■Romance Quest【05】
「ど───」
どうしたの、と尋ねようとした時、カホーナはいきなり肩を掴まれ、グイッと後に引き倒された。
「──った〜い、いきなり何す──っ」
「カホちゃん! その辺に隠れててっ!」
派手に尻餅をつき、痛さに顔をしかめながら文句を言うカホーナに、カーシュは叫んで走り出す。
「ちょっ……なによ!?」
小高い丘に続く街道を走っていくカーシュの向こうから、何かがこちらへ向かって近づいてくる。
カホーナは、カーシュの真剣な顔と言葉を思い出して辺りを見回すが、隠れるところなんて何処にもない。どこを見ても緑がそよぐ草原だけ。
再びカーシュが走り去った方向へ目をやると、カホーナはそのままの格好で腰を抜かし、動くことができなくなった。
緩やかな丘のラインから徐々に見えてくるのは、──人影。
徐々にはっきり見えてきたその《人影》は、融け出す煉瓦色の外皮をドロドロと流しながら、引き摺るようにゆっくりと歩を進めている。
足が着いた地面には赤茶色の外皮が不気味な液溜まりを作り、身体から流れた飛沫が点々と飛び散っている。
カーシュの後ろ姿との対比から、その背丈は彼の2倍は軽くあるだろう。力なく脇に垂らされた両手は不気味なほど長く、
その先端からもドロドロしたものが流れ落ちている。
その目に眼球はなく、空虚な眼窩が口を空け、口元はだらしなく開いたまま。
表情のないはずのその顔は、頭頂部から流れる液体で刻々と変化して、泣いたり笑ったりしているようにも見える。
カホーナも街の外に出る怪物の存在は聞いたことがある。その姿を想像して、恐怖に眠れなくなったこともある。
しかし、実際に初めて見るその怪物の姿は、不気味を通り越して、吐き気すら催してくる。
カホーナには、喉の奥からこみ上げてくる酸っぱいものを必死で飲み下し、前で起こっている光景を見つめることしかできなかった。
《ドロドロ》の傍まで駆け寄ったカーシュは、走るスピードを落とさぬまま、フッと身体を低くする。その反動で宙に身を躍らせ、
振り上げた脚で《ドロドロ》の顎にその爪先を捻り込む。
カーシュの蹴りに《ドロドロ》は仰け反るが、何事もなかったようにゆっくりと身を起こし、その動きを止めることはない。
宙を舞っていたカーシュは、軽やかに身を翻すと後方に片膝をついて着地し、その動きを止めぬまま腰のロングソードに手を懸け、
再び《ドロドロ》に向かって走り出す。
「ハアァァッ!」
《ドロドロ》の直前まで詰め寄ったカーシュは、鋭く気を吐くと剣を振り抜きざまに相手の胴を薙ぐ。水風船が割れたような音をして切れ落ちた右手は、
そのまま地面で液溜まりとなり、ざっくりと切れた胴からは向こう側の風景が見えている。
『やったっ!』とカホーナが思ったのも束の間、上から流れ落ちる赤茶色の外皮に、切り落とされた手は再び出現し、
切れた胴はみるみる元通りになっていく。
苦渋の表情でチィッと舌打ちすると、カーシュはロングソードを一振りしてから鞘に収め、
ベルトにつけたケースの表面をスッと撫で、その手を空に掲げる。
上空に掲げられた手のひらの前には、リリが残していったようなキラキラとした光が集中し、何かを形作っていく。
管を巻き取ったようなそれは、はっきりと姿を現すと、金色に輝く硬質なものとなった。
カーシュは、出現した金色の管のかたまりを、掲げていた手でパシッと掴むと、《ドロドロ》の方へ向けて両手で構える。
「アンダンティーノ・ホーリィライトぉっ!!!!!」
キラキラした光が管のかたまりを包み、咲き誇る百合の花のように開いた先端から光の束が放たれ、辺りを白い闇で覆いつくす。
《ドロドロ》の発する、耳をつんざくような断末魔の叫びが響き渡った。
「カホちゃん、大丈夫? どこもケガしてない?」
肩を揺り動かされ、呆然としていた意識が戻ると、膝に手を当ててかがみこんでいるカーシュの心配そうな顔が目の前にあった。
「あ…うん…、平気…、たぶん…」
「よかった〜。あ、さっきは突き飛ばしちゃってごめんね。慌ててたから、つい」
カーシュは片手を拝むように顔の前に立て、ペロッと舌を出してウインクする。
カホーナは小さく横に首を振ると、そのままカーシュのもう一方の手元に視線を移した。
「あ、これ?」
カーシュは手に持った金属管のかたまりを軽く振ってみせる。
「これはね、トランペット。元々は息を吹き込んで音を出す、っていうか音楽を奏でるものなんだけどね。コイツに関しては、そうだな……、
魔力の増幅器兼発動器っていう感じかな。あ、もちろん普通に音も出せるんだよ」
そういうと、カーシュは管の細くなっているほうに付けられているピースに唇を当て、息を吹き込んだ。突き抜けるような、
それでいて甘くとろけるような音色が辺りに響き渡る。
「ねっ!」
ぽかーんと見つめるカホーナに、満面の笑みを向ける。
「そ、それ…どこ……?」
「ん? あ、おれがどこで手に入れたかってこと?」
コクコクと頷くカホーナ。
「んーと、じぃちゃんのじぃちゃんの、そのまたじぃちゃんのかーちゃんってのが、スッゲー魔法の使い手だったらしくてさ、
うちに代々伝わってたんだ。で、旅に出る時に、持って来ちゃった♪」
持って来ちゃった、って、んな簡単に──っ。
頭には浮かぶが、言葉にできない。
「ま…、まほっ……」
「まほ? ああ、魔法のこと? うーん、なんかちっちゃい時から使えてたんだよね〜、なんでだろ?
あ、おれ、子供の頃フェアリーに出逢ったことがあるんだ。そういえば、その頃からだったな、魔法が使えるようになったのって。
あー、もしかしたら、あれって、リリちゃんだったのかもしれないね〜♪」
そんな大変なことを、そんな事もなげに───
心の中でカホーナはツッコみ続ける──身体の震えが止まらず、べったりと尻餅をついた格好のままで。
* * * * *
「─── っ!?」
「どうしたの、カホちゃん!?」
カホーナが両手で口元を押さえて、声にならない悲鳴を上げる。
怯えた視線は、カーシュの肩越しに、後方を突き刺している。
その視線を辿ってカーシュが振り返ると──たった今、聖なる光に包み込まれ、
断末魔の叫びを上げながら倒れた《ドロドロ》がゆらりと立ち上がっていた。
咄嗟にトランペットを《ドロドロ》に向け、身構えるカーシュ。
その時、《ドロドロ》の姿がぼうっと霞み、空気に溶け込むように薄れていった。
と同時にキラキラした光が現れ、ポンッという軽い破裂音がしたと思うと、その場には5人の4枚羽根が薄く輝く羽根をひらつかせて漂っていた。
『合格なのだー!』
巨体のちょうど頭の部分に漂っていた4枚羽根──リリが、嬉しそうに笑っている。
『今のはテストなのだ! オマエたちなら、この先の旅も安心なのだ!』
ふぅ、と息を吐き、立ち上がったカーシュが、手にしたトランペットを腰につけたケースに突き刺すように当てると、
その姿は光と共にシュッと小さな音を立てて吸い込まれていった。
「なぁんだ、リリちゃんかぁ。もう、ビックリしちゃったよ〜」
『悪かったなのだ。しかし、これは《ヴァイオリン・ロマンス》を求める者への試練なのだ』
ビックリした、っていう次元じゃないでしょ────っ!
第一、姿を変えるにしても、あんなドロドロのグログロにならなくたって──っ!
さっきまでとはうって変わった和やかな空気に、カホーナは心の叫びと共に、一気に脱力する。
『今日はカホーナ=リル=ムジカ=ヒノレックに用があるのだ』
「── っ!?」
不意に名前を呼ばれ、カホーナはガバッと顔を上げる。
『オマエにこれを渡しに来たのだ』
リリの宣言を合図に、巨体の手足だった部分に漂う4枚羽根=ファータたちが、カホーナのところへ舞い降りてきた。
彼らは尻餅姿のままのカホーナの頭上に留まると、手に持ったスティックを練習してきたかのように同時に振り上げ、
カホーナに向けて振り下ろす。
その動作を見つめていたカホーナは、ファータたちのスティックから何かが自分に向けて飛んでくるような気がして、
後に引いた身体を硬くして、ギュッと目を瞑った。
自分の身体に異変もなく、何かがぶつかったような形跡もなく。カホーナは恐る恐る目を開く。
「な、なにこれ!?」
ファータたちのスティックから降ってくるキラキラした光は、カホーナの足元で積もり重なり、紙の束になっていく。
『それは、楽譜なのだ。ここに書かれたメロディをオマエのものとしたとき、それは力となるのだ』
「どういう意味!?」
『では、頑張れ〜なのだ!』
カホーナの質問を無視して、5人のファータたちは姿を消した。
「たぶん──」
すぐそばで聞こえたカーシュの声に驚いて、カホーナは声の方向にガバッと顔を向けた。
いつの間にそこに来たのか、カホーナの右真横、カホーナと同じ方向に向いて、カーシュが膝を抱えるようにしてしゃがみこんでいる。
「この楽譜の曲がちゃんと弾けるようになったら、魔法が使えるようになる、ってことじゃない?」
カーシュは手を伸ばし、カホーナの前に積み重ねられた紙の束をひょいっと掴むと、地面の上にトントンと落として縁を揃え、
はいっ、とカホーナに差し出す。
ありがと、と答えて受け取ったものの、カホーナはどうすればいいのか途方に暮れていた。
「練習ならつきあうからさ。今日のところは先に進まない?」
カーシュの言葉に、それもそうか、と気を取り直し、トランクの中に楽譜の束をしまいこむ。こうなってしまった以上、
ここでうだうだ悩んでいても仕方ない。
縮小したトランクをベルトに取り付けると、カホーナは重い腰を上げ───られなかった。
どうやっても足に力が入らない。理解できない出来事の連続のせいで、『立つ』という動作を忘れ去ってしまったかのように。
見かねたカーシュが差し出した手に掴まって、引っ張り上げてももらったが、しっかり立てずに再びぺたんと座り込んでしまった。
「あははっ、しょうがないな〜」
笑うカーシュに抗議しようとした時、カホーナの身体が宙に浮いた。
「んきゃっ」
小さく妙な悲鳴を上げたカホーナの顔の傍には、ニカッと笑ったカーシュの顔。カホーナは、カーシュの両腕の上に横向きに抱えられている。
いわゆる《お姫様だっこ》をされていたのだ。
「おっ、降ろしてっ。自分で歩くっ」
「でも、カホちゃん、立てないでしょ? うわっ、暴れたら落としちゃうよ〜」
カーシュのブレストプレートに手をついて、逃れようと必死で突っ張るカホーナ。
「うーん、これがダメなら、手か足を掴んでズルズル引っ張ってくしかないよ?」
「あぅ………、それは、イヤ…」
究極の選択に、あっさり両手を挙げて降参する。
「じゃ、ちゃんとつかまってて」
「つ、つかまるって、どこに…?」
「この状態なら、首しかないでしょ?」
向こう側に頭を倒して首筋を見せ付けるカーシュに、うっ、と言葉に詰まって顔を赤らめる。
カホーナがおずおずとカーシュの首に両手を回すと、カーシュは、よっ、と掛け声を掛けてカホーナを抱えなおし、先へと進み始めた。
「大丈夫、カホちゃんのことは、おれが護るから」
優しい声で呟かれた言葉に、カホーナはカーシュを抱きしめるように首に回した手に、ほんの少し力を込めた。
それは、幼い少女が父親に、恐怖からの救いを求めるようなものだった。