■Stormy Days【12】
「香穂ちゃん、あのさ… レッスン、楽しい?」
「え?」
唐突な質問に、香穂子は戸惑った。
香穂子はレッスンを終え、和樹はオケ部の練習を終えた後、正門前で待ち合わせて帰宅の途についた。
歩きながら、その日あった出来事を和樹が一方的にしゃべりまくり、それに香穂子が上の空で言葉少なに答える。
どう見ても、会話がはずんでいる、とは言えなかった。
そして、ふとした沈黙の後の質問。
「楽しい…っていうか、充実はしてる、のかな」
香穂子は困ったような弱々しい笑顔を浮かべる。
「充実してるけど、楽しくないの?」
和樹の質問に、香穂子の足が止まる。
「楽しいとか、楽しくないとかじゃなくて………」
和樹も足を止めて振り返ると、香穂子の顔から笑みが消え、ただ困惑した表情のみが残った。
「あ、ごめんっ、きみを困らせようと思ったんじゃないんだ…… だから、その、なんていうか…
どうして急にレッスン受ける気持ちになったのかなと思って」
数歩先まで進んでいた和樹が慌てて引き返し、申し訳なさそうに後ろ頭をガシガシ掻き毟る。
香穂子は視線を落とし、何かを考え込んでいた。
「── うまくなりたいんです。もっともっとヴァイオリンをうまく弾きたい。それだけなんです」
思いつめたような表情で呟いた香穂子の答えに、今度は和樹が考え込む番だった。
確かに演奏技術の向上には練習は不可欠だと思う。ただ楽しくてトランペットを吹いていた和樹も、香穂子に出逢ってからはそう思うようになった。
けれど、今の香穂子は音楽科の生徒と競っても負けない技術を身につけている。コンクールの初期の頃の危なっかしさは全く感じられない。
周囲にも、彼女にに音楽の道を歩んでほしいと熱望する者が多いのも事実だ。和樹自身もそう思っているひとりでもある。
なのに今さら、眉間にシワ寄せて、がむしゃらに練習に打ち込む香穂子の気持ちが、和樹には理解できなかった。
ここ最近、いつも何かを考え込み、笑顔の消えてしまった香穂子を見ているのが何よりつらかった。
「── あのさ、ひとりで考え込まないで、おれに話してよ。コンクールの時も言ったでしょ、きみの力になりたいって。
おれじゃ頼りないかもしれないけど、話してみたらスッキリするかもしれないよ。だからさ──」
「…… ごめんなさい」
消えそうな声でそう呟くと、香穂子は目を伏せた。
「ね、なにがごめんなさいなの? ね、香穂ちゃん──」
「あたしの……」
「香穂ちゃんの?」
何かを言いかけて、言いよどんだ香穂子の顔を覗きこんで、和樹が聞き返す。
「…… なんでもありません。心配してくれて、ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をすると、和樹の返事を待たぬまま、香穂子は走り去った。
ひとり残された和樹は、小さくなっていく香穂子の後ろ姿を見つめるしかなかった。
そして── 何をどうすればいいのかはわからなかったが── なんとかするぞ、という決意で拳を握り締めた。
今の和樹は、無性に香穂子の笑顔に会いたかった。
* * * * *
それから、和樹はとにかく香穂子のそばにいた。
もちろん、香穂子の練習の邪魔をしないように、彼女の手元にヴァイオリンのない時限定ではあるが。
練習の鬼になっている彼女の気を少しでも紛らわそうと、必死になった。
そのうち、香穂子は朝と昼休みも練習をしたいと言ってきた。
和樹は、頑張って、としか言えなかった。
それ以降、和樹はヴァイオリンを弾く香穂子の近くにいつもいるようにした。
そんなに根を詰めて練習する香穂子がいつか倒れてしまうんじゃないかと心配だったからだ。
部活は当分休むことにした。部長は、オケから一番ラッパが抜けてどうする、と怒っていたが、そんなのは今の和樹には関係なかった。
そして今、和樹はレッスン室のある廊下に面した階段に腰を下ろしている。
防音設備が優れているのか、外から聞こえる音以外には何も聞こえてこない。
もしもバッタリ香穂子と顔を合わせてしまった時に、練習中だと言い訳するために、トランペットは手元にあった。
「これじゃまるでストーカーだよな。しつこい男はキライって、香穂ちゃんに嫌われちゃったらどうしよう」
膝に置いたトランペットに突っ伏すように頭を抱える。そうかと思えば、いきなりガバッと顔を上げ、
「いや、もしもの時のために待機中なんだからな、うん。 あー、けど『なんで和樹先輩こんなところにいるの』とか言われちゃったらやだな」
再び膝の上に頭を沈める。
そうこうしているうちに、カチャリと扉の開く音が聞こえた。
階段の陰からほんの少し顔を出して様子を伺うと、小笠原のレッスン室から香穂子が出てくるところだった。
和樹は反射的に腕時計を見た。時計の針は4時12分を指していた。
「あれ? あと2時間近くあるのに…」
香穂子はお辞儀をして扉を閉めると、奥の階段へと歩いて行った。
レッスン中に小笠原から怒られでもしたのか、俯きがちに背を丸め歩いていく香穂子。
和樹はその後をそっと追いかけた。
【プチあとがき】
ストーカー火原。
いや、ケナゲだねぇ。
ストーカーを肯定する気はさらさらないけど、その気持ちはわからないではない。
だって、好きな人をいつも見ていたい、そばにいたいっていう気持ちが強いから、そうするんだろうし。
度を越しちゃうと犯罪だけどね。
【2005/07/12 up】