■Festival!【05】
ただ何気なく過ぎていく時間と、何かに情熱を傾けているときの時間は、流れ方が違う。
前者はゆったりとした大河のように流れ、後者は水飛沫を上げる滝のように流れ落ちていく。
今の星奏学院の生徒たちの大部分がそんなふうに感じている。
香穂子はそれをひしひしと実感しているひとりだった。
「あうぅぅぅ、あと3日かぁ………」
「でも、香穂よく頑張ってくれたよ。あとは実際の舞台で動きの確認するくらいだし。もうばっちし!」
演劇部でもある劇の監督の女子生徒に太鼓判を押され、香穂子は照れ笑いを浮かべる。
「うん、なんか最近演じるのが楽しくなってきちゃって。もしかして、わたしって女優の素質あり?」
「うわ、この子相当うぬぼれちゃってるよ」
隣にいた香穂子の友人が、香穂子の頬を指でグリグリする。
「あはは、ウソウソ。でも、今ではこの役やらせてもらって良かったと思ってるよ」
「香穂、最初はめちゃくちゃ嫌がってたもんね〜。って、時間、いいの?」
「まずっ。わたし、ちょっと行ってくるね」
香穂子は慌てて机の上に置いてあったヴァイオリンケースを掴む。
「あ、香穂! お昼ごはんは!?」
「購買寄ってなんか買ってく!」
「ちゃんと食べなきゃダメだよ!」
「うん、ありがと! じゃあね!」
風のように教室を出て行った香穂子を見送りながら、
「あの子も大変だねぇ」
「よく頑張るよね」
「あたし、真似できない…」
友人たちは呟いた。
ほどなくして、香穂子が出て行った扉に和樹が姿を現す。
「こんにちは! 練習中ごめんね」
「あ、火原先輩。香穂、今いませんけど。それにあたしたち、昼休みまで練習なんてしませんよ〜」
ぱたぱたと手を振って、香穂子の友人が答える。
「え、そうなの? じゃあ、香穂ちゃんどこ行ったか知ってる?」
「練習室ですよ。文化祭期間に入ってから毎日ずっと」
和樹は眉をひそめて、しばし考え込む。
「── じゃあ、放課後は? 遅くまでここで練習してたんでしょ?」
「いえ、香穂子の出番があるところを先に練習して、そのあと下校時刻には切り上げてましたよ〜」
「そういえば香穂、最初の頃は練習の後、ここでヴァイオリン弾いてたよね。最近見ないけど」
「ああ、ここ最近は近くのヴァイオリン教室に行ってるって聞いたような…」
それを聞いて、再び考え込む和樹。
「火原先輩? どうかしました?」
「あ、ごめん、なんでもない。─── あ、あのさ、香穂ちゃんに伝言頼める? 今日の練習、講堂のリハ室でやるからって」
「…わかりました、伝えます」
よろしくね、と言い残し、和樹は香穂子の教室を後にする。
「へぇ、いつもニコニコの火原先輩でもああいう表情するんだね」
「うん、ちょっと驚き〜」
「先輩、昼休みにもクラスの練習してると思ってたみたいだね…」
「香穂、先輩に秘密にしてたのかな?」
「…もしかして、あたしたち、まずいこと言っちゃった……?」
「きゃーっ、どうしようっ!?」
後から訪れるであろう修羅場を想像して、香穂子の友人たちは血の気の引いた顔を見合わせた。
* * * * *
気がつくと、和樹は練習室棟の前に来ていた。すでに伝言を頼んだのだから来る必要はないのに、どういうわけか足が向いてしまった。
気を取り直し、せっかくここまで来たのだから香穂子の顔を見てから教室に戻ろうと、
足早に扉にはめ込まれた細長いガラス窓をひとつひとつ覗き込んでいく。
一番奥の個室を覗いた時、和樹は息を呑んだ。
中に見えるのは2人。ひとりは香穂子、もうひとりは── 月森の姿だった。
もしも2人が和やかに笑いあっていれば、おそらく和樹は怒りに任せてその扉を開いていただろう。
しかし、今目の前に見える2人は、額にうっすら汗を浮かべ、真剣な眼差しで弓を動かしている。
香穂子の演奏を止めた月森が楽譜を指差し、自分の楽器を弾いてみせる。その手元を凝視していた香穂子が再び演奏を始める。
それを繰り返し──。
防音設備が整った練習室から音は漏れてこないが、表情から2人の真剣さは十分伝わってくる。
和樹は下唇をぎゅっと噛みしめると、その場を後にした。
* * * * *
「どうしたの、火原?」
午後の授業も終了し帰り支度をしている時、名前を呼ばれて振り返ると、そこにはクラスメイトである柚木の笑顔があった。
「ああ、柚木……」
「何か心配事でも? お昼から様子が変だったけど」
「あ…、あのさ──」
昼休みに見た練習室の光景を思い出す。
月森への嫉妬が全くなかった訳ではないが、それよりも、扱う楽器が違う自分が香穂子の力になることができない無力感の方が大きかった。
いつも音楽に触れ、授業の一環としてレッスンも受けられる音楽科の自分とは違い、普通科の香穂子は授業中に楽器に触ることすらできないのだから、
それ以外の時間に練習するしかない。ましてや、音楽科の生徒ばかりのオケ部の中で同等の演奏をしようと思えば、
責任感が強く負けず嫌いな香穂子のことだ、無理をしてでも相当量の練習をこなすだろう。その上、クラスの練習もある。
お祭り騒ぎに浮かれて、そんな簡単なことに気づかなかった自分に歯噛みする。
文化祭のステージで演奏する楽曲を3年生が中心になって選んだ時、自分さえ気付いていれば、
香穂子の負担をもっと少ないものにできたはずなのに。練習中に香穂子が眠ってしまった時、香穂子の寝顔の愛らしさにばかり目が行って、
他の大事なものを見ていなかった自分が情けなかった。
全てが自分の非のような気がしてきて、どんどん自己嫌悪の深みにはまっていく。
「火原?」
「……え? あ、ごめん、何でもないから、うん。──おれ、今から部活だから」
怪訝な表情の柚木が何か言おうと口を開いた時、教室の扉がガラッと開いた。
「どーも、報道部で〜す! 文化祭のクラス演目の取材させてくださ〜い!」
元気な声で入ってきたのは、普通科2年、報道部所属の天羽菜美だった。仕事(?)柄もあるが、もともと何事にも臆することのない彼女は
科の違い、学年の違いもお構いなしに踏み込んでくる。その辺りは和樹や香穂子に通ずる所もあるのだが。そして何より、コンクールを通して、
彼女と香穂子は親友とも言える間柄になっていた。
「あれ〜? 火原さん、行かなくていいんですかぁ?」
和樹と柚木の姿を見つけた天羽が、自慢のカメラを片手に駆け寄ってくる。
「オケ部になら今から行くところだけど?」
「は? そうじゃなくて! 保健室ですよ、保健室! あれっ、知らなかったんですか!? 香穂、午後の体育の授業でぶっ倒れて、
保健室に担ぎ込まれたんですってば! おっかしいなぁ、誰か知らせに来たと思ってたんだけどなー」
天羽の言葉が終わる前に、和樹は教室を飛び出していた。