■Stormy Days【11】 火原

 1週間後。
 放課後、香穂子は屋上にいた。
 以前よく通ったファータの風見鶏のそば。学院内で最も空に近い場所。
 香穂子はこの場所が好きだった。
 音響効果はないけれど、自分の音が空に溶け込んでいくような感覚がたまらない。
 見上げる空は、彼女の心の中のように青く澄み渡っていた。
 怪我もすっかり治り、小さな瘡蓋(かさぶた)がところどころ残る程度になった。すでに前日からヴァイオリンの練習も再開している。
 香穂子がここに来たのは、オケ部に復帰してすぐ、次にオケ部で演奏する曲の楽譜を渡され、部長より個人練習を命じられたからだ。
 音楽準備室から持ち出してきた折りたたみの譜面台を、鼻歌混じりで組み立てていく。
 楽譜を乗せ、ケースの上に置いてあったヴァイオリンを持ち上げ構えると、深呼吸ひとつ。
 楽譜に書かれた音符をなぞるように、フレーズを編み上げていくように、1音1音丁寧に奏でていった。

 なんとか通しで弾けるようになった頃、一陣の風が香穂子の楽譜を舞い上げた。
「うわっ、やばっ!」
 慌てて拾い上げる香穂子の手がぴたりと止まった。
 流れてくるヴァイオリンの音色。
 華やかで、楽しげなメロディ。
 香穂子はこの曲を知らなかったが、相当な技術がないと弾きこなせない曲だということだけはわかった。
 曲が終わると、盛大な拍手とブラボーの声が一斉に上がる。
「誰の演奏だろ。月森くん…にしては曲調がらしくない…かな?」
 楽譜を集め終えると、手摺り越しに下の階を覗き込んだ。
 いつもは閑散としている屋上に人だかりができていた。生徒たちが打ち鳴らす拍手はまだやまない。
 その中央にいるのは── 祥太だった。
 再び祥太がヴァイオリンを構え──。
 流れてきたのはどこかの国の民族舞踊の曲のようだった。
 速いテンポで進む情熱的なメロディに、切なさと哀愁が漂う。
 以前テレビか何かで見たものか、我を忘れて踊り狂うジブシーの踊り子の姿が香穂子の脳裏によぎった。
 祥太のヴァイオリンの演奏を、香穂子はこの時初めて耳にした。
 滑らかな、それでいて力強い指使いと弓さばき。
 目をつむり、曲にのめりこむようにヴァイオリンを奏でる祥太。
「す…すごい…っ」
 青天の霹靂、とでもいうのか。
 香穂子はまさにこの青空から落ちた雷に打たれたかのように、呆然と立ちすくんだ。

 どのくらいそうしていたのか、不意に後から名前を呼ばれ、香穂子は振り返った。
 階段のところにヴァイオリンを手にした祥太が立っていた。
「俺のヴァイオリン聞いてくれたんだろ? ひとこと感想でも聞かせ───香穂子?」
 急に眉をひそめる祥太。
「な、なによ」
 出てきた声が変だった。そのくぐもった鼻声に、香穂子は自分の頬に涙が伝っていることに気付いた。
 慌てて祥太に背を向けると、ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭う。
「へぇー、もしかして俺の演奏に感動の涙ってか?」
 祥太が口の端を上げてニヤリと笑う。
「ちがっ………… そう、なのかも」
 どっちだよ、と祥太は笑った。
「なあ香穂子、お前さ、俺と───」
 不意に真剣な面差しになった祥太が、言いかけた言葉を飲み込み、苦笑しながら小さく頭を振る。
「── そうだ、なんか1曲、聞かせてくんね? あー、なんなら一緒に弾いてみるか?」
「………ごめん、今はあたし、弾けない…」
 香穂子は祥太に背を向けたまま、声を絞り出す。
「…そっか。じゃあ、またの機会にな」
 しばらく香穂子の後ろ姿を見つめていた祥太が踵を返し、階段を降りていった。カツンカツンと響く祥太の足音が、 扉の閉まる重い音と共に消えても、香穂子はまだ立ち尽くしたままだった。

 翌日。
 職員室の扉の前に、思いつめた表情で佇む香穂子の姿があった。
 すぅっと大きく深呼吸すると、扉を勢いよく開き、中へと入っていった。

*  *  *  *  *

 音楽室はパート練習から戻ってきたオケ部員たちで賑わっていた。
 今から全体練習をするということで、椅子や譜面台を準備する者、ウォーミングアップの音を出す者と、忙しく動いている。
「あれ? 今日も日野ちゃん、休み?」
 弦パートの空席に気づいた隣のトランペッターが和樹に訊ねた。
「あ、うん、小笠原先生んとこでレッスン」
 答える和樹の表情は、心なしか暗い。
「俺知ってるっすよ。日野先輩、退部したいって言ってきたのを、部長がせめて休部にしてくれって説得してたっす」
 前の席にいた1年生部員が口をはさむ。
 休部の話は和樹も一応は聞いている。オケ部は楽しくないのか、と聞いても、香穂子はただ、レッスンが受けたいから、としか答えなかった。
「うわっ、マジ!? まさかお前、日野ちゃんとケンカでもして、怒らせちまったんじゃねぇだろうな!?」
「そんなことないって! ── 聞いても理由話してくれないんだ。相談とかしてほしいのに……… やっぱおれって、頼りないのかな…」
「うっ、わ、ワリぃ火原。俺、そんなつもりで言ったんじゃ──」
 がっくりと肩を落とす和樹に、慌てて詫びを入れる。
「…いいよ、気にすんなって」
 ヴァイオリンパートの空席を見つめながら、和樹は大きな溜息を吐いた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 新展開・香穂子苦悩編です。
 この先どうなるんでしょうか、あたしにもわかりません(笑)
 うちの香穂子さんは、思いついたら一直線タイプのようですね。
 祥太くんの演奏した曲については、想像して楽しんでくださいな。

【2005/07/06 up】