■Green Flash【後編】
ついさっきまで立っていた場所に再び戻ってきた。
水平線に浮かんでいた半円の太陽は、すでに爪の先ほどに小さくなっている。
赤は濃く、紺と混ざり合っていた。
熱を放つ光の大部分が隠されて、海からの風は夜の冷たさが増していた。ジャージの上下という軽装のため、長くここに留まれば風邪を引いてしまいそうだ。
遅れて丘を登りきった香穂子が隣に立つ。息を飲んだのが気配でわかった。
「── 綺麗……」
ぽつりと漏らした声に隣を見れば、僅かに残った光が彼女の瞳をキラキラと輝かせている。
綺麗だな、と彼女の横顔を見つめながら素直に思った。
気恥ずかしくてそんな言葉は口には出せないが、と慌てて彼女の横顔から水平線へと視線を移す。
その時──
「「あっ!」」
ふたり同時に叫んでいた。
燃えるような赤い太陽が沈みきる瞬間、チカッと鋭く緑色に光ったのだ。
「おい、香穂! 今の見たか !?」
「見た見た! 一瞬緑色に光ったよね !?」
「すげぇ……『グリーン・フラッシュ』だ」
「グリーン・フラッシュ…?」
初めて聞いた言葉だったのだろう。不思議そうな顔をして小首を傾げている香穂子に、梁太郎はなけなしの知識を動員して仕組みを説明してやった。
太陽の光は、いわゆる虹の七色でできていること。
夕日が赤いのは、太陽の光が最も分厚い大気の中を通るうちに分散されて、波長の一番長い赤だけが目に届くから。
「── でさ、大気がプリズムの役目をしてて、屈折率の大きい赤い光から見えなくなっていくんだ。で、条件が重なってたまたま緑色の光が一瞬目に届く。
それが『グリーン・フラッシュ』ってわけだ。滅多に見られるもんじゃないから、見ると幸福になれるって言い伝えもあるらしい── って、香穂?」
気がつけば、隣で香穂子が肩を揺らしてくすくす笑っていた。
ひとりでしゃべり続けていたことに気づいて、梁太郎は思わず赤面した。
まるで得意分野になると出しゃばって調子に乗るガキのようだ、と心の中で舌打ちする。
「……悪い」
「ううん、解説ありがと。よくわかったよ── とっても貴重な体験だったってことも」
ふわりと香穂子が笑った。
そりゃよかった、と口の中でもごもごと呟いて、すっかり姿を消してしまった太陽を水平線の彼方に探すふりをする。
夕日の赤は夜闇の紺に侵食され、星が瞬いていた。
こんなにも幻想的な光景を、もっと見ていたい。もちろん、彼女とふたりで。
「なあ、香穂……せっかくだから──」
「日が沈んだ後の空も綺麗なんだね。もう少し眺めてようよ」
魅せられたように空を見つめながら、香穂子が呟く。梁太郎が続けようとした言葉そのままに。
── よかった。
彼女もここを去ることに名残惜しさを感じてくれていたのだ。
「── ああ、もう少し、ここにいようぜ」
夕焼けの名残は水平線にわだかまる僅かな紫色を残すのみとなり。
海に面した小高い丘に吹き付ける冬の夜風に、梁太郎はぶるりと身を震わせた。
さすがにそろそろ戻らないとまずいだろう。
お互い今体調を崩すわけにはいかない状況に置かれているのだから。
ふと香穂子を見れば、自分を抱きしめるようにして身体を縮こませていた。
彼女も自分とそう変わりない軽装だった。
ここは自分の上着を脱いで彼女の肩にかけてやる、というのが男としては当然の行動だと思うのだが、いかんせん梁太郎も真冬にしては薄着の部類にはいる格好である。
逡巡していると、香穂子が引きつるように顔を歪めた。
「── くしゅんっ!」
身体を折り曲げながら、可愛いくしゃみをひとつ。
すん、と鼻をすすりながら、
「やっぱり寒いね。そろそろ──」
香穂子が言い終える前に、梁太郎は彼女の腕を掴んで引き寄せ、背中から抱きすくめた。
上着をかけてやれないなら、自分が上着の代わりになればいい──
だが、腕の中で香穂子が身を硬くするのがわかった。
そういえば、今の自分たちの間には正常とは言えないギクシャクした空気が横たわっていたはずだ。
そんな状況下でのこういう行動はさすがにまずかったかもしれない。
「い、いや、あんまり寒そうだったから……」
言い訳めいた言葉を呟きながら、咄嗟に腕を緩めた。
次の瞬間。
「── っ !?」
梁太郎の腕が作る狭い空間の中、くるんと向きを変えた香穂子が彼の身体に抱きついてきたのだ。
恐る恐る抱き締め返した彼女の身体は折れそうに細かった。
初めて知ったわけでもないのに、その細さが胸に痛い。
彼女はこんな身体で大きなプレッシャーに耐え、立ち向かっているというのに。
アンサンブルを手伝うことしかしていない今の自分がやたら腹立たしくて、情けなくて。
凍てつく海風から彼女を守るように、ただ抱き締める腕に力を込めることしかできなかった。
* * * * *
「── やだ、私ってば」
いきなりボフンと爆発したように赤くなった頬を両手で押さえる香穂子。
夕食を済ませ、部屋に戻って荷物の整理をしている最中に、少し前の出来事が脳裡をよぎったらしい。
抱き締められたことは何度もあれど、あんなふうに自分から抱きついたというのは初めてだったのである。
勇気をめいっぱい振り絞った上での行動とはいえ、あまりの大胆さに今になって恥ずかしさの極致に襲われていた。
暗いから、と手を引かれて森を抜け、戻ってきた宿舎に入れば入試を済ませた先輩の到着により賑やかになっていて、そのまま夕食になだれ込んだために思い出す暇がなかったのだ。
都築が作ったポトフはとても美味しかった。
そう、夕食を作っていた彼女と外にいた彼が指揮談義に花を咲かせることなど不可能。
杞憂がただの思い過ごしに終わって、今さらながらに安堵した。
それに、抱き締められたあの力強い腕は、信じられる──
香穂子は両手で胸元を押さえ、静かに目を閉じた。
まだ抱き締められているようにほんわりと身体が温かくなってくるような気がする。
閉じたまぶたの裏に幸運をもたらす緑色の光がキラリと輝いた。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
けなげな香穂子さんと、ちょっぴし自分の罪に気づき始めた土浦さん。
本当の関係修復まであと少し。
えーと、前後に分けるほど後半のボリュームがないですな…
いやぁ、もうちょっと続けようかとも思ってたもので、終わり方も中途半端だな。
自分的にも消化不良気味ではありますが。
宿舎に戻った時の会話中、顔を赤らめる土浦さん。
『おまい、暗がりで香穂子さんに何かしただろ!』とか思ったのはあたしだけではないはず(笑)
【2009/09/12 up】