■Stormy Days【02】 火原

 あいつは一体誰なんだよ。
 キクチショウタ?
 いきなり香穂ちゃんに抱きついて、おまけにほっぺにキ、キスまでしやがってっ。
 あいつ、香穂ちゃんが『お嫁さんになってあげるから絶対迎えに来て』って泣いた、って言ってたよな。
 でも香穂ちゃん、あいつのことすぐには思い出さなかったんだぞ。
 そんな昔の約束、無効だよ!
 香穂ちゃんがお嫁さんになるのは、このおれなんだからっ!
 おれと香穂ちゃんは【ヴァイオリン・ロマンス】でぐるんぐるんに結ばれてんだぞ!
 でも、あいつの後ろ姿を見つめる香穂ちゃんの目…
 おれが呼んだときも、顔を赤くして目を逸らせた…
 もし昔を思い出して…… あいつのほうに行っちゃったら──
「うわーっ、そんなのダメだダメだダメだーっ! イテッ」
 頭をグシャグシャと掻き回しながら叫ぶ和樹の額に、硬い物体が命中する。
「……… お前さん、俺の授業にダメ出しする気かぁ?」
 チョークを手で弄びながら、金澤が半眼で和樹を睨んでいる。
「あれっ、金やん…」
「あのなー」
 金澤がこめかみを押さえながら、はあぁぁぁぁっ、と大きな溜息を吐く。
「朝の一件で気が気じゃないのは判らんでもないが、今は授業中だ。 もちろん敵も授業中。 学生の本分は勉学に勤しむこと。 ってことで、色ボケするなら休み時間にやってくれや」
 『朝の一件』を知っているクラス中がドッと爆笑に包まれる。
「そんなこと言っても気になるんだからしょうがないじゃん!」
「あのなー、火原」
 真剣な眼差しで拳を振り回して絶叫する和樹に、金澤は諦めたように再び溜息ひとつ、口の片端を上げて意地悪く笑みを浮かべる。
「『命短し恋せよ乙女』って言うしな、ま、頑張れや。 …っと、お前さんは『乙女』じゃなかったな、すまんすまん」
 クラスメイトの大爆笑も、金澤の『授業続けるぞー』という声も、和樹の耳には入っていなかった。

 すぐにでも香穂子のところに飛んで行きたい。
 あいつの手から香穂子を守らねば。
 けれど、授業と授業の間の休み時間は、遠く離れた普通科校舎まで行くにはあまりにも短すぎる。
 それは敵も同条件。 タイの色にまで気づかなかったから学年はわからないが、音楽科の制服を着ていたからには、今いる校舎は同じはずだ。
 コンクール後に音楽科への編入の話もあったが、香穂子はそれを断ったため、今も普通科のままだった。 その距離が、自分がすぐに駆けつけられないもどかしさになったが、敵もすぐには行けないという安心感にもなった。
 香穂子と比較的ゆっくり会える昼休みまでにはあと1時間授業を受けねばならない。
 次の授業が終わったら、まっすぐ香穂子の教室へ走ろう。 カツサンドは二の次だ。
「── ら、火原」
「なんだよっ!」
 思考を分断された怒りをぶつけるように、和樹は肩を揺さぶる手を振り払いながら声の方に振り返る。 傍らに立っていたのは入学当初から同じクラスで過ごしてきた親友、柚木梓馬だった。
「ぅわっ、ゆ、柚木!? ごめんっ、おれ、考えごとしてたからっ」
「いいんだよ、火原。僕も急に声をかけたりして、ごめんね」
 開け放たれた窓から吹き込む爽やかな風が柚木の長い髪をなぶる。 柚木は乱れる髪を優雅な手つきで押さえながら、悲しげに微笑んだ。
「火原らしくないね。 金澤先生の授業が終わったら、教室を飛び出して行くかんじゃないかとハラハラしていたけど」
「あ、いや、うん、授業間の休み、短いし──」
 だんだんと声が小さくなり、それと共に和樹の頭がうな垂れていく。
 和樹のいつもの行動力を知る人なら、柚木の言ったことに頷くだろう。 たった1秒間香穂子の顔を見るためだけに普通科棟へ全力疾走しても、 誰も不思議に思わなかっただろう。 しかし、和樹は教室を離れなかった。
 本当は休み時間の短さが理由ではなかった。 香穂子が顔を背けたこと、和樹を見たときの表情。 それが和樹に休み時間の長さという理由を作らせ、教室に引き止めていたのだ。
「── 菊地祥太、ヴァイオリン専攻、フランスの○○音楽学院からの交換留学生。 期間は1か月、その間は2-Bで過ごすことになる。 うちからは2年生が3人、向こうへ行っているよ」
「えっ!?」
 食いつくように柚木の顔を見上げた和樹に満足したのか、柚木はにこりと笑うとやんわりと腕を組み、目を閉じて言葉を続けた。
「小学校卒業と同時に外資系企業勤務の父親の転勤に伴い渡仏。 学生にして交響楽団から声がかかるほどの腕前らしいね。 以前はこの近くに住んでいたらしいけど」
「柚木っ、それ…っ!?」
「今、職員室でね、小耳に挟んだんだ」
 それこそ短い休み時間に職員室まで出向いて、どう小耳に挟むとそこまで知ることができるのか、和樹は気づきもしなかったが。
「…… そんなすげーやつなのか…。 おれ、もしかして…ピンチ?」
 口を歪めて自嘲の笑みを浮かべる和樹に、柚木はフッと笑みを零す。
「本当に火原らしくないね。 戦うにはまず敵を知れ、と言うじゃないか。 大切なのは君と、日野さん本人の気持ちなんじゃないのかい?  彼女と話はした?」
 和樹の顔にぱぁっと笑みの花が咲く。
「そ、そうだよね! おれと香穂ちゃんがしっかりしてればいいんだよね! うん、ちゃんと話聞いてみるよ」
 その日野本人の気持ちが問題なんだけどな、という柚木の心の呟きは、当然和樹の耳には届かない。
「あ、そうそう、君のトランペットの先生が、昼食を済ませたらすぐに職員室に来るようにとおっしゃっていたよ」
「えーっ、こんな大事な時にっ!? あーもう、一体何の用だよ、明日の個人レッスンの時じゃダメなのかな」
 頭を掻き毟る和樹に、柚木はクスリと笑う。
「さあ、僕にはわからないけれど、行っておいたほうがいいと思うよ。 それより、日野さんに連絡を入れておいたほうがよくはないかい?」
「そうだ! あいつに出会わないように、香穂ちゃんには隠れててもらわなきゃ! さんきゅーな、柚木!」
 慌ててカバンから携帯を取り出し、ものすごい勢いでメールを打ち始める和樹に笑みを送ると、柚木は席に戻っていった。
(まったく単純なヤツだな── さて、どうなることやら)
 柚木は自席から和樹を一瞥すると、彼に心酔する女子生徒が失神しそうなほどの笑顔を浮かべた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 はい、柚木さん、限りなく黒に近いグレーです!
 ええ、相手が火原でも関係ありませんっ!
 一体その笑顔の裏に何がっ!?
 いつも同じような展開ですんません(汗)
 うちの火原は何か考え込むとクラスのみんなに笑われる運命なんです(笑)

【2005/03/11 up】