■Romance Quest【15】
その時、玄関の扉が控えめな小さな音でノックされた。
「か、カナやんかな? あれっ、けどまだそんな時間じゃないし、カナやんならノックなんかしないよね」
カーシュは早口でまくしたてながら、カホーナの小さな手に包まれた自分の手をスッと抜くと、
顔の赤さをごまかすように慌てて扉に駆け寄った。
「き、きみはっ!?」
静かに開いた扉の向こうに立っていたのはカナジュワスではもちろんなく── アズームの女神官だった。
「カホーナ=ヒノレック様に、ユノークス様からの伝言をお届けにまいりました」
「な、なんでここに…!?」
神官は戸口に静かに佇んでいる。前と同じ仮面のような無表情の顔で、部屋の奥に立つカホーナの顔をまっすぐ見据えている。
微かに足が震え、カホーナはテーブルの縁にすがるようにぎゅっと掴んだ。
「明日正午、カホーナ様を昼食にお招きいたします。必ずお越しください」
女神官の抑揚のない言葉は、誘いを断ることを許さない響きを持っていた。
「ちょっと待ってよ、おれも行ってもいいんだよね?」
「いいえ、ご招待するのはカホーナ様おひとりです」
「それはマズイってっ!」
女神官はカーシュの方に視線を動かすことなく、表情のない仮面の顔のまま答える。
カーシュがカホーナに駆け寄り、『承知するな』と言いたげに肩をガシッと掴む。
カホーナはゴクリと音を立てて唾を飲み込むと、ゆっくりと口を開いた。
「……わかったわ。でも、食事は結構よ── 午後3時、ティータイムに伺うっていうのはどうかしら」
「カホちゃんっ!?」
「── 承知いたしました。明日午後3時にお待ちしております」
女神官は深々と一礼すると、音を立てずに扉を閉めた。
その瞬間、ピンと張り詰めた空気がふいに緩んだ。
「カホちゃん、何で断らなかったのっ!?」
「だって、堂々とあの屋敷に入れるチャンスじゃない」
「でも、危険だって!」
肩を掴むカーシュの指の力が強くなる。
「わかってるわ。あたしを招くアズームの狙いが何なのかはわからないけど──もしかすると、研究材料調達のため、かもね」
「かもね、って──」
意味がよくわからなかったのか、カーシュは怪訝な表情でカホーナの顔を覗きこむ。
「夜までに戻ってこなかったら迎えに来てね。もしかしたら仮面かぶったみたいな顔で『どちら様ですか』ってあたしが出てくるかも知れないけど」
カホーナはそう言うと、肩をすくめて面白くもなさそうに笑みを浮かべる。
その時、カーシュの瞳が真剣みを帯びた。
「カホちゃんっ! 冗談でもそんなこと言っちゃダメだよ!」
「ご、ごめんなさいっ」
強い力でカホーナの肩を揺さぶりつつのカーシュの剣幕に、カホーナは慌てて詫びの言葉を呟いた。
「そんなのおれ──イヤだから」
「── も、もちろんあたしだって、最初からみすみすやられるつもりで行くわけじゃないわよ。
いざとなったら魔法で屋敷の壁ぶち破って逃げてくる。それが解決になるとは思えないけど、証拠掴んでお役所に突き出すっていう手もあるし。
── それに、そうならないためにも昼食は断ったんだしね」
「え、それ、どゆこと?」
急に緩くなったカーシュの手をするりと抜けて、カホーナはキッチンへ向かい、ポットに水を汲み始める。
カーシュはその動きに吸い寄せられるようにキッチンまでついていく。
「食事に睡眠薬か毒薬なんか入れられたらどうしようもないじゃない? 食事に招かれて、その食事に口をつけないなんて難しいでしょ。
お茶なら、飲まずにやり過ごせるもの」
「そっか、なるほどね。── けど、すごいな。あの短時間の間にそこまで考えて返事するなんてさ」
「人間追い詰められると、頭の回転早くなるのかも」
カホーナは苦笑すると、その後は口を開かずに坦々とお茶の準備を続ける。カーシュはその横顔を見つめたまま、何も言えなくなった。
カホーナの頭の中では、どうやってアズームを追い詰め、研究を止めさせるか、必死で考えを巡らせているのだろう。
「それにしても、あいつ── なんでここがわかったんだろ? もしかして、つけられたのかな」
しばらくの沈黙の後、ポットが蒸気を吹き出し、お湯が沸いたことを知らせ、思い出したようにカーシュが口を開いた。
「それはないと思う。カーシュって、この街じゃよく知られてるんでしょ? そしたら立ち回り先なんて、ちょっと調べればすぐにわかるわよ」
「うぅ…そっか……」
火から下ろしたポットに茶葉を入れると、ハーブの香りがキッチンに広がった。カップに注ぎ分け、ひとつをカーシュに差し出す。
カホーナは自分のカップを持ってテーブルへと向かうと、椅子に腰を下ろした。カーシュもそれに倣って椅子に座る。
「そういえばさ、初めてカホちゃんがいれてくれたお茶って、ドロドロの煎じ薬みたいだったよね」
「うっ……だ、だって知らなかったんだもん、しょうがないじゃない」
だんだんと声が小さくなっていく。
「もしかしてさ、カホちゃんってどこかのお嬢様、とか? あ、でもお嬢様が一人旅なんてしないよな」
「い、いいじゃない、そんなこと…っ」
熱いハーブティーにふぅと息を吹きかけ、一口含むと口の中にハーブのいい香りが広がっていく。
その香りを楽しむように、しばらく沈黙が続いた。
「でもさ、明日、やっぱりカホちゃんひとりで行くの、やめない?」
「やめない」
再び沈黙を破ったカーシュに、カホーナはハーブティをすすりながらきっぱりと答える。
「じゃあさ、おれがカホちゃんの格好していくってのは?」
「たぶん門前払い」
「じゃ、カホちゃんのマントの中に隠れていく!」
「なっ…そんなの不自然すぎるでしょ、すぐバレちゃうわよっ! 小さな子供ならともかく、カーシュはあたしより背が高い──」
カップを口に運ぶカホーナの動きがぴたりと止まった。頭の中の考えをまとめるように、時々視線を移しながらブツブツ呟いている。
そのうちカホーナの視線がカーシュの上に止まり、カホーナは悪戯を思いついた悪ガキのようにニヤリと笑う。
「ねぇカーシュ、アズームの屋敷に一緒に入る方法がひとつだけあるの。試してみる?」
カップを脇に置くとテーブルに身体を乗り出し、口元に手を当てて内緒話の準備をしているカホーナ。他に誰もいないんだから普通に話せばいいのに、
と思いながらもカーシュは同じようにテーブルに身体を乗り出し、カホーナの口元に耳を寄せた。
* * * * *
翌日、午後3時。
カホーナは再びアズームの屋敷を訪れた。
前と変わらぬ陰気な外観は、カホーナを威嚇するように存在し、思わずマントの前をかき合わせた。
重々しい大きなドアの前に立つと、ドアノッカーのガーゴイルまでが自分を威嚇しているように思えた。
カホーナは大きく深呼吸をすると、ノッカーに手を伸ばし、高らかに打ち鳴らした。
「お待ちしておりました」
ゆっくりと扉が開き、相変わらず無表情な女神官が姿を現した。通されたのは、前に入った応接間でも大広間でもなく、豪華な設えの広い部屋だった。
ベッドやデスクセット、クロゼットなどがあることから、ここは誰かの── おそらくアズームの私室なのだろう。
午後の柔らかな陽射しで明るい室内。中央の大きなテーブルの上座に微笑を湛えたアズームが待ち構えていた。
「── こんにちは。今日はお招きにあずかり、光栄ですわ」
少しトゲのあるカホーナの挨拶に、アズームは微笑で答え、身振りだけで椅子に座るように促した。
気が付けば、背後で神官が椅子を引いて待っている。
「!?」
その神官は男性だった。いつからそこに立っていたのか、初めて見る男性神官だったが、その表情は女神官たちと同じ。
無表情で、曇った瞳の焦点は定まっていないようだった。
小さく息を呑むと、カホーナはおとなしくその椅子に腰を下ろした。
別の女神官がティーセットを乗せたワゴンを押してきた。カップがカチャリと小さな音を立ててカホーナの前に置かれ、
ポットから注がれるハーブティーからいい香りが漂ってくる。いつも飲んでいるハーブティーとは違う、少し甘ったるい匂いが微かに混じっていた。
「君にうちの料理を食べてもらいたかったね。うちが雇っているのは一流の料理人だから、きっと君に気に入ってもらえると思っていたんだけれど」
アズームはゆったりとカップを口元に運ぶ。その動作は優雅で、思わず見惚れてしまうほどだった。
「ほんとに残念ね。だけどあたしはあまりヘビーな昼食は摂らないことにしているの」
フッと笑うと、アズームは静かにカップを置いた。カホーナはカップに手を伸ばすことなく、膝の上でギュッと拳を握り締める。
「── 用件は? あたしに用があるから呼んだんでしょ?」
「そんなに怖い顔で睨まないでくれないかな」
カホーナの突き刺すような視線にも全く怯むことなく、アズームはその様子を楽しむようにクスクス笑っている。
「まずは先日の失礼をお詫びしておくよ。何かの手違いだと思うけれど」
カホーナは敵意を隠すことなく、アズームを睨み据える。
「失礼? あんな高いところから落としておいて、『失礼』の一言で片付けてほしくないわね。死ぬかと思ったんだから」
「僕としてはそのつもりだったんだけれど。君もカーシュも悪運が強かったようだね」
顔色も変えず、笑顔で恐ろしいことを言ってのけるアズーム。完全に彼のペースだった。飲まれる、と感じたカホーナは大きく息を吸い込んだ。
「まあ、あれが冗談だったとは、さらさら思ってないけど」
カホーナも負けじと応戦するが、形勢は全く変わらない。
アズームは手にしていたカップを静かに置くと、ゆったりとテーブルに肘をついて顔の前で両手を組み、カホーナに向けて柔らかく微笑んだ。
「さて、じゃあ本題に入ろうかな。君はなぜ《ヴァイオリン・ロマンス》を探すのかい? やはり力を求めて?」
「── 力なんていらないわ。頼まれただけよ、探せって。頼まれたら断れないタチなの、あたし」
アズームの表情が変化する。ほんの少し目を見開き、驚きの色を隠さない。
「あなたはどうなの? 力がほしいの? それとも富? そもそも、なぜそれを探そうと思ったの?」
アズームは答えずにカップに手を伸ばす。一口飲んでカップを置いた時、アズームの眼には見覚えのある冷酷な光が宿っていた。
「理由はさておき、お互い《ヴァイオリン・ロマンス》を求めていることには変わりない。どうかな、ここは協力してみては?」
「あたしに『心』を差し出せ、と?」
アズームは緩く握った拳を口元に当て、ククッと笑う。
「もちろん対等なパートナーとして。ふたりで研究すれば結果は早く出るかもしれない」
「── 断ったら?」
「頼まれたら断れないんじゃなかったのかな?」
楽しそうに笑うアズームに、カホーナは歯噛みする。自分の余裕のなさに焦りがこみ上げるのがわかった。
苛立ちのあまり叫び出しそうになったが、爪が食い込むほど拳を握り締め、ぐっと耐えた。
「茶化さないで」
低い声で呟くカホーナに、アズームは口元に笑みを浮かべる。
「君とカーシュがどういう関係かは知らないけれど、二度とカーシュに会えない、ということもあり得るかな」
── 受け入れても断っても、外には出さない、ってことか。
カホーナは覚悟を決めると、椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、その共同研究とやらをやる場所を見せてもらいましょうか。言っとくけど、あたしはほとんど情報を持ってないし、
魔道の知識もないわよ。それでもいいのね?」
アズームはニヤリと笑うと立ち上がり、デスクセットに向かうと引き出しのひとつを開けて、その中に手を差し入れた。
すると、何もないはずの壁がパックリと開き、奥へと続く通路が現れた。
「どうぞ」
カホーナを促すと、アズームが通路へ入って行った。慌ててカホーナもアズームの後を追いかけた。