■Stormy Days【07】 火原

「はあああぁぁぁぁっ………」
 右手に巻かれた白い包帯を見つめ、香穂子は大きく溜息を吐いた。
 左膝には絆創膏が貼られている。
 どちらの怪我も大したことはないのだが、手のひらの傷は絆創膏を貼るには広すぎた。
 包帯を出してきた保健医に思い切り拒否したのだが、そのままじゃ午後の授業の筆記が取れないでしょ、と言われ、しぶしぶ手を差し出したのだった。
「もう……大げさなんだから…」
 まだ誰もいない音楽室で、ぶちぶちと一人ごちながらヴァイオリンをケースから出す。もうすぐオーケストラ部の部員たちが集まってくるだろう。
「うぅ、みんなに聞かれるんだろうな、手どうしたのって…」
 コンクールの後、和樹に連れられてオーケストラ部を見学した時、部員たちに盛大な歓迎を受けた。その場の勢いでズルズルと入部した── いや、入部させられたのである。
 音楽科編入を断ったとはいえ、ヴァイオリンをやめたくはなかったし、部員たちは和樹が話していた通り和気あいあいで、香穂子は満足していた。

 チューニングを始めると、音楽準備室の扉が開き、その部屋の主である金澤がひょっこりと顔を出した。
「おー、やっぱりお前さんか。待ってたんだ、ちょっと来てくれるか」
 香穂子は、はい、と小さく返事をすると怪訝な表情で準備室へ向かった。
 扉を押さえてくれている金澤の横をすり抜け部屋に入ると、そこには一人の女性がいた。
「こんにちは、日野さん。──あら、その手……」
 女性は座っていたパイプ椅子から立ち上がりながら、弓を持つ香穂子の右手を見つめて眉をひそめた。
「あ、全然大したことないんですっ、ちょっと転んで擦りむいただけで──」
「ほんの少しの傷でも音に影響が出るのよ。無意識にかばうから構えも崩れるし。ちゃんと治るまで演奏はお休みしたほうがいいわ」
 女性──ヴァイオリン教師の小笠原の声に、ほんの少し咎めるような色が浮かぶ。
「す…すみません」
 ヴァイオリンのネックをきゅっと握り締め、香穂子はうな垂れた。

「ところで、まだ気持ちは変わらないかしら?」
「はい?」
 香穂子が顔を上げると、小笠原の笑顔があった。
 話に聞けば、小笠原には香穂子と同じくらいの年齢の子供がいるらしいが、とてもそんな歳には見えない若々しさだった。 その笑顔は、つられてにっこりしてしまいそうなほどチャーミングだ。
「音楽科編入の話」
「──はあ…」
 この学院に棲みつく妖精に無理矢理ヴァイオリンを渡されたのが約2か月前。
 それから約40日間に渡って開かれたコンクールを過ごしていくうちに、音楽にも、ヴァイオリンにもどんどんのめりこんでいく自分に気づいていた。
 『音楽の道に進むのも悪くない』
 総合優勝が決まった時には、音楽科の生徒が聞いたら袋叩きに遭いそうなセリフが頭をよぎったのも事実だ。
 しかし、香穂子には自信がなかった。
 ファータの魔法のかかったヴァイオリンから感覚的に音楽の世界に入った香穂子には、きちんとした勉強としての音楽についていけるのかが。
 それ以上に、負い目もあった。現在は普通のヴァイオリンを使っているとはいえ、自分のヴァイオリンの技術は魔法の力を借りて習得したものだ、 という申し訳なさを拭い去ることができなかった。
「でも……」
 小笠原は小さく息を吐き、
「どちらにしても、レッスンだけは受けてみない? あなたのヴァイオリンをこのまま埋もれさせるのは、あまりにも惜しいわ。 ちゃんと指導を受ければ、あなたはもっと伸びるはず。他の先生方も期待してるのよ」
「はあ…」
 教師たちに認められたのは嬉しくないわけではないが、香穂子の心はどんどん重くなっていく。
「あなたの一生を左右するかもしれない選択だから、ゆっくり考えて──って言いたいところだけど、結論は早ければ早いほうがいいわ。 ……いい返事、待ってるわね」
 首を少し傾げてにっこり微笑む小笠原に、香穂子は何も言い返せなかった。
 じゃあ職員会議行きましょうか、と金澤に告げると、小笠原は音楽準備室を後にした。
「ま、しっかり悩めや」と、金澤も準備室を出て行き、パタンと音を立てて扉が閉まった。
 香穂子は大きな溜息を吐いた。

「何悩んでんだよ。いい話じゃねぇか」
 急に声をかけられて、ドキリとして振り返ると、そこには祥太が立っていた。楽譜や資料がギッシリ詰まった本棚に背中を預け、腕組みをしている。
「なななななんであんたがここにいんのよっ」
「楽譜見てただけだけど」
 数枚の紙をひらひらさせながら、祥太がニヤリと笑う。腕をほどくと、香穂子の方へ近づいてきた。
「うあっ、来るな寄るな近づくなっ! 半径5メートル以内立ち入り禁止っ!」
 ヴァイオリンの弓を祥太の方へ突きつける。
 へっぴり腰のフェンシング選手のような格好に、思わず祥太は吹き出した。
「ひでぇ言われようだな。わーったわーった、これ以上近づかねぇって」
 両手を小さく挙げた祥太の降参のポーズに、香穂子はしぶしぶ弓を下ろした。
「お前、コンクールの優勝者なんだろ? 学校からもあんだけ求められてんのに、何が不満なんだ?」
「べ、別に不満なんかっ、……ないわよ。──でも」
 香穂子は、力が抜けたように、傍にあった椅子にストンと腰を下ろし、膝の上にそっとヴァイオリンを乗せた。
 祥太もたたんで壁に立てかけてあったパイプ椅子を窓際まで引きずると、ドサッと音を立てて腰を下ろす。大仰に足を組むと、その膝に肘をつき、 香穂子に視線を向けた。
 ほとんど部屋の端と端だったが、祥太の視線を感じて、香穂子はなんとなく居心地が悪かった。
「ヴァイオリン、嫌いなのか?」
「嫌いなわけないじゃない。大好きだよ。ずっと続けたいって思ってる。嫌いだったらオケ部なんて入らないわよ」
「じゃあ悩むことねぇじゃん」
「──でも」
 祥太に自分の負い目のこと、ファータや『魔法のヴァイオリン』のことを話すことはできない。話したところで、信じてもらえるわけもない。 もし自分がそんな話を聞いても、信じないだろう。
 コンクール中、鬱陶しいほどまとわりついてきていたファータたちも、コンクールが終わってからはまったく目にしていない。 だから香穂子自身も、あれは夢だったんじゃないかという気にすらなってくる。しかし、全くの素人だった自分がヴァイオリンを弾けるように なっていることは事実だ。
 それに、ヴァイオリンを弾いているときに、ごくたまにその存在をふと感じることもある。そんな時は、音に惹かれて集まって来たのかな、 と思わず笑みがこぼれるのだ。
 しかし。
 そんなタナボタ的な技能を自分の進路にしてもいいのだろうか。
 音楽科編入の話題を出されるたびに、香穂子の思考はそこに戻り、踏ん切りをつけることができないのだった。
「俺としちゃあ、お前も音楽の道を歩いてくれると嬉しいんだけどな〜」
 思いがけず近くで声が聞こえたのに驚いて顔を上げると、いつの間に来たのか、ポケットに手をつっこんだ祥太が目の前に立っていた。
「ま、お前の人生だしな。俺が口出すことはできねぇけど──後悔するような選択だけはすんなよ」
 そう言うと、祥太は音楽準備室をふらりと出て行った。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 捏造キャラ第2弾・小笠原先生登場です。
 だってコルダ世界の教師って、金やんしか出てこないんだもん。
 理解ある素敵な先生設定です。

【2005/06/08 up】