■Jealousy【01】 火原

 秋。
 こんながさつで能天気な俺でも、ちょっとセンチメンタルな気分にさせてしまう。
 これまでの『秋』といえば、食欲の秋、スポーツの秋、だった。
 それが、今年の秋はなんだか違う。
 ─── そう、彼女と出逢ってしまったから。

「おーい、火原ーっ!」
 昼食用のカツサンドを入手すべく大急ぎで購買に向かっていた俺は、後ろから大声で名前を呼ばれて振り返る。 声の主は、同じ3年ではあるが、音楽科の俺とは違い、普通科に所属する長柄ってヤツ。
 俺が通う【星奏学院】には、普通科と音楽科の二つがあり、校舎も離れているせいか、あまり交流がない。 おまけに制服まで違っている。
 ま、俺はそんなこと、あんまり気にしないタチだから、普通科の友達もたくさんいるけど。
 それに普通科には、彼女がいる。学年は違うけど、春に開催された音楽コンクールに一緒に出場し、 コンクールが終わったときには、一番大切な人に変わっていた。
 彼女の名前は── 日野香穂子。
 コンクール出場者に選ばれるまで、ヴァイオリンの演奏どころか触ったこともなかったというのに、 その腕はメキメキ上達して、終わってみれば総合優勝。
 だって、毎日練習がんばってたもんね、香穂ちゃん。うまくなって当然だよ。
 それに何より、彼女の音色には俺を惹きつけるものがあって・・・。コンクールが終わったあと、 彼女の弾くヴァイオリンの音が聞こえてきた、俺の耳にだけ。彼女の元に駆けつけた俺に、彼女は弾いてくれた。
 俺だけのために── 『愛のあいさつ』を。
 そして、『ヴァイオリン・ロマンス』のこともあってか、俺たちのことは学校中で噂になった、らしい。

「おい、火原、聞いてんのか?」
 幸せな回想に浸っていた俺を、長柄の声が現実に引き戻した。
「あ、ご、ごめん。で、何?」
「『何?』じゃねぇよ。おまえ、今、鼻の下伸びまくり」
 そう言うと、長柄は大きく溜息をつく。
「ま〜た日野ちゃんのことでも考えてたんだろ。お前ってわかりやすいよな〜」
「うるせぇ。うらやましかったら、お前も早く彼女作れよな」
 俺は長柄に向かって言い放って、ニカッと笑ってやる。
「うわ、そういうこと言うか。お前、今に痛い目見・・・っと、いや、何でもない」
 ??? 『痛い目』?
「おい、何だよ、『痛い目』ってさ」
「は? 俺、そんなこと言ったか? お前の聞き違い聞き違い」
 長柄はツッコミを入れる俺をよそに、すっとぼける。
「いや、絶対言った! 俺が香穂ちゃんのこと考えたら、何で痛い目見るんだよ!」
「さ〜な。ところで今日、昼バス、どうする?」
 さらに食い下がる俺を完全に無視して、話題を変える長柄。
「あ、わりぃ。今日は香穂ちゃんとお昼食べるんだ」
 思わず香穂ちゃんのことを思い浮かべ、照れ臭さに頭をポリポリ掻く。
「・・・お前、顔赤いぞ。ほんっとに日野ちゃんにまいっちゃってんだな。そんな毎日一緒だと飽きねぇか?」
「そんなことないよ! 朝の香穂ちゃんも、昼の香穂ちゃんも、夕方の香穂ちゃんも、休日の香穂ちゃんも全部いいんだからーっ!」
 思わず力がこもってしまう俺。
「かーっ、お前、声でかすぎっ。もう付き合ってらんねー」
 そう言うと、長柄はくるりと踵を返し去っていく。
 はたと我に返った俺が辺りを見回すと・・・生徒たちでごった返しているはずのエントランスは、 いつの間にか俺を中心とした半径3メートル以内には誰もおらず、遠巻きに俺を見つめる生徒たちはくすくす笑っている。 うあ、俺、かっこ悪りぃ・・・。
 あまりのバツの悪さにがしがしと頭を掻いていると、ふいに長柄が振り返り、ガッツポーズのように左腕を上げた。 そして、右手の人差し指で左腕── 正確には左腕にはめた腕時計── を指す。
 やばいっ、香穂ちゃん、待ちくたびれてるかもっ!
 そのジェスチャーの意味に気づいた俺は、慌てて購買に向かって駆け出した。
 ── そして、去りながら長柄がニヤリと笑ったことを、俺は、知らない。

*  *  *  *  *

 エントランスで長柄に捕まっていた間に、俺の大好きなカツサンドは売り切れ。
 『大好きなカツサンドと、大好きな香穂ちゃん』っていうお昼が、この上もない幸せなのに。
 心の中で、長柄に向かって舌打ちしつつ、仕方なく残っていた焼きそばパンとメロンパン、コーヒー牛乳を買い込み、 屋上を目指して階段を駆け上がる。
 中学時代、短距離の選手として頑張ってた俺だけど、空きっ腹に階段ダッシュはさすがにキツイ。
 でも、上がりきった先には── 香穂ちゃんが待ってるから、俺、頑張れる!
 ゼイゼイ言いながらも、屋上へ続く重い扉を開くと───。
 手摺りに寄りかかり、空を眺めている一人の少女。どこにいても、周りにどんなにたくさん人がいても、見間違えることのない彼女の後ろ姿。
 声をかけようとしたとき、不意に吹いてきた秋のさわやかな風に、俺はドキリとした。 抱きしめたら折れそうなほど華奢な彼女の背中で、少し赤味の強い彼女の髪が、やわらかな秋の日差しにキラキラ輝いてさらりとなびいている。
 それがあんまり綺麗だったから、周りの風景も目に入らず、彼女の後ろ姿に見とれてしまっていた。
 どのくらいそうしていたのかわからないけど、俺の視線に気づいたのか、彼女が振り返る。
 意地悪な風が舞い上げる髪を、あの心を揺さぶる音色を奏でる手で押さえつつ。
 そのしぐさがまた女の子らしくて、俺のドキドキはどんどん高まっていく。
 ── あ、えっと、その、ドキドキしたのは、香穂ちゃんが振り返るとき、意地悪な風は香穂ちゃんの髪だけじゃなくて、 スカートまで舞い上げそうになったから、っていうのは香穂ちゃんには絶対に秘密だけど。
 振り向いた彼女は、一瞬うれしそうな顔をした後、ぷぅっと頬を膨らませる。
「先輩、遅〜いっ!」
「ご、ごめん、エントランスで長柄に捕まっちゃって・・・」
 そう俺が状況説明、というか言い訳をすると、彼女の顔は満面の笑みに変わる。
「わたし、お腹ペコペコ! ご飯食べましょ♪」と、楽しそうにお弁当の包みを広げ始める。
 香穂ちゃんのくるくる変わる表情は本当に豊かで、にこっとされたら見ているほうもつられて笑ってしまうほど。 そんな彼女が本当にいとおしくて、今すぐにでも引き寄せて、ギュッと抱きしめてしまいたい。 それができない俺って、意気地なし? これじゃ長柄たちにからかわれても仕方ないな。
 悪友のことを思い出したとき、ふと思い出す。あの『痛い目』って何だったんだろう。
「先輩、どうかしました? なんか怖い顔しちゃって」
 香穂ちゃんに言われて、少し眉をひそめていたことに気付く。
 慌てて「何でもないよ」と否定するが、香穂ちゃんは怪訝な表情。あ、そんな顔も可愛い!
 あー、ダメだ。俺、もう午後の授業、集中できそうにありません。

 お腹も満足して、そろそろ教室に戻ろうかと並んで歩き始めた時、「あ、そうそう、先輩」と彼女が切り出した。
「今日、一緒に帰れないんですけど」
「えっ!?」
 なんか俺、マズイこと言ったかな? もしかして、今日のお昼の遅刻を怒ってる!?
 オロオロしてる俺に気付いたのか、香穂ちゃんは否定の意味で顔の前でパタパタと手を振りながら、
「あ、いえ、違います、違います。修学旅行の自由行動の予定を立てようって、菜美に誘われちゃって」
「なんだ〜。香穂ちゃん、お昼の遅刻で怒っちゃってるのかと思ってドキドキしちゃったよー」
「やだなー、先輩。そんなことくらいで怒ったりなんかしませんよぉ」
 あー、よかった。そうか、2年生はこの時期、修学旅行なんだ。
 って、えーーーっ、修学旅行中、香穂ちゃんに会えない日が続くのかーーーっ!?

〜つづく〜