■ちぇんじ!【前編】
【111,111HIT記念リクエスト大会 第1弾】
みずきさま からのリクエスト/土浦と加地の身体が入れ替わる(コミックス4巻の特別編風)
日野香穂子のコンミス就任を理事たちに認めさせるためのコンサートまであとわずかとなったある日。
演奏する3曲すべてに関わっている香穂子は、後輩の冬海笙子と彼女の友人たちで組んだ女の子だけのアンサンブルで「クラリネット五重奏曲」の練習を終え、
通称「パガニーニチーム」の練習場所へ向かっていた。
パガニーニチーム、すなわち「パガニーニの主題による狂詩曲」でアンサンブルを組んでいるのは、香穂子と絶賛オツキアイ中である土浦梁太郎、クラスメイトの加地葵、
コンクール仲間の月森蓮、志水桂一。
ほぼ仕上がっているこの曲は、実際にコンサートが行われる講堂で本番さながらの練習をしようということになっていた。
香穂子が講堂の重い扉を開けて中に入った時、客席付近で思い思いに練習していた音楽科の生徒たちがざわめいた。一斉に香穂子に注目が集まる。
「………え゛、な、何、この空気…?」
妙な緊張感。
少し前、香穂子がコンミスになると知れ渡った時に向けられたような、悪意のこもった視線ではない。どこか好奇と呆れを含んでいる、と香穂子は思った。
舞台の上には、志水だけがチェロを抱えてひっそりと佇んでいた。音のひとつひとつを確認するように、ゆったりとしたボウイングで基礎練習をしている。
香穂子はひそひそと囁き合う音楽科の生徒たちの間をすり抜け、階段状の客席を降りていって舞台へと上がった。
床を叩く足音に気づいた志水が弓を引く手を止め、困惑した顔を香穂子に向けた。
「お疲れさま、志水くん。……えと、他のみんなは?」
「……感情のコントロールは、難しいです」
「…………はい?」
志水がぽつりと呟いた、香穂子の質問とは全く脈略のない言葉に、香穂子は混乱した。
「えーっと……どういうことなのかな、志水くん?」
記憶を探るようにして断片的に語られる志水の言葉をなんとか繋ぎ合わせ、何が起きたのかを理解した香穂子は思わず「くっだらない…」と呟いていた。
* * * * *
香穂子が合流する前に練習しておこうと集まった4人。
まずは通して弾いてみよう、と始めた練習で、ふと加地のヴィオラの音が不安定になった。
最後まで弾き終えたところで、咎めるような小さな緊張が走る。
「…加地先輩、音程が狂ってました」
「あ、やっぱりわかっちゃった? ごめん、ちょっと違うこと考えてしまったんだ」
音楽に関してはことさら厳しい志水の鋭い指摘に、加地は首をすくめて詫びた。
「本番まで時間がないんだ、集中して練習に臨んでくれないか」
月森の眉間にも深い皺が刻み込まれている。
「だから謝ってるじゃない。月森、そんな怖い顔しないでよ」
「何のためにこのアンサンブルを組んでいるのかを考えれば、そんないい加減な態度で取り組めるはずはないと思うが」
「そのくらいにしとけよ。ほとんど完成してんだ、そうカリカリすんなって」
一触即発の月森と加地、そこに土浦が仲裁に入る。ふっと空気が軽くなった。
「サンキュ、土浦」
「いや、今は言い争ってるより練習するほうが先だと思っただけだ。だがな加地、集中しろって意見には俺も賛成だぜ。何を考えたら、あそこまで音がよれるんだ?」
にっこりと笑った加地は、恩を仇で返すような爆弾を土浦に向かって投下した。
「ふふっ、早く日野さん来ないかな、って考えてた」
「なっ !?」
確かに今は香穂子待ちなのではあるが、自分が付き合っている彼女を待ち焦がれるような発言を聞いて心中穏やかでいられるはずもない。
土浦の顔に絵に描いたような不機嫌の表情が表れた。
そんな土浦に、加地は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「土浦ってさ、感情と表情が素直にリンクしてるよね」
「はあ?」
「月森はいつも難しい顔しててあんまり感情が読めないし、志水くんはいつもは眠そうにしてるからさっきみたいな厳しい顔をすると結構凄みがあるっていうか。
土浦の場合は、顔を一目見ただけでどんな心理状態なのかがすぐわかるんだ」
「……それは、俺が単純だ、って言いたいのか?」
土浦は身体の前で腕を組み、ピアノ越しに加地を睨み上げる。殺気すら混じる視線にも加地は微塵も怯むことなく、さらに笑みを深くする。
「単純じゃなくて、感情の発露が素直なんだって。日野さんが傍にいる時が一番顕著だよね」
「はあ?」
「すごく優しい顔してるの、自分で気づいてない? なんかさ、彼女への想いがダダ漏れなんだよね」
「っ!」
土浦の顔がみるみる赤くなっていく。
思ってもいなかった指摘は、土浦の神経を逆撫でするには十分だった。
「そういうお前は、いつもニコニコ笑ってて、裏で何考えてるのかわかんねぇよな。そういうの、疲れないか?」
「疲れるもなにも、これが僕だし。もちろん僕にだって喜怒哀楽はあるよ、怒と哀はあんまり表に出さないだけで」
「俺は感情を抑えてまでニコニコなんてできねえな。ああ、単純で素直で結構!」
「── いい加減にしてくれないか。そんなくだらない言い争いで無駄にしていい時間はないと思うが」
月森の冷静な仲裁に、土浦も加地も我に返る。
加地はごめんごめん、と詫びの言葉を軽く口にし、土浦は唇を噛んでそっぽを向いた。
ガタン、と椅子を揺らして立ち上がった土浦は、
「……悪ぃ、ちょっと頭冷やしてくる」
吐き捨てるように呟いて、無造作にポケットに手を突っこみ、舞台を降りた。
── どんな顔をして香穂子が来るのを待てばいいというのか。
来たら来たで、絶対自分の表情に注目が集まるに違いない──
あまりの居心地の悪さにいたたまれなくなって、逃げるように講堂を後にした。
「……時間の無駄だ。俺は練習室で練習してくる」
「あ、僕も一緒に行こうかな」
「……僕は、ここにいます」
そして、4人はバラバラに散ったのだった。
『── 月森蓮の言う通りなのだ! 実にくだらん! 相手を思いやる気持ちがなければ、アンサンブルはうまくいかないのだ! 相手の立場に立って、少し反省するといいのだ!』
姿を見せぬまま今の一部始終を見ていたリリが、手に持ったスティックを振り上げた。
普通の人間には見えない光がキラキラと弾け、直後、土浦と加地の身体が淡い光に包まれたのを、本人たちはまだ知らなかった。
* * * * *
メンバーを呼び戻すべく、香穂子は練習室棟の廊下を歩いていた。
メールを送るか、電話でもすれば早いのだが、なぜか携帯がつながらなかったのだ。
志水の話から、加地と月森はここにいるとわかっている。頭を冷やす、と言った土浦はたぶん屋上あたりにいるだろう、と見当をつけ、まずは講堂から近い練習室に来たのだ。
ひとつひとつ部屋の中を覗いていき、最初に見つけたのは月森。
そしてその隣の部屋に── 窓枠に手をつき、額を窓につけるようにして外を眺めている土浦の後ろ姿を見つけた。
「……あれ? 屋上にいると思ってたのに……」
音楽科棟の階段を駆け上がる手間が省けた、と内心ほっとしながら、音を立てないようにそっと扉を開ける。
するりと中に入り込み、開けた時と同じように静かに扉を閉め、忍び足で土浦の背後に近づいた。
いつもなら気配で気づかれてしまうのに、考えごとをしているのか、気づく様子はない。
香穂子は土浦の真後ろまで無事に辿り着くと、ぎゅっと背中に抱きついて、
「なーに黄昏てるの?」
一瞬にして身体を緊張させた土浦は、がばっと身体を捻る。
その動きに驚いた香穂子は思わず抱きついていた腕を放し、振り向いた土浦の顔を見上げる。その顔は、香穂子が今まで見たこともないほどに真っ赤に染まっていた。
「どうしたの?」
「ごっ、ごめん…!」
土浦は香穂子の腕をすり抜けるようにして、慌てて部屋を出て行く。開け放たれた扉がゆっくりと閉まり、ガチャリと音を立てた。
「………なに、今の反応…?」
香穂子にとっては珍しくもなんともない行動だったのに。土浦の過剰な反応に、香穂子は首を傾げた。
「……もう、一体なんなのよぉ…」
香穂子は音楽科棟の屋上へ続く階段を、息を切らしながら上がりつつ、ひとりごちていた。
校舎から出てきた生徒から、加地を屋上で見た、との情報をもらったからである。
練習室にいるはずの加地がなぜか屋上にいて。
屋上にいるだろうと思っていた土浦が練習室にいて、おまけに逃げられて。
わけわかんない、とグチりながら、一番上に到着した香穂子は、上がった息を整えてから重い扉を力を込めて押し開ける。
吸い込まれるように吹き抜けていく冷たい空気に思わず首をすくめて。
ぱあっと開けた視界の先、ベンチに横たわっている加地がいた。
片腕は柔らかな日差しを遮るように目の上に乗せ、もう片方は腹の上に乗せている。
傍まで近づいた香穂子は、肩から落ちてくる髪を片手で抑えつつ、上から覗き込んだ。
「こんなとこで寝てたら、風邪ひいちゃうよ?」
加地は目の上の腕を額の方へとずらし、ゆっくりと瞼を上げる。口元に弱々しい笑みを浮かべ、
「………よう」
「へ?」
香穂子は目を丸くする。
ここは「やあ、日野さん」と返ってくるところだろう。今の口調はまるで──
加地は勢いをつけて身体を起こし、足を下ろしてベンチに座り直すと、はぁ、と溜息を吐いてから香穂子の腕を掴んで引き寄せた。
「きゃっ…」
すっと細い腰に腕を回し、胸元に顔を埋めるようにして華奢な香穂子の身体を抱きしめる。
「ちょっ、なっ、何するのっ !?」
ぐっと肩を押して加地の身体を引き剥がすと、香穂子は素早く後ずさり、まだ加地の顔が触れていた感触が残る胸元をかばうように押さえた。
「……何逃げてんだよ」
怪訝な顔で訊く加地がゆっくりとベンチから立ち上がる。
「…きゅ、急にそんなことされたら……」
香穂子は身を守るように自分の身体を強く抱きしめた。
「なんだよ、お前抱きしめるのに、いちいちお伺いを立てなきゃならないのか?」
加地が一歩進み、香穂子が一歩下がる。
繰り返すうち、香穂子の背中がフェンスにぶつかり、行く手を阻まれた。
じわりと浮かんできた涙に香穂子の視界がぼやけ始める。
とん、と加地の手が香穂子の肩に乗せられた。
「やめて加地くんっ!」
叫ぶような香穂子の声に、加地はぴくりと身体を震わせ、肩に乗せていた手を下ろす。
「お前……誰の顔見て他の男の名前呼んでんだよ。目が悪いにもほどがあるだろ」
不機嫌な低い声。姿も声質も違うけれど、この口調は間違いなく──
「りょう……たろ…う…?」
「他の誰に見えるってんだ?」
香穂子はいつもポケットに入れている小さな鏡を取り出して、加地の鼻先に突きつけた。
鏡の中を覗きこんだ加地は──
「な── っ !? ── ま、またかっ !?」
土浦は今、自分が加地の姿になっていることを初めて知り、春のコンクールの頃に起きた忌まわしい事件を思い出したのだった。