■Romance Quest【08】
頬に当たるひんやりした感触に、カホーナは目を覚ました。
「── んっ!」
身体を動かそうとしても動かせない。
気付けば、手は身体の後で、足も揃えて縛られ、猿ぐつわまで咬まされている。
── なにっ!? この状況は!? どこよ、ここ!?
起きようと身体を捻った時に腹部に鈍痛を感じ、自分に何が起こったのかを思い出す。
── そうだ、あたし、お腹を殴られて…。うぅ、なんであたしがこんな目に!?
冷たい床に転がったまま、辺りを見回してみる。小ぢんまりした部屋は殺風景で、幾つかの木箱が転がっているだけで、生活感はない。
この饐(す)えたような臭いと埃っぽい空気は、ここでかつて営まれていた暮らしの残滓なのだろうか。
もがいているうちに頬に貼り付いた髪が鬱陶しい。いつの間にか、ポニーテールがほどけてしまっていた。
どうやら、当て身を食らってここまで運ばれるまでに、ベルトとお揃いの髪飾りは落ちてしまったらしい。
自分の身体を眺めてみると、腰の短剣は取り上げられているが、ベルトにつけたトランクとヴァイオリンケースはそのまま残っていた。
とはいえ、手を縛られていれば、ヴァイオリンを取り出すこともできない。
青虫が這うように、窓際までにじり寄り、外を見る。立ち上がれない上に、窓は高い位置にあるため、
空を見上げることしかできない。月の位置からして、気を失っていたのはさほどの時間ではないようだ。
動いたことで、腹部の鈍い痛みはぶり返し、再び意識が遠のきそうになる。
深呼吸して、ぼやけた意識をなんとか取り戻すと、カホーナはもう一度部屋の中をぐるりと見回した。
天井の隅にはクモの巣がかかり、窓に付けられたカーテンは朽ち落ちている。
古くなってガタが来た屋敷は、あちこち建て付けが悪くなり、すきま風も入ってくる。この部屋の入口の扉もちゃんと閉まりきらずに、
隣の部屋の明かりが細く差し込んできていた。
再び床を這って、扉の近くまで移動する。隣の部屋にはどうやら見張りがいるのだろう、品のない笑い声が聞こえてくる。
「── あの野郎、仕事のジャマしやがって。思い出しても腹が立つぜ」
「ああ、女を逃がしちまったってやつか。あの旅の剣士…カーシュとか言ったか。やけに腕が立つらしいな」
突然出て来たカーシュの名前に、カホーナは身体を硬くする。
「あちこちで人助けの真似事してやがってな。街の奴らもちやほやしやがって。1回シメてやろうと思ってな」
「で、あの女をさらってきたってわけか」
「ああ、あの野郎のツレみたいだったからな。おびき出すエサってわけよ」
── エサって何よっ! これって、カーシュの人助けのとばっちりなのっ!?
「にしても、魔法戦士をよく捕まえられたな」
「俺もそう思ったんだけどよ、あの女、全然無防備でな。楽勝だったぜ」
── むかっ! …ま、まあ、周りの気配を読むのはまだできないけど…いきなり後から襲ってきて殴りつけたくせにっ!
「で、カーシュって野郎を殺った後、あの女どうすんだ?」
「捕まえてきた他の女たちと一緒に『あの方』のところへ送りゃいいんだよ」
── 『あの方』? 送るってどこに!?
不穏な話の流れに、カホーナは縛られた手足や殴られた腹部の痛みも忘れて、聞き耳を立てた。
「『あの方』はなんでそんなに若い女が必要なんだろうな。おっ、もしかしてハーレムか?」
「いや、なんでも『心』を取り出す研究をなさってるらしいぜ。何て言ったかなぁ、《ヴァなんとか・ロマンス》とか言ってたな」
── それって、もしかして《ヴァイオリン・ロマンス》!?
「ロマンスっていうくらいだから、男と女の色恋沙汰か? 主教サマともあろう方がな」
「それが何かは知らねえが、なんでも昔は魔道士だったらしいからな、主教サマは」
── その主教サマに会えば、《ヴァイオリン・ロマンス》のことが聞けるかも!?
思わぬところで手掛りを掴んで、早く脱出しなければとカホーナは焦った。男たちに物音を極力聞かれないように扉から離れ、
縄を解こうと試みるが、そう簡単に解けるものではない。カホーナの焦りはますます募っていく。
その時、窓から強い光が一瞬射し込み、一呼吸置いて屋敷を揺るがす轟音が響いた。
* * * * *
「これ……カホちゃんの髪飾りだ。もしかして、ここ?」
朽ちかけた大きな屋敷の門の前で、カーシュは街路に落ちていたものを拾い上げ、リューに訪ねる。
「はい」
「うあ、なんかゴーストとか住んでそう…」
今にも崩れそうな屋敷を前に、カーシュが呟く。
「…呑気なこと言ってないでくださいよ。カーシュさんは裏口に廻ってください。外塀伝いに行けばあります。
たぶん、2階の広間あたりが怪しいですから、そこを目指してください」
「へぇ、リュー、この屋敷のこと詳しいんだね」
「子供の頃の遊び場でしたから。── しばらくしたら俺が正面から仕掛けて敵を引き付けます。屋敷の中に入るタイミングは任せます。
彼女を安全な場所に連れて行った後は、援護お願いします」
「わかった。じゃあよろしく」
大雑把ではあるが理に適った指示を出すリューに頷くと、真面目な顔つきになったカーシュは闇の中に姿を消した。
しばらくの間、物陰に潜んでいたリューは、その肩につけたショルダーガードから手首までをサッと右手で撫でた。
そこにはキラキラした光を纏った白と黒が交互に並んだもの── 鍵盤が現れた。そして腕に纏いつく鍵盤を叩くと、上空に手を掲げる。
「ブリランテ・フラッシュっ!」
掲げられたリューの右手から目も眩む光が生まれ、辺りの闇を覆いつくした。
謎の光に気付いて、武装した男たちが屋敷からわらわらと出てくる。何が起きたのかと、一塊になってきょろきょろしている男たちを確認すると、
再びリューは左腕の鍵盤を叩く。
「エネルジコ・アースクエイクっ!」
右手を地面に着き、魔力を解き放つ言葉を叫ぶと同時に地面は轟音を上げて大きく波打ち、男たちは立っていることもできず揺れに翻弄されている。
ひび割れた地面に挟まれ、身動きできない者もいた。
「頼む、無事でいてくれよ」
口の中で呟くと、リューは敵に向かって駆け出した。
* * * * *
裏に廻ったカーシュは、突然降った光を合図にそっと屋敷に入った。リューが言った通り、2階に人の気配がある。
「3人いる? カホちゃんと……、悪人たちか?」
気配を確認すると、裏口を入ったそばに、以前は使用人用として使われたであろう細い階段を見つけた。
床は大きく軋み、焦る気持ちを抑えながら歩を進めていく。
2階の廊下のほぼ中央。大きな扉のところに辿り着いた。以前は豪華な装飾がされていたらしいが、今ではすっかり剥げ落ちて見る影もない。
蝶番が外れてできた隙間から中の様子を伺う。
「カーシュの野郎、来やがったな」
「へへっ、泣いて謝っても許してやんねぇってか? まあ、命がなきゃ、謝ることもできねぇがな」
男たちは窓の外の様子を伺いながら、下品に高笑いする。
バンッ!
「お前ら─── 女の子襲ってた、あん時のやつらかっ!?」
「うわっカーシュっ! 外のは仲間か!?」
扉を蹴破って入ってきたカーシュに男たちはうろたえる。
カーシュは駆け出すと、部屋の中央にあったテーブルにバンッと手をつき、ひらりと身を躍らせテーブルを飛び越えながら、
そのまま男のひとりの頭部に蹴りを食らわせる。苦しげなうめき声を上げて崩れ落ちる男を見て逃げ出そうとした
もうひとりの男の首根っこを捕まえると、そこに手刀を一発。
ものの数秒であっけなく倒れた男たちを、テーブルの上にあった縄でまとめてグルグル巻きにする。
「カホちゃんどこだっ!?」
ゴトンっ
カーシュが呟いて、気配を探ろうと広間をぐるりと見回したとき、広間の脇についている扉の中から物音が聞こえた。
扉に駆け寄り、ノブを思い切り引く。
「カホちゃん!」
床に横たわるカホーナに駆け寄り、猿ぐつわを取り去り、抜いた剣で手足を縛る縄を切り落とした。
「カホちゃんっ、大丈夫っ!?」
「── カーシュぅ……」
抱き起こしたカホーナの目に、みるみる涙が溢れていく。
「早くっ」
くるりと背を向けしゃがんだカーシュに、カホーナは素直におぶさる。外ではまだ爆発音や叫び声が聞こえている。
男たちの誰かが戻って来ないとも限らない。今のカホーナの感覚のない足と腹部の鈍痛では立ち上がることすら無理だった。
背中にカホーナが身体を預けたのを確認すると、来た道を通って屋敷の外に出る。
「しっかりつかまってて」
そう言うとカーシュは走るスピードを上げ、屋敷を囲む塀に向かって突進する。塀の直前まで来ると、カーシュは思い切り地面を蹴り、
ひらりと飛び上がった。塀の上をぽんとひと蹴りすると、街路に着地する。
「カホちゃんはここにいて。今、リューが暴れてくれてるから、おれ、加勢してくる」
背中のカホーナを下ろすと、カーシュは再び塀の中へと戻っていった。
* * * * *
── あ、あったかい。ふかふかしてて気持ちいいな。ベッドから出たくないよ。でももうすぐメイドたちが《姫の着せ替え》に やってくる頃かしら。めんどくさいなぁ。服くらい自分で着替えられるのに───。
「……ん…」
「あっ、カホちゃん、気がついた?」
「……あれ…?」
聞き覚えのある声に、意識がはっきりしてきた。城で寛いでいると思ったのは夢で、何日も滞在してすでに見慣れた宿の一室だった。
「…あ、カーシュ……」
掠れた声は、まるで他人の声のようにカホーナの耳に響いた。
「よかったー。悪いやつらをぶち倒して戻ってみたら、カホちゃん気を失ってるんだもん」
「……今は…」
「あ、もう次の日の夜だよ。カホちゃん、丸1日眠ってたんだ」
道理で頭がガンガンする── 刺すような痛みを取り去ろうとするかのように、カホーナは一度ぎゅっと目を閉じ、
ゆっくりと開いてカーシュに視点を合わせる。
「ごめん、おれのせいでカホちゃんにひどい目に遭わせちゃったね」
いつになく神妙な面持ちで、カーシュはうなだれている。
「昨日、ここに帰ってから、宿のおばさんにカホちゃんの着替えを頼んだんだ。そしたら……カホちゃんのお腹に大きなアザがあるって…。
あいつらに殴られちゃったんでしょ。ほんと、ごめん」
そう言われて、カホーナが腹部に手を当ててみると、ゴワゴワした湿布が貼られ、太い包帯が巻きつけてあった。
そのお陰か、痛みはほとんど引いている。
ゆっくりと身体を動かし、カホーナはベッドの上に身を起こした。
「カーシュは悪くない。悪い人をやっつけたんだもん」
「でも、おれ、カホちゃんのこと護るって約束したのに…」
「ううん、カーシュはちゃんとあたしのこと助けに来てくれたもの。来てくれた時、ほんとに嬉しかった。
それに引き替え、ダメなのはあたしだよ。あっさり捕まっちゃうなんて。あたし、もっとしっかりしなきゃね」
痺れの残った手首にはくっきりと縄の痕が付いていた。鈍い感覚を取り戻すように擦りながらカホーナは呟く。
「もっと強くならなきゃ。もっともっと魔法も覚えて、自分のことくらい自分で守れるようにならなきゃね」
「カホちゃん……」
思い詰めた表情で、カホーナは自分に言い聞かせるように呟き続ける。その手は機械的にもう一方の手首を擦り続けていた。
その時、カーシュがカホーナの手を取り、手首の縄痕をいたわるように優しく撫で始めた。驚いて引っ込めようとしたが、
カーシュのその手は暖かくて、本当に優しくて──、カホーナはそのまま手を預けた。
「そうだ、カーシュ。剣術の基礎を教えて。護身術程度でいいから。あ、あとヴァイオリンの練習にもつきあってよね」
カホーナはにっこりと笑って見せる。カーシュは持っていたカホーナの手を引き寄せると、カホーナをぎゅっと抱きしめた。
「ちょっ、ちょっとっ、カーシュっ」
「うん、一緒に頑張ろう! 絶対《ヴァイオリン・ロマンス》、探し出そうっ!」
「── カーシュ………、ありがと」
カホーナは、カーシュの背中にそっと両手を回した。