笠原は小さく溜息を吐いた。
「気を悪くしないで聞いてね。最近のあなたの音、私は好きになれないわ。コンクールの頃の輝きが消えてしまってる。 何をそんなに焦ってるのか知らないけど……… もう少し肩の力を抜きなさい」
 香穂子は何も言い返せずに俯いてしまった。
「森の広場でくつろぐもよし、誰かと駅前でショッピングするもよし。今のあなたには気分転換が必要ね」
 気分転換、と言葉で言うのは簡単だけど、と香穂子は思いながらも、ありがとうございました、と一礼する。
 ヴァイオリンケースを開き、弦をゆるめ始めた時、再び小笠原に声をかけられた。
「あ、そうそう。あなたに海外留学の話があるの。まあ、今の状態じゃ行かせるわけにはいかないけど…… そういう話があるっていうことだけは頭に入れておいてね」
 寝耳に水の話に、香穂子は驚いた。
「えっ、りゅ、留学って── あたしが !? い、いつからなんですか !? 期間は !?」
「さあ。あなたの都合と、あちらの先生次第ね」
 頭の中が真っ白になったまま、機械的にヴァイオリンを片付けると、香穂子はレッスン室を出た。

*  *  *  *  *

 香穂子はひんやりとした石のベンチに腰を下ろすと、隣にヴァイオリンケースをそっと置いた。
 小笠原に言われたからではないのだろうが、香穂子は森の広場に来ていた。
 いつもなら、爽やかな放課後のひとときを過ごす生徒たちが多くいるこの場所だが、今日は人影はまばらだった。
 香穂子は空を振り仰ぎ、大きな溜息をひとつ。
 空は彼女の心の中を映したかのように、どんよりと曇っていた。

 留学。
 行ってみたい気もする。いや、ぜひ行きたいと思う。
 ヴァイオリンの腕を磨くには、願ってもないことだ。
 しかし、自分にその資格があるのだろうか。
 それでもヴァイオリンをやめたくはないし、やめるつもりもない。
 もっとうまくなりたい。
 だから、留学はいい機会なのだ。
 でも──。

 ただ座っているのも手持ち無沙汰で、ケースからヴァイオリンを取り出してみる。
 簡単にチューニングを済ませて、数フレーズ弾いてみるが、小笠原に言われたことを思い出して手が止まる。
 再びベンチに腰掛け、またひとつ大きな溜息を吐くしかなかった。

*  *  *  *  *

「はぁ…」
 香穂子が溜息を吐くたび、伝染したかのように和樹も溜息を吐く。
 レッスン室から出て来た彼女を追って、和樹も森の広場に来ていた。
 一本の大木の陰からそっと香穂子の後ろ姿を見守る。 幸い、ここなら身を隠す場所はいくらでもあった。
 香穂子はヴァイオリンをちょっと弾いてはやめ、空を仰ぎ、溜息を吐き、ベンチに座って考え込む。
 それを何度も繰り返している。
 和樹は抱きつくようにしていた木に背中を預けると、力なくズリズリと滑り落ちて、ペタリと根元に腰を下ろした。
「香穂ちゃん… なにをそんなに悩んでるんだろう…… ひとこと、相談してくれればいいのにな」
 膝を抱え、顎を埋めた。

「こんなとこで何やってんだ?」
 ふいにかけられた声に、和樹は驚いて辺りをキョロキョロと見回した。
 和樹の周囲には誰もいなかった。
「…なんだ、おれのことじゃないのか…… じゃあ…!?」
 慌てて木から顔を出してみる。
 ベンチに座る香穂子の目の前に、ポケットに手を突っ込んで彼女をを見下ろしている祥太が立っていた。
 ごめん、香穂ちゃんっ。
 心の中で詫びつつ、和樹は聞き耳を立てた。

「眉間にシワ寄せて、この世の終わりみたいな顔して── 留学しろとでも言われたか?」
「なっ、なんであんたが知ってんの !?」
 祥太は楽しげにククッと笑った。
「お前を引き受けたいって言ってんの、俺の先生だからな」
「はぁっ!?」
 ポケットから手を引き抜くと、祥太は香穂子の隣のベンチに腰掛けた。手を握り合わせ、そのまま膝の上に肘を乗せる。
「この学校のコンクール、全部録音されてるって、お前知ってるだろ? それがうちの学校にも毎回送られてくるらしいんだ。 それを聴いた先生がさ、『星奏に面白いヴァイオリニストがいる、ぜひ自分の手で育ててみたい』って言い出してさ。 で、俺がちょうどこっちに来るもんだから、『カホコ・ヒノのヴァイオリンを聴いてこい』ってさ。 名前聞いてびっくりしたけど、同姓同名だと思ってた。いや、でも、まさかホントにお前本人だったとはな。驚いたぜ。」
「…… 悪かったわね」
 不機嫌そうな顔をする香穂子を見て、祥太は再び楽しそうに笑う。
「悪いなんて言ってねぇよ。 けどよ、あの短期間によくあんだけ上達したよな」
「もしかして、録音、聞いた?」
「聞いた」
 うわぁ、と頭を抱える香穂子に、祥太はハハハッと笑った。
「第1セレクションは、お子ちゃまの発表会みたいだったな。それが回を追うごとにうまくなっていった。 最終セレクションは一人前のヴァイオリニストだった。総合優勝も当然だな」
 祥太は組んだ手に顎を乗せて、思い出すように呟いた。
「うぅ、あんたにそこまで誉められると、気持ち悪い…」
「なんだよ、人がせっかく誉めてやってんのに」
 祥太はぷぅっと頬を膨らませ、横目で香穂子を軽く睨みつける。それも一瞬で、すぐに表情を和らげた。
「… ごめん。 …けど、祥太こそ、あたしと比べ物にならないくらい上手いじゃない」
「そりゃあ……、猛練習の賜物だろうがよ。一見ちゃらんぽらんに見えても、やるときゃやってるぜ」
 得意そうにふふんと鼻を鳴らす祥太に、香穂子はビシッと指を突きつけた。
「そう、そうよ! なんでそんなに軽薄そうなヤツになっちゃったの!? 昔はおとなしくて、超マジメだったのにっ」
「うわ、失礼なヤツ! そこまで言うかっ!? …ま、いろいろあったのよ、いろいろ、な」
「何がどういろいろあると、そんなに変わっちゃうわけ!?」
「そんなに聞きたい? 話してもいいけど、笑うなよ?」
 コクリと頷く香穂子に、祥太はひとつ溜息を吐いた後、口を開いた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 出番も僅か、ただのストーカーに成り下がっている火原くん。
 次回、祥太の衝撃の告白!

【2005/07/19 up】