■Green Flash【前編】 土浦

 ── よりによって、こんな時に合宿なんて。
 頬杖をついてぼんやりと眺める車窓。
 外を流れる真冬の景色はどことなく色を失って寒々しく、もたれかかった金属の窓枠は暖房で火照った顔を心地よく冷やしてくれていた。
 ふぅ、と最近すっかり癖になってしまった溜息が漏れる。
「……日野先輩? ご気分でも悪いんですか?」
 隣に座る冬海が心配そうに声をかけてきた。
 人一倍他人を気遣う心を持っている彼女。普段より言葉少ない自分を静かに放っておいてくれていたのだ。 それに甘えてひとり思考の奥底に入り込んで、溜息ばかりついていたのだろう。たまりかねて声をかけてきたらしい。
「あ……ううん、大丈夫。今日は朝が早かったから、まだボーっとしてるみたい」
 普段の通学時間とそれほど変わらないというのに。
 下手な言い訳だ、と自嘲しながら、へらりと笑ってみせた。
「まだ時間もあるし、少し眠られますか? 私、着いたら起こして差し上げますから」
「……うん、そうしようかな。じゃあ、お願いね、冬海ちゃん」
「はい」
 ふんわりと微笑む可愛い後輩にさらに甘えて、香穂子は再び窓枠にもたれて目を閉じた。
 本当は眠いわけではなかった。
 『最近カレシとぎくしゃくしてて憂鬱なんです』なんて、言えるわけもない。
 この合宿に参加してくれたメンバーは、自分がコンミスに就任するためにそれぞれが貴重な時間を割いてくれているのだ。 元々自分から希望して目指しているわけではなかったが、やると決めたからには期待に応え、結果を出さなければ──
 そう自分を奮い立たせてはみるものの、メンバーの中の2人の存在がさらに香穂子を憂鬱にさせた。
 『土浦くん、最近しょっちゅう都築さんと一緒にいるよね』── そんな親友の言葉が頭の中にこだまする。
 指揮の勉強に集中したい彼。
 一歩先を行く先輩として彼に協力している彼女。
 優先したいことがある、それだけのことだ、という彼の言葉を信じると言った自分。
 信じたい。だけど──
 ぐちゃぐちゃとまとまらない昏い感情にどっぷりと浸かっていると、ふいに肩を揺すられた。
「── 先輩、そろそろ着きます。起きてください」
「え……あ、ありがと…」
 ずっと考え事をしていたつもりが、規則正しいリズムを刻む電車の揺れも手伝って、本当に眠ってしまっていたらしい。
 こうして合宿地へと向かう1時間半の電車の旅は、あっという間に終わってしまった。

 練習室に響くのは哀愁漂う旋律── 次のコンサートで演奏する3曲のうちの1曲、『ヴォカリーズ』だ。
 切々と歌い上げるメロディに涙が零れそうになる。
「── うん、そんな感じ。よくなったよ」
 柔らかな微笑みを湛えての王崎の誉め言葉に、香穂子は詰めていた息を吐き出した。
 彼から指摘されたボウイングは、まだまだ要練習だ。
 だが、彼の人柄同様に偽りのない言葉は励みになる。
 何よりプロデビューしたヴァイオリニストに指導してもらえることは、自己流でヴァイオリンを続けてきた香穂子にとってはこの上ない良い練習になった。
「ありがとうございました」
「じゃあ、ここまでにしようか。昼食の後はペアで練習してね」
「あ……」
 ヴァイオリンを片付け始めた王崎が、不思議そうに首をかしげながら手を止めた。
 普段なら『ペア』と言われれば迷うことなく特定の人物を指定するだろう。
 だが、今はそうすることが決してお互いのためにならないような気がした。
「あの、王崎先輩……午後も練習、見ていただけませんか…? ご迷惑じゃなかったら、ですけど…」
「迷惑なんてとんでもない。おれでよければ、喜んで」
「よろしく…お願いします!」
 嫌な顔ひとつせずに頷いてくれた先輩に、香穂子は深々と頭を下げた。

*  *  *  *  *

 ── どうしてこんなことになっちまったんだか。
 梁太郎は宿舎の裏手にある森へ分け入っていた。
 森林浴でもすれば気分もリフレッシュするかと思いきや、鬱蒼と茂る常緑樹の中を進めば進むほどに重い気分は重さを増していった。
 午後からの練習を誘いに来ると思っていた人物は、いつまで経っても姿を見せず。
 探してみれば、練習室のひとつで先輩ヴァイオリニストからの指導を真剣な表情で受けていた。
 急遽決まった次のコンサートでの演奏曲を決めたばかりで、今は人と合わせるよりも個人個人で曲を弾き込むことのほうが重要なことはわかっている。
 しかし、期待を裏切られたダメージは確実に梁太郎を蝕んでいた。
 ここ最近、自分と彼女との間に以前とは違う空気が流れていることにはもちろん気づいている。
 というより、彼女の親友に怒鳴り込まれて気づかされたというほうが正しいだろう。
 始めたばかりの指揮の勉強は思った以上に面白くて、ピアノに触る時間を削ってまで指揮に関する書籍を読み漁っているというほど完全にのめりこんでいた。
 当然彼女と過ごす時間も削らざるを得ないのは悪いと思っている。
 運良く得られた協力者がたまたま女性だったがために多少の誤解を与えてしまっているようではあるが、彼女に顔向けできなくなるようなことは皆無だと自信を持って言える。
 今は指揮の勉強に集中したいだけで、疚しいことなど何もないのだ。
 それは彼女と直接話をして、理解を得たはず。
 なのに、彼女の目を真っ直ぐに見ることができないのは何故だろう?
 気づけば彼女の視線を避けて、そっけない態度を取っている自分がいた。
 もしかすると練習に誘われたら誘われたで、ひどく困惑していたかもしれない。
 結局、『勉強に打ち込んで何が悪い』というところに思考が戻ってきた。
 これまでの自分の行動を正当化することに夢中になっていた梁太郎は、いつしか急になっていた斜面をひたすらに上へ登っていった。

 木立は突然途切れ、視界が開ける。
 そこは枯れ草に覆われた小高い丘。もうひとふんばり、と頂上を目指した。
「うおっ……」
 飛び込んで来た景色に言葉を失った。
 水平線に沈みゆく夕日。
 そういえば誰かが『海が近い』とか言ってたな、と思い出した。
 澄み渡った青からオレンジ色へのグラデーション。
 波が作る藍と橙の入り混じった模様が美しい。
 暖かさを感じる色とは逆に、冬の空気はひんやりと冷たくなっていく。
 見せてやりたい、と思った。
 吸い込まれてしまいそうな、こんな絶景を見るのなら彼女と一緒がいい、と思った。
 ふと懸命にヴァイオリンの練習をする彼女の顔が脳裡に浮かび、梁太郎は小さく頭を振った。
「こんな時じゃなければな……」
 自嘲の笑みを小さく浮かべて踵を返す。
 暗くなる前に宿舎へ戻ろう、と夕日に背を向け歩き出した。

*  *  *  *  *

「あ……あれ…? 私、どっちから来たんだっけ…?」
 360度を木々に囲まれた森の中で、香穂子は方向を見失っていた。
 午後の練習を終え、夕食の時間まで気分転換しようとふらりと外に出た。
 あのまま室内にいて彼と彼女が仲良く指揮談義に花を咲かせる場面に遭遇したら、と想像するだけで泣いてしまいそうだった。
 自宅から遠く離れたこの場所に、泣きながらひとり閉じこもれる場所などないのだ。雑音を耳に入れないようにして、ヴァイオリンの練習に集中しなければ。
 そして、散策するうち見つけた森に『いざ、森林浴!』とばかりに分け入ったところまではよかったのだが、 目を瞑って少し湿った木の香りを肺いっぱいに吸い込んでいるうちに、自分がどちらの方向を向いているのかわからなくなってしまったのである。
 こんな時の頼みの綱である携帯電話は宿舎に置いた荷物の中。たとえ手元にあったとしても、こんな深い森の中では電波が届くかどうか怪しいものだ。
「どうしよう……」
 がっくりと項垂れた時、ガサリ、と物音が聞こえた。
 ひっ、と声にならない悲鳴を上げて、咄嗟に物音から身を隠すように近くの大木にしがみつく。
 ──凶暴な動物とかだったらどうしよう!
 ガサリ、ガサリ、と音は着実に近づいていた。
 とにかく逃げなければ。
 香穂子はしがみついていた木から離れ、近づいてくる音から遠ざかる方向へ、極力足音を立てないように進み始めた。
 ザッ、と背後で一際大きい音がして、
「── 香穂?」
「え……?」
 振り向くと、そこには凶暴な動物ではなく、梁太郎の姿があった。
 一瞬困ったように眉を顰めたものの、すぐに口元に笑みを浮かべて、
「……よう、こんなところでどうした?」
「あ……えと……」
「そっちは宿舎とは逆方向なんだが……まさか、迷ってたのか?」
 まさかこんなところで出会うなんて、思ってもいなかった。
 驚いたのとほっとしたのとで声が出せなくて、問われるままにこくこく頭を振る。
「……だろうと思った。俺も戻るところだ、一緒に行こうぜ」
 苦笑して歩き出した彼の後ろを慌てて追いかける。
 並んで歩きながら、梁太郎がアナログ時計で方角を知る方法を教えてくれた。
 そこでふと浮かんだ疑問。
「── でも、東西南北がわかったとして……目的地の方角がわからない時はどうしたらいいんだろう?」
「ははっ、そりゃお手上げだな」
「そ、そうだよね。あ、あははっ」
 一瞬の乾いた笑いだったけれど、一緒に笑い合ったのは久しぶりだった。
 それだけのことなのになんだか嬉しくて、目の奥がじんと熱くなってくる。
 と、ふと梁太郎が足を止めた。
 数歩先まで進んだ香穂子も歩みを止めて、彼の方を振り返る。
 彼はジャージのポケットに手を突っ込んだまま、難しい顔で地面を睨んでいた。
「……あのさ」
「ん…?」
「……向こうに見晴らしのいい丘を見つけたんだ。ちょっと、行ってみないか?」
 普段の彼らしくないおずおずとした申し出に、香穂子はゆっくりと頷いた。
 安堵したような弱い笑みを浮かべ、行こうぜ、と踵を返した彼の背中を見失わないように、香穂子は小走りで追いかけた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 合宿の土浦イベントのあたりを妄想補完してみました。
 引継ルートを最速でイベント消化してる状態で合宿を迎えた、ということで。
 後編に続きます。
 だが現時点では後編はまったくの白紙状態……(汗)

【2009/09/10 up】