■Festival!【06】
和樹が引きちぎるように保健室の扉を開ける。
そこには、扉の音に驚いて振り返る深緑の制服── 土浦と、自分と同じ淡色の制服── 月森の姿があった。
2人は同じように腕組みをし、鏡に映したように綺麗に対称になったポーズで振り返っている。
その間から見えるのは、奥に置かれたパイプ椅子に座って、何かを飲んでいる香穂子。缶が熱いのだろう、ぐるりとハンカチを巻き、
両手でそれを包んで口に運んでいる。
「── 香穂ちゃん……」
「あ……せんぱ…い……」
香穂子は、和樹の姿を認めると、缶を持つ手を膝に下ろし、申し訳なさそうに視線を落とす。
和樹は腕組みの男2人からの冷たい視線を感じながら、室内に入り後ろ手に扉を閉めた。
「オケ部ってのは、女子生徒がぶっ倒れるまで練習させるんですか、火原先輩」
腕組みしたまま、土浦は和樹のほうに向き直る。
「─── ごめん」
「謝る相手が違うと思いますが」
背を向けたままの月森の言葉に、和樹は返す言葉も出ない。
「ちょっ、な、なに、ちょっと待っ──」
「お前は黙ってろっ」
辺りの不穏な空気にオロオロし何かを言いかけた香穂子の言葉を土浦が制止する。
「先輩はこいつの性格知ってるでしょう。与えられたことは意地でもやり通すって。
高校最後の演奏会になる先輩のために、こいつは夜遅くまで、身体壊すほど練習してたんですよ」
「火原先輩が、先輩として、── 男として、彼女を守ってやらないのならば──」
「だからちょっと待ってよ! 違うんだってばーーーーーっ!!!」
月森の言葉を、今度は香穂子が絶叫で制止する。
椅子が倒れそうな勢いで立ち上がり、片手は拳を握り締め、もう片方に握りしめた缶から零れた液体が床に点々を作っている。
しょんぼりと肩を丸めていた和樹も、ハッと顔を上げる。
「何が違うっていうんだ。お前が練習のやり過ぎで倒れたのは事実だろうが」
「そりゃあまあ、ここ最近はちょっと忙しかったけど………でも、今日、倒れちゃったのは……」
だんだんと声が小さくなり、香穂子は俯いて両手の中で缶を転がしている。
「── っ、何なんだよ?」
「…えーっと、それが…購買で何か買ってから練習室行こうと思ってたんだけど………途中でお財布持って来なかったのに気づいて………
でも取りに戻るのがめんどくさくて………お昼ごはん食べ損なっちゃって、体育で力入んなくなっちゃった〜、あはははははははー」
「「あはははじゃないっ!」」
後頭をガシガシしながら高らかに笑う香穂子に、月森&土浦から同時に力いっぱいのツッコミが入る。
「心配させてごめんなさいっ! でもね──」
深々と頭を下げた香穂子は、身体を起こすとさらに言葉を続ける。
「楽しかったんだ。やっとヴァイオリンがわたしの一部になってきたっていうか、思い通りの音が出せるようになってきたっていうか。
そしたら、弾いても弾いても弾き足りなくて。もうちょっと、もうちょっとって弾いてたら時間が経っちゃってて」
香穂子は胸元に両手で缶を握り締め、うっとりと、楽しそうに語る。
「── その気持ちはわかるな」
「ああ、俺も満足な演奏ができた時はピアノから離れたくないって気がするしな」
月森と土浦が同意すると、香穂子は照れ臭そうに笑って、持っていた缶を後の机にコトリと置く。
「みんな、わたしが無理してたって思ってるみたいだけど、全然そんなことないんだよ。
あ、そうそう、クラスの劇の方も最近楽しくなってきちゃってさ〜。そうだ! ヴァイオリニスト兼女優とかってイケてない?」
けらけらと笑う香穂子に、その場にいる男たちは言葉が出ない。
その時、和樹が前に進み出た。間にいた2人を押しのけるように進み、香穂子に近づく。
「わっ、ご、ごめんなさいっ。練習のこと、和樹先輩にはちゃんと話しておかなきゃいけないとは思ってたんだけど、
言いそびれちゃって──」
和樹の迫力に、香穂子は慌てて謝罪の言葉を口にする。
香穂子の前に立った和樹は、おもむろに香穂子の二の腕をがしっと掴み、香穂子の目を覗き込んだ。
「ほんとに無理してない? ほんとにつらくない? ほんとに身体大丈夫?」
矢継ぎ早に質問を投げつける和樹に、二の腕を掴まれて身動きの取れない香穂子は、ただコクコクと頷くことしかできなかった。
香穂子の腕を押さえつけていた圧力が、不意になくなった。と同時に、香穂子は和樹の腕の中にすっぽりと包まれていた。
「ごめん、ほんとにごめん。おれ、香穂ちゃんとオケできて嬉しいとか、この曲を香穂ちゃんの音で聴きたいとか、香穂ちゃんの寝顔かわいいとか、
香穂ちゃんのこと大好きだとか───自分の楽しいことばっかり考えて、肝心の香穂ちゃん自身のこと考えてなかった。
そのくせ香穂ちゃんのことでおれの知らないことがあるってわかったら、パニクって、取り乱して、落ち込んで。
──おれ、まだまだ子供だよな、もっとちゃんとした大人になろうって思ってたのに……」
痛いほどの腕の圧力に変わって身体を包む心地よい圧力に身を任せながら、和樹の大きな背中に手を回して、
ぽんぽんと和樹の背を優しく叩く。母親が子供をあやすように。
「おれ、なんでヴァイオリンじゃなくてトランペットなんだろ。同じ楽器だったら、もっと香穂ちゃんのこと、助けてあげられたのに」
そう呟く和樹から身体を離し、香穂子は人差し指をびしっと和樹の鼻先に突きつける。
「じゃあこうしましょう! わたしがヴァイオリン教えます。和樹先輩はわたしにトランペット教えてください」
「………それ、いい、かも…」
当分の間、2人の笑い声が保健室の中を満たしていた。
* * * * *
和樹が香穂子を抱きしめた頃、月森と土浦はうっすらと赤くなった顔で、保健室前の廊下にいた。
丸く収まった安堵感と、── 目の前の光景に目のやり場に困って、出るしかなかった、という方が大きいかもしれない。
そっと保健室の扉を閉めると、2人同時に大きな溜息を吐く。
「── ったく人騒がせな…。心配して損したぜ」
「まあ、彼女の具合がたいしたことなかったのが救いだが」
土浦は額に手を当てつつ、やれやれという風に頭を振り、月森はサイドの髪を掻き上げる。
「いつもはこっちが面食らうほどストレートなくせに、妙なところでウジウジ悩みやがって」
「──しかし、これほど大騒ぎするようなことだったんだろうか」
冷静に分析する月森の呟きに、うっ、と土浦が言葉につまり、そのまましばしの沈黙が続く。
「にしても、あの2人にはまいるぜ。周りに人がいようとお構いなしだからな」
「まったく、俺たちは何をやっているのだか」
廊下を歩きながら、ぶつくさと文句を垂れる。
「じぃさんばぁさんになっても、周りの迷惑顧みずであの調子なんだろうな」
「─────」
ふと、返答してこない月森に目をやると、俯いた月森の肩が小刻みに震えている。
「なんだよ、まだ怒ってんのか? もうあいつらのことはほっとこうぜ」
…くくっ
土浦が、怪訝な眼差しを月森に向けたとき、
「くっ、ははっ、いや、あの2人の老人姿を、想像したらっ、はははっ」
どうやら何気ない一言が月森の笑いのツボを直撃したらしく、目にうっすらと涙を浮かべ、堪えきれずに笑い出す。
それを見た土浦もあまりのバカバカしさに何だか笑いがこみ上げてくる。
犬猿の仲とも言われる2人が腹を抱えて笑い合っている光景は、しばらくの間校内の噂になった。
* * * * *
「あ、そうだ。先輩、うちのクラスの劇、見に来てくださいね」
オケ部の練習も終わり、ヴァイオリン教室まで送るという和樹と歩きながら、香穂子が言った。
「え、いいの? なんか香穂ちゃん、おれに見られるの嫌そうだったけど」
「あー、ええと、ごめんなさい。最初はすごく嫌だった── お芝居なんて小学校の発表会以来だし、役が役だけに恥ずかしくて…。
でも、やってるうちに、先輩に見てほしいな〜って…」
「うん、おれ、絶対見に行くよ。実は前からずっと楽しみだったんだ」
顔を見合わせて、微笑みあう。
「じゃ、おれはここで。練習頑張ってね」
励ます和樹に、香穂子は俯いたまま答えない。
「香穂ちゃん?」
「先輩っ! ここでちょっと待っててください」
あっけに取られた和樹を置いて、香穂子はヴァイオリン教室へと入っていった。
「先輩、帰りましょう!」
香穂子は和樹を残して、今来た道をずんずん歩いていく。
「えっ、でも、練習は!?」
ヴァイオリンケースとカバンを一緒くたに後ろ手に持った香穂子が、くるりと和樹のほうに向き直る。
「もうおしまい! 一応ちゃんと弾けるようになってるから、後は学校での練習だけで大丈夫!
教室には『お世話になりました』ってあいさつしてきちゃいました」
そう言うと、香穂子はえへへと笑う。
「それに………今日は先輩と一緒にいたい気分!」
駆け寄ってきた和樹の手の中に、ひと回り小さい香穂子の手が滑り込み、きゅっと握る。
「え……あ……うん、行こう!」
香穂子の手をぎゅっと握り返し、そのまま香穂子を引きずるように歩き出す。
「うわっ、せ、先輩っ!」
「よーし、今日はおれが何かごちそうしちゃう!」
「きゃあ、うれしい! さっき保健室でココア飲んだだけだったから、お腹ぺこぺこです〜」
ようやく和樹の歩調に合わせた香穂子が、繋いだ手を楽しそうにぶんぶん振り回す。
「香穂ちゃん、何食べたい?」
「えーと、えーと、えーと………たこ焼き!」
「おっ、いいね〜。じゃあ、公園の屋台へレッツゴー!」
2人ははしゃぎながら、公園へと向かった。