■楽しい留学らいふ【後編】 土浦

 梁太郎が夕食の支度をする間は、緩やかな時間が流れる。
 ダイニングテーブルで雑誌をめくりながらの香穂子と他愛ない話をしていることもあるし、クラシックというジャンルに限らずお気に入りのCDを流していることもある。
 本日のBGMは、練習の成果を披露する、と意気込む香穂子のヴァイオリン生演奏。
 梁太郎にとって、どんな有名指揮者の振る有名オケの交響曲よりも、どんな有名ピアニストのピアノソナタよりも、何よりも嬉しいBGMだ。
 本当はBGMではなく、ただ彼女の奏でる音に耳を傾けることに集中したいのだが、それではいつまで経っても夕食にはありつけないので仕方なく手を動かす。
 ちらりと様子を窺うと、香穂子は先生にダメ出しを食らった、という曲を口元に少し笑みを浮かべた余裕のある表情で弾いていた。 どうやら買い物前の30分で彼女は何かを掴んだらしく、艶やかな弦の響きが部屋を満たした。
「ブラボー」
 弾き終えた香穂子に、パンパンパン、と手のひらを丸めて空気を含ませた大きな音で拍手を送る。
 えへへ、と嬉しそうに笑った彼女は、
「それでは次に、チャイコフスキー作曲・弦楽四重奏曲第1番より、第二楽章アンダンテ・カンタービレ、第2ヴァイオリンのソロでお楽しみください♪」
 と、うやうやしくお辞儀をする。
「あ、室内楽の試験でやる曲か?」
「うん、そう」
 こくんと頷き、一呼吸置いて香穂子がヴァイオリンを弾き始める。
 そして『日野香穂子ソロリサイタル』はテーブルの上に皿が並び終わるまで続いた。

*  *  *  *  *

 夕食の後は、いわゆる『自由時間』。
 ドイツ語辞書を片手に学科の勉強をしたり、楽器の練習をしたり。
 日本から送ってもらった本を読んでいることもあれば、オペラや映画のDVDを見ていることもある。
 そんなふたりの本日の自由時間は、香りのいい紅茶をお供にテレビタイム。
 ソファに並んで座り、ゆったりとくつろいで。
 映っているのは香穂子のたっての希望で、若い女性たちに人気の恋愛もののドラマ。
 語学学校に通い、日常生活に最低限必要なドイツ語は身につけたものの、まだネイティブとはお世辞にも言えない彼らにとってテレビから流れるドイツ語はヒアリングのいい教材となる。
 しばらくすると座りっぱなしで腰の辺りが疲れてきて、少し身じろぎした瞬間、思いがけず肩が触れた。お互いはっとして顔を見合わせると、 それまで見ていたテレビの内容が内容だけに─── まあ、ふたりの間にもそんな空気が流れてくるわけで。
「香穂……」
 少しかすれた熱っぽい声で呼ばれる名前。
 香穂子が潤み始めた瞳を隠すようにゆっくりと目を閉じれば、梁太郎が彼女に覆い被さるように顔を近づけていき……
 ぱちり。
 突然ぱっちりと開いた香穂子の目に、薄く目を開けていた梁太郎はギョッとする。
 香穂子はぱちぱちと音がしそうなほどに大袈裟な瞬きを数回繰り返すと、
「宿題やるの、忘れてた」
「はぁ? 明日にしろよ、どうせ明日も休みなんだし」
「明日は室内楽の練習で朝から学校行くって、昨日言ったじゃない」
「あー……そうだっけか?」
「間違いなく言いましたー」
 香穂子は梁太郎の肩をとん、と押してソファから立ち上がると、部屋の隅に置いてある通学用のカバンを取りに行く。ダイニングテーブルに腰を落ち着け、 カバンの中から勉強道具を出してレポートを書き始めた。
「なあ」
「ん〜?」
 肩透かしを食らってしまった梁太郎は、テレビを消してからずしりとソファに身体を預け、頭の後ろで手を組んで天井を見上げる。
「室内楽って……月森も一緒なんだよな?」
「そうだよー、月森くんが第1ヴァイオリンで、ヴィオラがスペイン人の男の子、チェロがオランダ人の女の子」
 手元のレポート用紙から目を上げることなく香穂子が答えた。
「月森くん、去年はソリストの勉強に専念してたから、今年初めて室内楽の授業取ったんだって」
「ふーん……」
「なあに? ……もしかして、妬いてるんだ?」
 テーブルに肘をつき、シャーペンの後ろで顎をトントンとつつきながら、にやりと笑って梁太郎を横目で見ている香穂子。
「なっ、なんで今さら月森に妬かなきゃならねーんだよ」
「はいはい、そういうことにしておきましょーか」
「あのなー……」
 くすくす笑いながら、香穂子はドイツ語辞書をぱらぱらとめくり。
「あ、そうそう、チェロの子がね、『レンとカホコは恋人同士なの?』だって」
「はぁ !?」
「演奏の息がぴったり合ってるから、きっと心も通じ合ってるんじゃないのか、ですって」
「…………へぇ」
 ぶくくく、と口元を手で押さえて笑いを押し殺しながら、香穂子は椅子の上で身体を捻って不機嫌そうに顔をしかめている梁太郎の方へ視線を向ける。
「試験、ホールでの公開試験だから入場自由なの。時間合ったら聞きに来てよ」
「……ああ」
「その時に『この人が私の恋人です♥』って紹介しちゃおっと♪」
 ぶっ、と吹き出し、真っ赤な顔でげほげほと苦しそうにむせている梁太郎を見て、香穂子はけらけらと楽しそうに笑う。
「……俺、風呂入ってくるわ」
 ソファからすっくと立ち上がった梁太郎は、彼女の後ろを通り過ぎざまに、つん、と頭を小突いて、
「さっさと宿題終わらせちまえよ」
 と言い残してバスルームへ消えていく。
 ばたん、と音を立てて閉められた扉に向かって、はーい、と返事をして。
 くすくす笑いながら、香穂子はレポート用紙にドイツ語を並べ始めた。

*  *  *  *  *

 夜も更け、日付が変わった頃にふたりはひとつベッドに身体を寄せ合い、眠りに就く。
「なあ、香穂」
「……ん〜?」
 灯りのない暗闇の中、梁太郎の呼びかけに返ってきた香穂子の声は、既に夢の世界に片足を突っこんでいるらしく、ぼんやりとして頼りない。
「明日、練習終わったらさ……月森、うちに連れて来いよ」
「……んー? なんでー…?」
「淋しく一人暮らししてるヤツに、たまにはウマイもん食わせてやろうかと思ってな」
「うわー、オレ様ー、上から目線ー、イヤミなヤツぅー…」
 梁太郎の腕の中で、目を閉じたまま彼をけなす言葉を並べてくすくす笑う香穂子。
「ほとんど外食だって言ってたから…、きっと喜んでくれるよ、月森くん…」
 香穂子は一番寝心地のいい場所を探すように身じろぎして、更に深く彼の胸元に潜り込み、
「おいしい…もの……いっぱい…作って……待ってて………ね………」
 ふわふわした声はどんどん小さくなり、最後には消えてしまった。残ったのはすやすやと安らかな寝息だけ。
「任せとけ」
 ちょうど顎の下にあった彼女の頭にそっと口づけて、梁太郎もまた眠りに落ちていく。

 こうして彼らのいつもの休日は終わりを告げるのだった。

*  *  *  *  *

【おまけ】
 香穂子の規則正しい寝息を遠くに聞きながら、梁太郎は夢と現の間をふわふわとたゆたっていた。

 ゴスッ

「はぅっ…!」
 突然あばらに生まれた鈍い痛みに、身体を硬くして引きつるような息を吐く。
 この痛みは、寝惚けて働かない頭でもすぐに理解できた。
 いつの間にか身体が離れてしまっていた香穂子から繰り出された膝蹴りが、久々に脇腹にクリーンヒットしたのだ。
 一瞬にして目が覚めた梁太郎は痛む脇腹をさすり、横に伸ばした腕にかかる重みを頼りに香穂子の身体を抱き寄せ、膝の自由を奪うように足を絡めて抱き枕にする。
 ん、と唸った彼女が彼の背中に腕を回し、甘えるように彼の胸に額をこすりつけて、
「りょう……」
 と彼の名を寝言に乗せる。
 それに満足した梁太郎は、彼女を抱きしめ、ようやく深い眠りへと誘われていくのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 それにしてもこんな妄想大爆発、公表していいんでしょうか?(笑)
 留学経験者の方、『ありえねー!』なんて言わないでね。
 あくまで妄想ですから(汗)
 えと、これくらいなら、年齢制限しなくていいよね? ね?
 そこはかとなく『かほこカンタービレ』なお話になってしまいましたが(笑)
 萌えポイント、深読みポイントをてんこ盛りにしたつもりでございます。
 海外のバスルームって、ユニットバスみたいにお風呂とトイレが一緒なんだよね? 確か。
 そんなわけで、お掃除のシーンは、せっまーいバスルームで香穂子さんが便器をごしごししてる
 横で、土浦氏がズボンを膝まで捲り上げて、スポンジ持って浴槽を洗ってる図を想像して
 お楽しみください(笑)
 Saiさま、リクエストありがとうございました。

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【2008/04/07 up】