■Stormy Days【09】 火原

 抜けるように蒼い空を飛行機が飛んでいる。
 機体の後から伸びる一本の飛行機雲が、蒼穹を切り裂いていった。
 まるで、自分と香穂子を切り裂いたあいつのようだ、と和樹は思った。
 ヴァイオリンロマンスという、和樹曰く『ぐるんぐるん』に結ばれた絆が、鋭い刃物でブチブチと音を立てて切り裂かれているような気分だった。
「おーい、火原ぁ。ぼちぼち帰るぞー」
「………おー」
 呼びかけに気のない返事をして、身体を起こす。
 背中が痛い。
 森の広場に置かれた石のベンチに、2時間もただ寝転がっていたのだから、当然といえば当然だろう。
 『衝撃の告白』を聞いてしまった和樹には、『吹けば楽しいトランペット』も今はどうでもよかった。
 音楽室に戻って、香穂子の顔を見る勇気もなかった。
 だからといっていつまでも広場で過ごすわけにもいかず。
 和樹はゆっくりと立ち上がると、演奏されることなく隣のベンチに放置されていた相棒──トランペットを手に取り、 校舎へと戻っていくトランペッターたちの後をトボトボとついていった。

 音楽室は帰り支度をする生徒たちの声が溢れていた。
 和樹は扉から顔だけ出して、香穂子の姿を探す。
 部屋の中で顔を合わせないようにするには、相手がどこにいるのか把握しておかなければならない。
 ところが、いくら探しても香穂子の姿はなかった。当然ではあるが。
「あ…あれ…?」
 ヴァイオリンの女子部員たちがかたまって、きゃっきゃっと楽しげに会話しながら楽器を片付けているところに行き、 香穂ちゃんは?、と尋ねてみる。
「香穂子先輩、今日来なかったんですよ〜」
「え…」
 まさか祥太と一緒に帰ったのか、と和樹が硬直していると、後から声をかけられた。
 和樹が振り返ると、クラリネットのケースを胸元に抱えている女子部員が立っていた。
「日野先輩なら、ずいぶん前に帰っちゃいましたよぉ。なんかとってもキョドってましたけどぉ」
 いつものふたりを知っている女子部員が、何かあったの、と言わんばかりのニヤニヤ顔になる。
「そ、そう…。だ、誰か…一緒だった?」
「いいえ、ひとりでしたよぉ。あ、そうそう、右手に包帯してたから、今日はヴァイオリン弾けなかったんじゃないかなぁ」
 楽器を演奏する者にとって、手は命にも等しい。
 和樹は全身の血液がすぅっと抜けていくような感覚を覚えた。
「えっ、それほんと!? どんな怪我!? なんで怪我したのっ!?」
「し、知りません〜」
 怯えて泣きそうな女子部員の声に、和樹は我に返った。思わず肩を掴んで揺さぶっていたのだ。
 ぱっと手を放し、
「ご、ごめんっ。ほんとごめんね。あ、教えてくれてありがとね」
 和樹は大急ぎでトランペットを片付けると、音楽室を飛び出した。

*  *  *  *  *

 きぃー…

 きぃー…

 学校からの帰り道、和樹とよく立ち寄る公園。
 前を通りかかると散発的な金属の軋み音が聞こえ、香穂子は何気なくその公園に足を踏み入れた。
「あれ? 和樹…せんぱ…い…?」
 鎖を抱えるようにしてブランコに座り、時折足で動かしながら、地面をじっと見つめている和樹がいた。
 小さな紙袋を後ろ手に持ちながら静かに近づき、声をかける。
「和樹先輩? どうしたんですか、こんなところで?」
「あ…香穂ちゃん………よかった、会えて」
 自分を見つめる和樹の顔は寂しげな弱々しい微笑。
 普段見ることのない陰のある表情に、香穂子はドキリとする。
 と同時に、声をかけたことを少し後悔した。
「…あ、もしかして、あたしの怪我…?」
「…うん。家に行ったら、香穂ちゃん薬局へ行ったって聞いて。追いかけようと思ったけど、どこの薬局かわからなくて。 ここにいたら会えるような気がしたんだ」
 和樹の視線は香穂子の上から再び地面へと落ちる。
 いつもと違う和樹の様子に、香穂子は胸の中にザワザワしたものを感じた。
「ご、ごめんなさいっ、かえって心配させちゃって…。こんな包帯巻いてるけど、ちょっと転んで擦りむいただけで、 ほんっと大したことないんですっ! 保健の先生が『ペン持つのに困るでしょ』とか言ってグルグル巻いちゃって、 ほんと大げさですよね、もうっ。── そうそう、最近優れモノがあるんですよ。絆創膏の粘着テープ部分が全部お薬になってるんですって。 今ね、薬局で勧められて、買ってきちゃいましたっ」
 ザワザワを打ち消すように、香穂子はまくしたてた。しかし、そうすればそうするほど、胸のザワザワは大きく広がった。
「…おれ、香穂ちゃんの心配、させてもらえないのかな…」
 和樹は長く伸ばした足の爪先をじっと見つめている。
 もちろん心配なんてさせたくはない。包帯をほどいて見せるのが恥ずかしいほどの軽い擦り傷なのだから。
 香穂子は返事に困り、何か言おうと開いた口をつぐんだ。
「あ、そっか、他に心配してくれる人がいるんだよね…」
「………はい?」
 和樹は何を言ってるんだろう。
 香穂子は彼の真意を測りかねていた。
「それは、まぁ………お母さんは大丈夫かって言ってくれましたけど……あ、でも、うちのお姉ちゃんヒドイんですよ〜。グズだのドジだの、言いたい放題で───」
「そうじゃなくて、さ」
「……はい?」
 きぃー…
 和樹が足を動かし、ブランコの鎖が小さく軋む。
「やっぱり、思い出しちゃったらしょうがないよね。大切な気持ちってさ」
 ブランコを揺らしながら、和樹は遠い目で空を眺めていた。
 香穂子には何が何だかわからず、ただただ混乱するしかなかった。
「ちょ、ちょっと先輩っ、それ、何の話ですか!?」
 香穂子は持っていた絆創膏入りの紙袋をぎゅっと握り締めると、思わずブランコの横に詰め寄った。
 ブランコの揺れがおさまり、和樹は再びうな垂れた。
「……ごめん、おれ、聞いちゃったんだ。──きみが、あいつに……ずっと好きだったって言ってるの」
「はあっ!?」
 身に覚えのないことを言われ、香穂子はますます混乱し、そして必死に考えた。
「今日の放課後、音楽準備室でさ。…ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
 香穂子はこめかみを押さえて必死に考える。
 祥太との会話中に、そんな告白めいたセリフ───あぁ、あれか!
 思い当たった瞬間、クスクスと笑いがこみ上げた。
「え、なに。なに笑ってんのっ…?」
「あ、ごめんなさい。── それ、全部誤解です」
「えぇっ!? ど、どういうこと!?」
 香穂子はクスクス笑いが収まらぬまま、和樹の隣のブランコに腰掛けた。
「これから話すこと、黙って聞いててくださいね」
 そう前置きして、香穂子は話し始めた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 いいですよぉ、粘着部分がクスリになってる絆創膏。
 指の関節なんかに貼る時、小さめに切って貼るんだけど、グルッと巻かなくていいから、圧迫しなくて済むし。
 あたしはマー○ュロバンってのを使ってますけど、はがした時に粘着部分の赤いネトネトが残るのが玉にキズ。
 それ以外は、キズの治りも早いし、なかなかよいです。
 よく怪我をする方、お試しあれ〜。

【2005/06/18 up】