■楽しい留学らいふ【前編】
【111,111HIT記念リクエスト大会 第3弾】
Saiさま からのリクエスト/留学した土日の日常生活
※このSSは、SS『聞かぬが仏』、短編集『がむばれ!コルダーズ!【その2・いんびてーしょん in うぃーん】』と
なんとなくつながっておりますので、未読の方はそちらから先にお読みくださいませ。
土浦梁太郎はなんとなく感じた心地よい寝苦しさに、浮上した意識と共にゆっくりと目を開けた。
視界に入るのは、もう1年近く目にしてすっかり見慣れてしまった、ウィーンのアパートの天井。
手探りで掴んだ目覚まし時計は、アラームをセットした時間の5分前。
といっても今日は休日なこともあって、普段学校へ行く日よりは1時間遅くセットしてあるため、ずいぶんとゆっくりな起床なのだが。
目覚ましをOFFにして、元の場所へ戻し。
身体を起こそうとして寝苦しさの原因を発見し、ふ、と口元に笑みを浮かべる。
横たわる梁太郎にピタリと身体を寄せ、彼の肩口に顔を埋めるようにして眠っているのは、共にこのウィーンに留学し、同じ部屋に暮らしている日野香穂子。
ヴァイオリンを自在に操る細い腕が梁太郎の胸の上をだらりと横切り、膝上丈のパジャマのボトムから伸びた彼女のすらりとした足が、
彼女が身体にかけていたはずの布団ごと彼の腹の上にズシリと乗っている。
「……俺は抱き枕かよ」
彼女の頭をそっと撫でて、ひとりごちる。
はっきり言って、香穂子の寝相は最悪である。
『抱き枕』に関しては梁太郎自身も香穂子を抱きしめたまま眠ることがあるのでお互い様なのだが、いただけないのはたまに襲ってくる彼女の蹴り。
ぐっすり眠っている時ならまだしも、眠りが浅くなった時に脇腹にゴスッと膝を入れられ、痛みに悶絶すること数回。
翌朝、『俺のあばら折る気か !?』と文句を言えば、もちろん眠っていた香穂子にそんな記憶はなく、それでも必死に謝り倒した後で
『香穂子は寝ると暴れる、って家族によく言われてたんだよね〜』と恥ずかしそうに苦笑した。
決して梁太郎にマゾっ気があるわけではないが、ヴァイオリンを奏でる彼女からは想像もできない姿を知っているのは自分と彼女の家族だけだと思えば、
蹴りのひとつやふたつくらい可愛いものではあるのだが。
── あ、修学旅行なんてものもあったんだから、宿で同室だった友達の何人かは知ってるかもな……
『パジャマパーティ』と称して集まってたあのふたりは確実に知ってるか。なんだ、結構多いじゃねえか──
そんなことを思いつつ、異性としては自分だけだという自負が、彼の口元に笑みを作る。
梁太郎は彼女の頬をぷにっとつまみ、
「香穂ー、起きろー」
ん、と小さく唸った香穂子がごろりと転がって仰向けになる。
身体の上に乗っていた重みと温もりがなくなって、すっと肌寒くなるのが少し淋しいと感じて。
少し起こした身体を肘で支え、彼女の顔を覗き込んだ。
一旦顔をしかめてから、ゆるゆると瞼を上げる香穂子とゆっくりと視線が合う。
「おはよ」
「……ん…おはよ」
寝起きで少ししゃがれた声の香穂子が、眠りからまだ覚めきっていない気だるげな笑みを浮かべた。
そんな彼女の額にそっとキスを落としてから、梁太郎はベッドを降り、深いグリーンのカーテンを勢いよく開ける。
窓の外に広がるのはウィーンの街並み。
見上げる空は抜けるように高く青い。
── 今日もいい天気だ。
* * * * *
キッチンでコーヒーメーカーをセットしてから、梁太郎はバスルームへ向かう。
さっとシャワーを浴びて出てくると、コーヒーのいい香りが部屋を満たしていた。
ふたり掛けのソファに身体を沈めてボーっとしていた香穂子をバスルームに追いやり、梁太郎はキッチンに立つ。
まだ留学なんて現実的ではなかった頃、朝食は香穂子が担当、夕食は梁太郎が担当、なんてふざけて言っていたこともあった。
が、実際留学してみると、食事に関してはほぼすべて梁太郎の担当になっていた。
香穂子の料理は味は悪くないのだが、調理過程が見ていて危なっかしいので、それなら自分でやってしまったほうが早い、というのが理由だ。
オーブンで軽く温めたベーグルをふたつに切って、ちぎったレタスと香ばしく焼いたベーコンを挟めばベーグルサンドの出来上がり。
鮮やかなフライパン捌きで作られたふわふわのプレーンオムレツ、ドリップしたてのコーヒーが手際よく小さなダイニングテーブルに並べられる。
「んーっ、いい匂い〜♪」
ちょうどシャワーを済ませてバスルームから出てきた香穂子が、幸せそうに深呼吸した。
まだ湿ったままの長い髪を器用に捻り上げてクリップで留め、準備を終えてすでに席に座っている梁太郎の向かいに腰を下ろす。
ぱちん、と手を合わせて、
「いただきます♪」
「はい、どーぞ」
そして彼らのいつもの食事風景が始まるのである。
* * * * *
休日の朝食の後は、学校がある平日にはなかなかできない部屋の掃除をする。
香穂子が朝食の食器を片付けている間に梁太郎が部屋に掃除機を掛け、キッチンでの仕事を終えた香穂子がトイレの掃除を始めると、
掃除機を片付けた梁太郎がバスルームの掃除に取り掛かる。
程なくして香穂子がシャワーを浴びる前にセットしておいた洗濯機が洗濯終了のアラームを鳴らし、洗濯物を乾燥機へと移しスイッチを入れる。
洗濯は食事作りに手を出さない香穂子の担当だ。
特に取り決めたわけでもないのにいつしか決まっていた分担作業を終えると、彼らの本分である音楽の勉強が始まる。
彼らが住んでいるアパートは、ふたつある部屋のどちらもが独立した防音設備を整えられているので、それぞれの練習場所へと分かれていくことになる。
香穂子はヴァイオリンケースと譜面台を抱えて寝室へ。
梁太郎はそのままリビングのピアノへ。
リビングと寝室を繋ぐ扉が閉じられると、彼らはそれぞれひとりの音楽家の卵として、自分の音楽に没頭するのだ。
しばらくして昼食を取る。朝が遅かった分、少し遅めの時間。
食事が済んで、梁太郎がキッチンを片付ける間に、香穂子が乾燥の終わった洗濯物を畳んでクロゼットにしまって。
そして再び彼らは練習場所にこもる。
指揮科で学んでいるとはいえ、腕を落とすわけにはいかないピアノの練習をひとまず切り上げ、梁太郎は通学に使っているカバンからごそごそとCDや楽譜、筆記用具を出して
オーディオセットのところへ向かった。
昨日、学校帰りに買ってきたCDは某マエストロが指揮する交響曲。楽譜はもちろん、それに合わせて買ってきた総譜である。
デッキにCDをセットして、すぐ傍にあるソファに腰を下ろし、ローテーブルの上に総譜を広げる。
迫力のある豊かな響きを耳にしながら、曲の構成を分析しつつ音符を目で辿っていけば、いつしか曲の世界にどっぷりとはまり込んでいた。
梁太郎が頭の中で2回目の第4楽章を振っている時、寝室から少し疲れた顔の香穂子が出てきた。
彼女は難しい顔をして首を捻りながら、キッチンへと向かっていく。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、小さな食器棚から取り出したグラスになみなみ注ぎ、片手を腰に当て喉を鳴らして一気に飲み干した。
「ぷは〜」
「風呂上がりのオヤジかよ」
「もー、うるさいっ。喉渇いてたんだからしょうがないでしょ」
香穂子は含み笑いの梁太郎を据わった目でキッと睨む。どうやら少々ご機嫌斜めなようだ。
「俺にもくれ」
CDを止め、ソファから立ち上がった梁太郎がキッチンへ向かうと、香穂子は持っていたグラスに再びミネラルウォータを注ぎ、半分ほど自分で飲み干してから梁太郎へ差し出した。
「おい、嫌がらせか?」
「違うもん、喉渇いてたんだもん」
ぷくっと頬を膨らませ、香穂子はペットボトルを冷蔵庫に戻して、バタンと扉を閉めた。
梁太郎が受け取ったグラスを口に付けながら壁の時計を見上げると、既に午後4時を回っている。
「ぼちぼち買い物行こうぜ」
「んー、あと30分弾かせて。先生からダメ出しされ続けてるとこ、もうちょっとで掴めそうなんだ」
「了解」
ぽん、と香穂子の頭の上に手を乗せて。その手を後ろ頭に滑らせ、ほんの少し引き寄せて、一瞬だけ彼女の唇にそっと唇を重ねる。
「頑張れよ」
「うん♪」
香穂子はニコリと笑って踵を返し、ぱたぱたと寝室へ駆け込んでいく。
その後ろ姿を見送ってから、梁太郎も自分のオーケストラピットへと戻っていった。
* * * * *
買い物はアパートに程近いスーパーへ。
隣を歩いていれば、どちらからともなく自然に手が繋がれた。
スーパーに着いて、売り場の間をカートを押しながら、あれが食べたいこれが食べたいと賑やかな香穂子のリクエストを聞いて頭の中でメニューを組み立てつつ、
使い回しの利く食材を選んでいく。
「あ、そういえばトイレットペーパーがもうなかったよね」
「おっ、そうだったな。忘れないうちに持ってきとけよ」
「は〜い」
香穂子が日用品売り場へ向かうと、梁太郎は彼女のお気に入りのデザートをいくつか、カートの中に忍ばせた。彼女の喜ぶ顔を想像しながら。
彼らは毎日買い物する手間を惜しんで数日分の食料をまとめ買いするので、スーパーからの帰りはいつも大荷物だ。
ふたり揃って買い物に出かけるのは、一緒に入るのが楽しいから、とか、一緒が当たり前になっているから、というだけではなく、単純に現実的な問題から。
そう── 『荷物持ち』である。
アパートに戻り、買ってきたものを冷蔵庫に詰めていた香穂子が、あ!、と声を上げた。
「プリン〜! 買っといてくれたんだ!」
シンクの上で鶏肉を小分けにしてラップに包んでいた梁太郎が肩越しに振り返り、ニヤリと笑う。
「お前、それウマイって言ってたろ?」
「わー、よく覚えてたねぇ……うふっ、私って愛されてるな〜」
「ぶっ……お前ってお手軽だな、たかがプリン1個で」
「だってー、嬉しいんだもん♪」
ふっふっふ、と気味の悪い含み笑いをしている香穂子。
梁太郎が手元の作業に戻ると、静かになった香穂子がぽつりと呟いた。
「愛してるよ──」
ドキリとして、持っていた鶏肉がぼとりとまな板の上に落ちる。
普段、滅多に甘い言葉を口にしないふたり。
跳ねる心臓に促され、梁太郎は恐る恐る振り返った。
「── 私のプリンちゃん♥」
香穂子はプリンのカップにチュッとキスをすると、大事そうに冷蔵庫にしまい込み、楽しそうに鼻歌を歌いながらスーパーのレジ袋を畳み始めた。
「………………プリンかよ」
がくりと肩を落とし、梁太郎は再び鶏肉との格闘に戻っていくのだった。