■Festival!【04】 火原

「じゃ、そろそろ帰ろっか。もう遅いし」
 和樹は香穂子から渡された制服の上着に袖を通しながら、香穂子を促す。
「きゃーっ、もうこんな時間っ!」
 慌てて確認した時計の針は、既に7時を回っている。
「先輩! 電車の時間っ!」
「大丈夫、まだまだこの時間は電車あるから」
 和樹は余裕の笑みを香穂子に向けると、香穂子は申し訳なさそうに顔の前で手を合わせ、片目を瞑りながら、ごめんなさい、と一言。
「いいっていいって。あ、香穂ちゃん、荷物そこに置いてあるけど、そのまま帰る?」
「はい?」
 意味が理解できず聞き返す。和樹は自分のシャツの胸元をつまんでパタパタしながら、
「服、服。着がえるならおれ、外出てるけど」
 香穂子は、あ、と自分の姿を見回し、一呼吸置いてにこっと笑う。
「めんどくさいから、このまま帰りますっ」
「じゃあ行こっか」
 自分のカバンと香穂子のカバン、そして香穂子のヴァイオリンケースをまとめて持ち上げる。
「あ、先輩っ」
 カバンを取ろうと、和樹のほうに手を伸ばしかけた香穂子を制止して、
「ダーメ。香穂ちゃん疲れてるんだから、これくらいおれにさせてよ」
「でも……じゃ、お言葉に甘えちゃおっかな」
「うん、もっとどんどん甘えてよ。おれ、頑張っちゃうから!」
 俄然張り切る和樹に、思わず香穂子も笑ってしまった。
「あ、その前に、1本電話してきていいですか?」
「じゃ、その間にここの鍵返してくるから、正門前で待っててくれる?」
「はいっ」
 いまだに携帯電話を持たない香穂子は、元気に返事をすると和樹が持っていた自分のカバンから財布を取り出し、 一足先に音楽室を出て電話コーナーに向かう。
 その姿を見送った後、和樹は音楽室の戸締りをし、鍵についているキーホルダーを指でくるくる回しながら、 鼻歌交じりで職員室へと歩いていった。

*  *  *  *  *

 久しぶりに一緒の帰り道。
 特に会話が弾んだわけではない。けれども、繋いだ手から伝わるお互いの温もりが、その沈黙を心地よいものにしていた。
「あー、もう着いちゃった」
 残念そうなトーンで呟く和樹が見上げるのは香穂子の家。繋がれた手が名残惜しそうに離される。
 和樹は、はい、とカバンとヴァイオリンケースを差し出し、
「今日はゆっくり休んでね。で、明日も頑張ろ!」と、身体の前でガッツポーズをする。
「はい、しっかり休んで、明日は寝ないように頑張ります!」
 同じポーズを返す香穂子に、思わず2人同時に吹き出してしまう。
 じゃあまた明日、と片手を振り、歩き出した時、玄関先に荷物を置いた香穂子が和樹の元に走り寄ってきた。
「ど、どうしたの、香穂ちゃん!?」
「あのね、先輩の匂いに包まれてたから、素敵な夢が見れました。ありがとうございましたっ」
 ぺこり、とお辞儀をひとつ。顔を上げ、えへへっと笑うと、くるりと向きを変え家の方へ走っていく香穂子。 途中走りながら荷物を拾い上げ、玄関の扉の中へと姿を消していった。
 ぽかんと口を開け、もう見えなくなった香穂子の後ろ姿を今だ見つめていた和樹は、ふと我に返ると後頭部をガシガシ掻きながら家路へと向かう。 その顔は、あまりの幸せな気分に真っ赤に染まっていた。

 それから数分後、同じ扉から出て来た香穂子が、ヴァイオリンケースを大事そうに抱え、和樹の向かったのとは逆の方向へと走っていった。

*  *  *  *  *

 静まり返った住宅街を足早に進む人影がひとつ。
 ヴァイオリンケースを手にした香穂子だった。
「うぅ、さむっ」
 秋も深まったこの時期、夜になれば気温はぐっと下がる。
「早く帰って、お風呂であったまろっと」
 ずずっと軽く鼻をすすり、香穂子は家路を急ぐ。昼間の温もりを飲み込んだ闇は、辺りの音までも飲み込み、今は香穂子の足音しか聞こえない。
「!!」
 煌々と辺りを照らす街灯の下で、何かに気付いた香穂子の足がぴたりと止まる。後から聞こえる足音。香穂子の心臓の鼓動が早まる。
 ヴァイオリンケースを胸に抱え、自分を落ち着かせるようにすぅーっと冷たい空気を吸い込み、全速力で走り出そうとした時──
「おい、香穂か?」
 駆け出そうとしたポーズのまま、ぐるりと身体ごと振り返る。
「なんだ、やっぱり香穂じゃないか」
 明かりの中に入ってきたのは、香穂子がよく知っている男だった。
 土浦梁太郎── 香穂子と同じ普通科からコンクールに参加したピアニスト。母親がピアノ教師ということもあってか、 幼い頃からショパンを弾きこなす腕前の持ち主ではあるが、現在はサッカー部の主力選手として活躍している。
 香穂子がコンクールに参加せざるを得なかった経緯を始めから知っており、その上で良き相談相手となっていた。 最初は音楽科への反発と同じ科としての仲間意識からであった。『女は苦手』な土浦にとってなぜか普通に話せる香穂子に、 次第にそれは恋心に変わっていった。
 しかし、和樹のことしか目に入っていない香穂子を見ていれば、土浦はその想いを封じ込めるしかなかったのだが。
「何やってんだ、こんなところで」
「えーと、怪しい人から逃げるため、ダッシュしようと思ったとこ」
「お前なぁ、俺は変質者扱いかよ……って、そうじゃなくて」
 土浦は、香穂子の抱えているヴァイオリンケースに視線を落とす。
「あ、これ? ちょいとそこまで練習に♪」
 土浦の視線に気づいた香穂子が、ひょいとケースを持ち上げ、へへへと笑いながらおどけて答える。
「こんな時間にか? もう10時過ぎてるぞ」
 怪訝そうに眉をひそめる土浦。その様子に、香穂子は諦めたように口を開く。
「文化祭準備始まってからしばらくは、部活が終わった後教室で練習してたんだけど、先生に早く帰れ〜って追い出されちゃって。 家には防音室なんてないし。で、月森が昔この近くのヴァイオリン教室に通ってたって言ってたのを思い出して、 そこを紹介してもらって弾かせてもらいに行ってるんだ♪」
 香穂子の口から出たライバルの名前に、土浦は僅かに身体をこわばらせる。
「今日なんか、部活中に寝ちゃってさ〜。無理言って教室使わせてもらってるのに遅れちゃったよ〜」
 恥ずかしそうにがしがしと後頭部を掻くしぐさと口調が、驚くほど彼女の恋人のそれに似ていることに、土浦は気づいていた。
「そんなに練習しなきゃならないほど難しい曲やってるのか?」
「そうじゃないんだけど……だって、1曲が長いんだもん」
 その言葉に、土浦がプッと吹き出す。
「そりゃそうだ、コンクールの1分半とは大違いだよな」
「でしょでしょ? その長いのが4曲で、そのうちソロのある曲が1曲、あとは弦4本のアンサンブルが1曲」
 香穂子は指を折りながら数え上げていく。
「オケ部って鬼だな。半人前のお前にそこまで要求してるのか」
 くくくっと笑いながら、土浦は香穂子をからかう。
「うぅっ、し、失礼なっ。…まあ、半人前ってのは認めるけどね」
 えへへっと笑い、頬をぽりぽりと掻く。
「悪い悪い、冗談だよ。お前の腕前はちゃんとわかってるさ」
 手のひらでぽんぽんと香穂子の頭を軽く叩きながら、香穂子の反応をしばし楽しむ。
「さあ、家まで送ってやる。行こうぜ」
「え、でも悪いよ。土浦くんも用事の途中だったんじゃないの?」
 ロードワーク中とも見えるスウェットの上下にスニーカーといういでたちだが、その手にはビニールのレジ袋が握られている。
「ああ、そこのコンビニまでちょっとな。こんな時間になって姉貴が『アイス食べたい』とかぬかしやがってな。 ほんと人使い荒くて参るぜ。こんな寒いのに、まったく女ってのは──」
「そりゃあ悪うございました。でも、あったかい部屋で食べる冷たいアイスは絶品なんだよ〜」
 びしっと立てた人差し指を鼻先に突きつけられ、思わず土浦の口元に笑みがこぼれる。
「はははっ、んじゃ、今度試してみるかな」
「うん、ぜひぜひ♪」
 静かな住宅街に、楽しそうな笑い声が響いた。

 このまま時間が止まってしまえばいい── そんな土浦の願いも虚しく、あっという間に香穂子の家に着いてしまった。
「練習もいいが、あんまり無理すんなよ。クラスの方も、なんか派手なことやらかすんだろ?」
「うわ、バレバレ? うん、まあね〜」
 香穂子は肩をちょっとすくめて見せる。
「でも、どっちもいい加減にはしたくないし── 特にオケの方は……先輩の高校生活最後の舞台だから、いい演奏がしたい。 ──あ、今日会ったこと、内緒にしといてね。みんなに心配かけたくないから」
 『みんなに』じゃなくて『先輩に』だろ───土浦は彼女の心の中の全てを占めている『先輩』の顔を思い浮かべ、苦笑する。
「祭なんだから、もっと気楽にやれよ。火原先輩みたいにな」
「あはは、そうだね。あ、送ってくれてありがと。ちょっと心細かったから助かったよ」
 じゃあね、おやすみ〜と手を振る香穂子に片手を上げて答えると、土浦は踵を返した。

〜つづく〜