■Festival!【02】 火原

 翌日。
「はい、火原。お待ちかねのものだよ」
「サンキュ、柚木。…どれどれ、へぇ、みんないろんなことやるんだな〜」
 柚木から全クラスの出し物一覧表を渡された一樹は『2-2』の項目を目で探した。
「日野さんのクラスは、劇をやるみたいだね」
「あ、ほんとだ。うわっ、『ロミオとジュリエット』! 香穂ちゃん、何の役かな」
「たぶんそう言うだろうと思って、一応持ってきてみたけど」
 もう一枚渡された紙は、演目企画書をコピーしたものだった。
「あ、香穂ちゃんの名前がある…けど『配役は当日のお楽しみ』ぃ!? これじゃわかんないじゃん」
「でも──上から2番目に名前があるということは………?」
「あー! もしかしてジュリエット!?」
「…の可能性が高いようだね」
「そっかぁ。香穂ちゃんのジュリエット、綺麗だろうな〜。あ、でも他のヤツらには見せたくないな」
 乙女チックに両手を握り合わせうっとりしたかと思うと、拳を握り締め歯噛みする。 ころころ変化する表情で色々と想像を膨らませている和樹に、柚木は怪訝な眼差しを送る。
「火原……日野さんから直接聞いてないの? あれだけ毎日一緒にいるのに?」
「そうなんだ。この前聞いてみたんだけど、ごまかされちゃってさ」
 ふーん、と唸ると柚木は口元に緩く握った拳を当てるお決まりのポーズで、眉を顰めて何かを考え込んでいる。 彼の取り巻きの女子生徒たちが見たら、『そういう柚木サマのお顔も素敵っ♥』という黄色い声が聞こえてきそうな表情で。
「じゃあおれ、香穂ちゃんに『ジュリエット頑張れ』って言ってくる!」
「あ、火原、待って」
 駆け出そうとした和樹を、柚木が引き止める。
「えっ、なんで?」
「君がプレッシャーをかけたら、日野さんがかわいそうだよ。 それに企画書にも詳しいことを書かないくらいだから、クラス内の極秘事項なんじゃないかな。 …本番当日に君に見せて驚かそうとしているのかもしれないし──今は何も言わずに、そっと見守ってあげたら?」
 取り巻きたちが失神しそうな笑顔がこぼれる。
「あ、そっか…やっぱおれってダメだな。それに引き替え柚木の気配りはすごいよな、尊敬するよ」
「そんなことはないよ。ただ、僕は君より冷静だっただけだから」
 頬にかかった髪を、優雅に後に掻き流す。
「えーっ、おれ、そんなに興奮してた!?」
「ああ、とてもね。君の頭の中には、日野さんのことしかないみたいだね」
「へへへ、そうかも」
 あっさり認めて頬を染める和樹に、柚木はふふっと笑いをこぼす。
「さ、1時間目は体育だよ。行かなくていいのかい」
「やっべ。あ、柚木は今日も見学? じゃ、おれ、行ってくる!」
 ジャージを引っ掴み慌てて出て行った和樹を見送る柚木の顔は、相変わらず微笑みを湛えていた。

*  *  *  *  *

 音楽科に所属する生徒たちは、ほとんどの者がいつも音楽のことを考え、少しの時間でも自分の技術を磨こうと練習に励む。
 当然、たった1時間しかない昼休みでも、防音設備の整った練習室はほぼ満員状態である。
 ひとりの男子生徒がヴァイオリンケースを片手に、練習室の中に入る。手際よく楽器を準備すると、備えられているグランドピアノの蓋を開け、 鍵盤をひとつ叩く。その音を身体に刻みつけるように耳を澄まし、おもむろにヴァイオリンのチューニングを始める。
 彼の名は月森蓮。音楽科2年、ヴァイオリン専攻である。音楽一家に生まれ、そのずば抜けた技術を持った演奏に、誰もが憧れ、妬み、羨んだ。 その無表情ではあるが確かな技術から生まれる音と、誰にでも──自分にも厳しい態度から、『氷のプリンス』などと呼ばれている。
 しかし、コンクールのセレクションを経ていくうち、彼の音が変わったと評判になった。たまにではあるが笑顔も見せるようになった。 彼もまた、香穂子に影響され、香穂子に想いを寄せるひとりになったのである。
 楽譜を開き、ヴァイオリンを構え、不意に目を上げた先には──扉にはめられた細いガラスと廊下を通して見える向かい側の個室で 赤味の強い長い髪が揺れるのが見えた。
「………香穂子……?」
 香穂子はしばらく弾いたかと思うと弓を下ろし、楽譜をじっと見つめ、その間左手の指は音符をなぞるように弦を押さえている。 再び弾き始めると、またすぐに下ろし、確認するように楽譜を凝視する。
 その繰り返しをしばらく見つめていた月森はピアノの上にヴァイオリンをそっと置くと、廊下に出て向かいの練習室の扉をノックする。
 香穂子はてててっと扉に駆け寄り、開いた扉からひょこっと顔を出す。
「あれっ、月森ぃ、どうしたの?」
「いや、向かいの練習室に入ったら、君の姿が見えたから。昼にここで君に会うのは珍しいし」
「放課後はクラスの練習で忙しくて、あんまりオケ部に顔出せなくて。迷惑かけちゃ悪いから、ちょっとでも練習しとかなきゃね」
「そうか、大変だな。…で、練習のほうは行き詰まっているようだが」
「あ、バレた?」
 香穂子は照れ臭そうにぺろっと舌を出す。月森は僅かに顔を赤らめる。彼女の自然体のしぐさのひとつひとつが、男たちの心をくすぐっていることに、 香穂子は全く気づいていないようだ。
「必要なら、なにかアドバイスをするが?」
「ううん、だいじょぶ。単に練習不足なだけだから」
「…そうか。練習の邪魔をしてすまなかった」
 肩を落として自分の練習室へ戻ろうとする月森に、
「あ、月森、ひとつお願いがあるんだけど───」
 月森はふっと微笑むと、香穂子の練習室へ入っていった。

*  *  *  *  *

「こんにちは! …あれ、今日は人数少ないね」
 オーケストラ部の部室兼練習場である音楽室に入ってきたのは、オケ部OBで付属大学3年、学内コンクール優勝経験者の王崎信武である。 眼鏡の奥の瞳は、いつもやさしく輝き、その親身さと適切な助言で、部員たちからは絶大な信頼を寄せられている。
 音楽室の中はいつもなら50人ほどの部員と、それぞれが手にする楽器で賑やかなはずが、いまは20人ほどしかいない。 文化祭の準備期間が始まってからは、みんなクラスと部活の掛け持ちで忙しく、下校時間1時間前に80%が揃えばいいほう、という状態になっている。
「そうなんすよ〜、合わせても音がスカスカで。ある程度の人数集まるまで、個人練習ばっか」
 王崎の姿を目にした和樹が、室内を見回す王崎の元に駆け寄ってくる。
「まあ、この時期はいつもこんなものだったから、仕方ないね。ひとりひとり、しっかり練習しておくしか」
「久しぶりにドヴォルザークやるんですよ。早くみんなで合わせたいよなー」
 和樹はつまらなそうに、手にしたトランペットのバルブをパコパコ言わせている。
「お祭り騒ぎ大好きな火原くんにはツライ状態だね」
「でも、みんなだいたい譜読みはできてるみたいだし、合わせ始めたら早いとは思うんですけどね」
「そうだね。あ、きみはクラスのほうはやらなくていいのかい?」
「おれんとこは模擬店+生バンドだからラスト3日からの準備でいいし、部活やってないやつが主に動いてくれてますからね。 おれはほとんど当日だけの参加でいいみたいだし」
「ははは、それは気楽でいいね── そういえば、香穂子ちゃんの姿も見えないね。弦のパート練習…
───ってわけでもなさそうだね」
 室内を見回して、ヴァイオリンやヴィオラを持っている部員の姿を認めると、王崎はそう言葉を続けた。
「あ……彼女もクラスの方が忙しいらしくて………お昼もクラスで練習してるみたいだし、放課後もここに顔出すのはずいぶん遅くなってからだし、 オケ部終わってもまた教室に戻っちゃうし。まともに話せるのは朝だけなんすよ」
「は…ははは、きみが一番ツライことはそのことなんだね」
 話を聞いてくれる相手を見つけて嬉々として愚痴をこぼしまくる和樹の様子に、王崎は苦笑する。
 この王崎もコンクール中は恋敵のひとりだったのだが、和樹にそれを気にする素振りは微塵もない。
「そんなに練習漬けだなんて、香穂子ちゃんのクラスの出し物は何なのかな?」
「あー、『ロミオとジュリエット』のお芝居やるらしいんだけど、何にも教えてくれないんですよ。 おれは、たぶんジュリエット役じゃないかと思って、今からもうワクワクで」
「へぇ、それは楽しみだね。時間とか分かったらおれにも教えてくれるかな」
「プログラムできたら、先輩用に1部取っときますよ」
「よろしくね、火原くん。じゃあおれは弦の人たち集めて練習見てこようかな」
「はーい、お願いしまーす。あ、1時間後に集まった人間だけで合わせるんで、よろしくです!」
「わかった、じゃあまた後で」
 弦楽器を手にした部員達を引き連れて音楽室を出て行く王崎を見届けると、和樹は自分の譜面台に戻り、ちょっと唇を湿すとマウスピースを口に当てた。

〜つづく〜