■花【前編】 火原

 正月気分がやっと抜け切った頃、街を吹き抜ける冷たい風の中に、ほのかな甘い香りが混じり始め──

「香穂子〜、早く行かないと遅刻しちゃうわよ〜」
「はーい、今行くーっ!」
 お母さんの急かす声にとりあえずの返事をしておいて、私は鞄の中を覗き込む。
 昨夜から何度も確認している鞄の中には、ラッピングされた小さな包み。
 ハートと、音符と、そしてラッパの形のチョコレートの詰め合わせ。
 店先で見つけた瞬間、これだっ!、って飛びつくように買ったもの。
 本当は何か手作りしたかったな…。
 あぁ、こんなことならもっと早くからお母さんに料理習っておくんだったよ。
 今さら悔やんでも、どうしようもないけど。
 それよりも、受け取ってもらえるのかな。 いや、それ以前に、渡せるのかな…。
 私は震える指先を包み込むように拳を握り締め、よしっ、と気合いを入れた後、鞄とヴァイオリンケースを掴むと部屋を飛び出した。

 交差点を過ぎると行き交う生徒たちの数も増え─── 前方に、見間違えるはずのない後ろ姿を見つけた。
 その瞬間、私の鼓動は跳ね上がる。
 私は今にも飛び出しそうな心臓を押さえ込むように大きく深呼吸すると、その背中に向かって駆け出した。
「ひは───」
 呼びかけようとして、途中で言葉を飲み込んだ。 足もピタリと止まる。
「おはよ、火原くん! これあげる〜」
「おっはよ〜、火原っち! これ貰ってね〜」
「火原先輩っ! 受け取ってください!」
「あ、おはよ、うわっ、サ、サンキュ!」
 見る間に彼の両腕の中には色とりどりの包みが積み上げられていく。
 彼の名は、火原和樹。
 楽器なんか触ったことのなかった私が、なぜか出場することになってしまった学内音楽コンクールで優勝した人。
 人懐こくて明るい彼は前々から人気者だったし、コンクール優勝でますます注目を浴びていた。
 彼のトランペットは、聴く人を元気にさせるような不思議な音色を持っている。
 そして、その音色に一番元気づけられたのは誰でもない、私なのかも知れない。

 うわ、ダメだ…。
 私はもう一度深く深呼吸して、普通に── たぶん普通に、歩き始めた。
「おはようございます、火原先輩」
 両手いっぱいの荷物にあたふたしている彼の横を通り過ぎざまにあいさつする。
 何事もなかったように。
 精一杯の勇気を振り絞り、精一杯の元気で、精一杯の笑顔を作って。
 あ、けど私の顔、たぶん引きつってるんだろうな。
「あっ、香穂子ちゃんっ。 お、おはよ。 あ、これは、その…っ」
 私は立ち止まることも、振り返ることもなく、自分の教室に向かって歩き続けた。

「や、香穂っ! 相変わらず熱心なこと!」
 放課後、森の広場でヴァイオリンを弾いている私に声をかけてきたのは天羽菜美。
 コンクール期間中に報道部の彼女から取材を受けて以来の付き合いだけど、いまや親友とも言える存在。
 夏に私が音楽科に移ってからも、姉御肌の彼女にはいろいろ相談に乗ってもらったりで、私の想いは理解してくれている。
「あ… 菜美…」
「こんなところで練習? 寒くない? あーあー、鼻の頭、真っ赤にしちゃってぇ」
 私にカメラを向けながら、菜美が笑う。
「うん、ちょっと、寒い、かも…」
「あんたってさ、感情がすぐ音に表れるよね。 シロウトの私にもわかるくらいだよ。 ── チョコ、渡せてないんでしょ」
 菜美は腰に手を当てて、俯いた私の顔を覗きこんでくる。
「あ、うん… えへへ」
 私は枯れた芝生を爪先でもてあそびながら、苦笑するしかなかった。
「あちゃー、やっぱりか。 勇猛果敢な香穂子さんも、あの人のことに関してはなんか煮え切らないんだよね。 まぁ、ヴァレンタインデーにチョコあげるなんて、日本のお菓子メーカーの商業戦略なんだからさ、気にすることないって。 あぁ、でも気持ちを伝えるにはいいチャンスなのは確かだよね。 あんた、誕生日プレゼントも渡しそびれちゃったしさ」
「ほ、ほっといてよっ」
 励ましてるのか、けなしてるのか。 言い連ねる菜美に口を尖らせ抗議する。
 けど、悔しいけどそれは事実。
 そうなのだ。 12月の彼の誕生日、自分の気持ちを伝える勇気が出なくて、用意したプレゼントも渡せずじまい。
 石のベンチに倒れこむように座った私の頭を、菜美が子供をあやすようにポンポンと叩く。
「ま、相手は校内で1、2を争う人気者だからね── けど、あんたたち、結構いい線行ってると思うんだよね、私は」
 菜美はそう言ってくれるけど…。
 彼はいつも優しくて、よく話しかけてくれるし、合奏にも誘ってくれる。 もしかしたら私のこと、なんて自惚れたこともある。 でも、その優しさは私にだけではなく、みんなに向けられていて。
「そっかなぁ…」
「だって、コンクール以降、火原さんがあんた以外の人と合奏してるの、ほとんど見たことないしさ。 あんたたち見てたら他にもいろいろとね。 私のジャーナリストの目を信じなさいって」
「うぅ… そっかなぁ……」
「ほら、当たって砕けろって言うじゃない? 砕けなければそれでよし、砕けちゃってもそこから前に進めばよし、ってね」
「あのねぇ…」
 言われるほどに思考はネガティブ一直線。
 でも、彼女の言う通り、行動を起こさない限り、私は前にも後にも進めないのは確か。
 再び私が頭を抱え込んだ時──
「あっ、香穂子ちゃん、こんにちは! 今日はここで練習?」
「ひ、火原先輩っ!?」
 今まで話題にしていた人物の登場に、私はベンチから飛び上がった。

〜つづく〜