■Festival!【03】
「すいませ〜ん、遅くなりましたぁ………」
音楽室の後の扉が開き、弱々しく詫びの言葉を呟きながら入ってきたのは、見るからにボロボロの様子の香穂子だった。
服装は制服ではなくジャージ。明らかにクラスの練習を抜け出してきたという感じである。
「うっわ、日野ちゃんどうしたの!?」
指揮者のオケ部部長が香穂子の姿に驚いて声をかける。ほぼ勢ぞろいしていた他の部員たちは目を丸くして、言葉もなく香穂子を見つめている。
香穂子はさして重くもないヴァイオリンケースを重そうに抱え、足を引きずりながら歩いていく。
「か、香穂ちゃんっ!」
「あ、大丈夫大丈夫……ただの筋肉痛で……チューニングしてきますー……」
駆け寄ろうとした和樹を、力なく上げた手で制止すると、香穂子は音楽準備室へ姿を消した。
しばらくの間、誰も動かず、誰も一言も発せず、時間が止まったようだった。
「何やったらあんなにボロボロになれんだ? ───じゃ、日野ちゃん来るまでに、今のところもう一回!」
一足先に我に返った部長がタクトで譜面台を叩き、部員たちの準備を促す。
「ごめん、おれ、ちょっと見てくる」
椅子を倒しかねない勢いで立ち上がった和樹が駆け出そうとした時、ヴァイオリンと楽譜を持った香穂子が準備室から出て来た。
「お待たせしましたぁ…よろしくお願いしますぅ……」
相変わらず弱々しく呟くと、空席になっていた椅子にストンと座り、譜面を置くとページをめくる。
「じゃ、第1ヴァイオリンが揃ったところで、始めから行くぞ」
部長の手の動きで一斉に楽器が構えられ、タクトが振り下ろされると音楽室には音が満ち溢れた。
「今のところ、ヴァイオリン、音が乱れてるぞ。ひとりずつ弾いてみ」
指揮者に促され、ヴァイオリン奏者がひとりずつ旋律を奏でる。香穂子が弾いた後──
「それだ。日野ちゃん、音がフラット気味。それに、主旋律なんだからもうちょっと感情込めて歌わせて」
部長の指摘に、すみません、と弱々しく答える香穂子。
「おい、香穂ちゃん疲れてるんだから、勘弁してやってよ」
「火原は3小節前のアフタクト先走りすぎ。日野ちゃんが心配なのはわかるが、周りの音聞いて吹け」
香穂子に助け船を出したつもりが、墓穴を掘ってしまった和樹に、隣のトランペット奏者がすかさずミュートを取り付け、
クイズ番組でよくある『残念!不正解!』の時に流れる効果音のような情けないメロディを吹く。瞬間、部員たちからどっと笑いが湧き起こる。
「気を引き締めて、頭から行くぞー」
笑いを噛み殺しながら頭上でタクトを振り回す部長の声を聞き、次々と楽器を構えていく部員たちとは裏腹に、
香穂子はヴァイオリンを支えにして俯いたまま動かない。
和樹の席は、いつもなら気持ち良さそうに弓を動かす香穂子の横顔がばっちり見える位置なのだが、
今は髪の毛がその愛らしい横顔を隠している。
不審に思った香穂子の隣の席のヴァイオリニストが香穂子の顔を覗き込むと──
「部長〜、日野さん、寝てちゃってますぅ」
音楽室は再び笑いに飲み込まれた。
* * * * *
しんと静まり返った音楽準備室。
この部屋の主である音楽教師・金澤も、戸締り頼むな、と出て行ってからしばらく経つ。
出て行く時に、寝てるからって襲うなよ、と余計な一言を付け加えることも忘れず。
そんなこと言うから意識しちゃうじゃないか───
照れ臭さに頬をほんのりと染めながら和樹が目をやった先には、ソファーに横になりすーすーと寝息を立てて熟睡している香穂子の姿。
香穂子の身体の上には、和樹の制服の上着が布団代わりに掛けてある。
ふぅ、と一息吐くと、和樹はソファーのそばに置いてあった椅子に静かに腰を下ろす。
横向きに眠っている香穂子の顔が良く見えるように椅子の位置を調節し、腿の上に肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せる。
「へへっ、香穂ちゃん可愛い〜」
小さく呟きつつ、まじまじと香穂子の寝顔を見つめる和樹。いつもなら見ていて楽しくなるほどくるくると変わる豊かな表情を見せるその顔は、
今は穏やかに目が閉じられている。そして和樹の目に留まったのは── 規則正しい寝息と共に微かに動く、少し開いた唇。
色つきリップをつけているわけでもなく、ましてや口紅をつけているわけでもないのにほのかに紅く色づいている香穂子の唇を見ているうちに、
和樹の顔はどんどん香穂子に吸い寄せられるように近づいていく。
「キスしたら、目、覚めちゃうかな」
思わず呟いた自分の声に驚いて、我に返る。
「あー、ダメダメ、眠ってるのにそんなことしちゃ、男として卑怯だよな、うん ──でも…」
そんなことを幾度か繰り返し、和樹の心の葛藤が緊張感として香穂子に伝わったのか、うーん、と一声、香穂子が目を開けた。
「おっはよ、香穂ちゃん♥ よく眠れた?」
「──んぬぁっ、か、か、か、和樹先輩っ!?」
目覚めたとたん和樹の笑顔のドアップが目に飛び込んできて、狼狽した香穂子は妙な声を発しつつ跳ね起きた。起きたときに無意識に胸元に引き寄せられた
和樹の制服が、香穂子の腕の中でクシャクシャになっている。
「れ、練習は!?」
「もうとっくに終わっちゃったよ。香穂ちゃん、全体練習の途中で寝ちゃったんだよ」
「えっ、あっ、………もしかして──」
香穂子は顔を赤く染めて、上目遣いにおずおずと尋ねてくる。和樹が笑顔の次に好きな表情である。
「そ、おれがここまで運んできた。お姫様だっこで♥ だって、香穂ちゃんのことそうできるのって、おれしかいないでしょ?」
照れる香穂子が可愛くて、もっと照れさせてやろうと和樹もつい意地悪な言い方をしてしまう。
「……重かっ…た?」
「うん」
耳まで真っ赤になった香穂子は、熱くなっている頬を両手で挟んで蹲る。
「うそうそ、女の子ってこんなに軽いんだなって、びっくりした」
「ほんとに?」
「もちろん!」
そう言って和樹は、他の人には見せない特上の笑顔を香穂子に向ける。
「あ、そうそう、香穂ちゃんのヴァイオリンは弦の子に頼んで片付けてもらったし、
クラスの方は今日はもう練習終わってみんな帰っちゃったみたい」
えっ、と小さな声をあげて考え込む香穂子。
「── もしかして先輩、うちのクラスに行ってみてくれた、とか?」
「そうだよ。あれ? どうかした?」
香穂子は思い切り否定するように、ぶんぶんと首を横に振る。
「……みんなに迷惑かけちゃったな…先輩にも…」
和樹やオケ部の部員たちを気遣いつつ、何か心配そうな表情の香穂子の様子に何かが引っかかる。
「大丈夫だよ。あの大音量の中でよく寝てられるなって、みんな感心してた」
「うわっ、恥ずかしいっ」
思わず腕の中の上着に顔を埋めた香穂子が、はたと気付いて、手元とシャツ姿の和樹を交互に見る。
「──先輩、上着!? ごめんなさい! こんなクシャクシャにしちゃって……っ」
「いいって。帰ってアイロンかければすむし。それに──
香穂ちゃんに風邪引かせちゃったら、おれ、つらいからさ」
キャー、どうしよう、シワ取れないー、などとひとりで大騒ぎしながら、香穂子はシワを伸ばそうと必死で上着を撫で付ける。
そんな香穂子の姿を、和樹はいとおしそうに眺める。最後の殺し文句(と自分で思っている言葉)が香穂子の耳に届いていないことを心の中で残念がりながら。