■Happy Life
【77777HIT記念・いつも来てくれてありがとうリクエスト祭 第1弾】
k@n@さま からのリクエスト/土日結婚後・甘々
ふと集中が途切れて、土浦梁太郎は持っていた芯の柔らかい鉛筆を机の上に転がした。
ちょっとしたこだわりで選んだマホガニーのどっしりとした書斎机の上には鉛筆であちこち書き込みがされた交響曲の総譜が広げられ、
その横にはある作曲家に関する文献が30センチほどの塔を作り上げている。
梁太郎は、うーん、と背伸びをした後、首をコキコキと鳴らし、座っていた高い背凭れの椅子に身体を沈めてゆっくりと目を閉じた。
書斎机と共にこだわり抜いて購入した椅子は、どこかの大会社の社長室に置かれていても違和感のない物。
でっぷりと太った壮年の男が葉巻をくわえて座っている姿を髣髴とさせる椅子はまだ若い梁太郎には似合わないとも言えるし、
がっしりとした体格で学生時代から風格のあった梁太郎にはしっくりとよく似合っているとも言えた。
ゆっくりと背凭れから身体を起こした梁太郎は、机の上のリモコンを手に取ってCDプレイヤーの停止ボタンを押す。
部屋を満たしていた交響曲はぴたりと止まり、入れ替わるように静寂が部屋の中を満たした。
再び椅子に身体を沈ませ、頭の後ろで手を組んで、目を瞑る。
閉ざした視覚の代わりに鋭くなった聴覚に聞こえてくるのは─── 掃除機の唸り。
さっきまでとは打って変わって生活感溢れる音にしばし耳を傾ける。
ふいに唸りが途切れ、聞こえてきたのは楽しげな鼻歌。
── 『花のワルツ』、か。
梁太郎はふっと口元に笑みを浮かべ、床を蹴って椅子をドアの方へ向けると、すぅっと息を吸い込む。
「香穂ー!」
すぐさま、はーい、と声がして、パタパタとスリッパが床を叩く足音が聞こえ、ガチャリと扉が開かれた。
「ごめーん、うるさかった?」
ドアの隙間から顔を出した香穂子が申し訳なさそうにペロリと舌を出す。
「いや」
「じゃ、一服する? コーヒーでもいれよっか?」
「いや、今はいい」
「じゃあ、先にこの部屋、掃除機かけてもいい?」
コクッと首を横に傾けた香穂子の耳の後ろで束ねた長い髪がさらりと流れた。
梁太郎は小さな溜息を漏らし、
「お前さ、昨日ツアーから戻ったばっかだろ。今日くらいゆっくり休めよ」
「戻ったばかりだからお掃除したいの。お天気もいいし、お掃除日和だもん」
「お前がいない間も俺がちゃんと掃除してるって」
「わかってるよ。汚れてるから掃除するってわけじゃなくて……、久しぶりの我が家なんだもん、『奥さん』らしいことしたいだけなの!」
自分で言って照れたのか、頬をうっすらと赤らめる香穂子。
ここで一緒に住み始めてしばらく経つというのに何を今さら── 梁太郎は思わず小さく吹き出した。
2人して特殊な職業柄、確かに世間一般からすれば同じ空間で過ごす時間は圧倒的に短いけれど。
拗ねたように唇を尖らせた香穂子が顔を引っ込め、足音が遠ざかる。すぐにまた足音は近づいてきて、バンッと大きく扉が開かれた。
姿を現したエプロン姿の香穂子は抱えてきた掃除機をよいしょ、と床に降ろすと、つかつかと梁太郎の座る椅子へと近づいてくる。
「はい、足上げて〜」
梁太郎は言われるままに長い足をたたみ、頭の後ろで組んでいた手を解いて膝を抱え、椅子の上でいわゆる『体育座り』の格好になる。
と、香穂子は椅子の背後に回って背凭れを掴み、ガラガラと移動させておいて、置き去りにされていた掃除機を引っ張ってきて机の下の掃除を始めた。
机周りの掃除が終わると、香穂子は再び梁太郎ごと椅子をガラガラと移動させて元の位置へ戻し、残りのスペースに掃除機をかけていく。
部屋の真ん中にデンと置かれたグランドピアノの下は、ピアノに掃除機をぶつけてしまわないように慎重に。
ノズルを付け替えて家具の隙間とサッシのレールの埃を吸い取って。
その間もずっと香穂子の鼻歌の『花のワルツ』は奏で続けられ、掃除機の唸りがそれを邪魔し続けた。
楽しげに掃除をする香穂子の姿を、梁太郎は抱えた膝の上に顎を乗せ、柔らかな眼差しで眺めていた。
そして、香穂子が背筋を伸ばすと同時に掃除機がおとなしくなり。
「はい、終了〜♪」
よいしょ、と掃除機を抱えた香穂子が部屋を出て行き、扉がパタンと閉められた。
再び部屋の中がしんと静まり返る。
扉1枚隔てた向こうに香穂子はいるのに、淋しい、と感じている自分に自嘲の笑みが浮かんでくる。
梁太郎はまだ抱えたままだった足を床に降ろすと、もう一度背伸びしてからお気に入りの机に向き直り、
書籍の塔の中ほどから1冊抜き取って偉大な作曲家の遺物の来歴を紐解き始めた。
* * * * *
さっきから漂ってくる香ばしい香りに、そろそろかな、と思っていると、コンコンと扉が遠慮がちにノックされた。
「梁〜、コーヒー飲まない?」
あまりのタイミングの良さに口元を緩ませ、おう、と短く返事をして、開いていた分厚い本をパタリと閉じて席を立つ。
扉を開けると同時にさらに濃く香るコーヒーの匂い。
梁太郎がリビングのソファにドサリと腰を下ろすと、香穂子が色違いのマグカップを乗せたトレイをテーブルにそっと置き、隣にちょこんと座った。
はい、と差し出されたイエローグリーンのマグをサンキュと受け取る。
香穂子はピンク色のマグの中の熱々のコーヒーにふぅふぅと息を吹きかけていた。
「……なあ」
「ん?」
「あんまり無理すんなよ」
すぼめた口のまま、目をぱちくりさせて梁太郎を見る香穂子。
「部屋ん中が少々汚くても死にゃしねえし、俺がいる時は俺がメシ作るからさ」
「なーに言ってんの。梁の公演、もうすぐなんだから、それ飲んだらさくさくお勉強しなさいよね」
香穂子はずずず、とコーヒーを啜る。まだまだ熱かったのだろう、あちっと呟いて顔をしかめた。
「だから、休むときゃ休めって言ってんだよ。体調管理も演奏家の仕事のうちなんだぜ?」
「わかってるって」
「わかってねぇだろ。お前はそうやって平気そうな顔して極限まで無理をする── 昔っから」
ふぅ、と息を吐いて、香穂子はマグカップをコトリとテーブルに置いた。
と、ボスッと音を立ててソファに背中を預け、左手を天井に向けて突き出す。
梁太郎は香穂子の挙動を不思議そうに目で追った。
その視線の先で、香穂子の左手の薬指を飾る銀色の環が外から差し込む日差しを受けてきらりと輝いた。
「だって、私ってさ、いつもずっと家にいられるわけじゃないじゃない?」
それはお互い様だし、それを承知の上で今があるのに。それこそ『何を今さら』というもの。
「だから、帰ってきてすぐにでも家のことをするのは、私の大切な『儀式』なの」
「…は?」
香穂子の言葉の意味が理解できなくて、梁太郎は天井に向けられた手から香穂子の顔に視線を移してじっと見つめた。
自分の手を見つめていた香穂子は梁太郎の視線に気づいたのか、瞳だけを梁太郎に移してふっと微笑む。
「ヴァイオリニスト『日野香穂子』から、梁の奥さんである『土浦香穂子』に戻るための、ね」
そう言って、香穂子はくすぐったそうにクスッと笑った。
直後、パチンと破裂音が聞こえ、感じたのは腕の痛み。
「やだもぉ、何恥ずかしいこと言わせるのよぉ〜!」
右手で梁太郎の腕をぺちぺちと叩きながら、同時にさっきまで宙にかざしていた左手でソファをバシバシと叩き、足をバタバタとせわしなく動かして。
「イテッ、お前が勝手にしゃべったんだろうがっ。おい、暴れるなって」
あまりに子供っぽい照れ隠しを軽くいなしながらも、『儀式』なんて可愛いことを考えていた香穂子への愛しさが今まで以上に溢れてくるのが止められない。
受け取ってからまだ一度も口をつけていないマグカップをテーブルの上に避難させると、腕を叩き続けている香穂子の細い手首をおもむろに掴んで引き寄せた。
そのまま少々強引に腕の中に閉じ込める。
「うわっ、りょ、梁っ !?」
「ったく、ガキじゃねえんだから、コーヒーくらい静かに飲ませろよ」
「えー、こうしてたら飲めないんじゃない?」
「うるせぇ、黙ってろ」
香穂子は檻に捕らえられて降参したのか、すぐにおとなしくなって、柔らかな頬を梁太郎の胸にぴたりと押し当てた。
動くものがなくなって、壁にかけられた時計がカチッカチッと時を刻む小さな音がやけに大きく聞こえて。
触れ合っている部分から伝え合う温もりとは別に、ほんわりと温かな何かが胸の中を満たしていく。
と、香穂子がくすっと笑って小さく身じろぎした。
「なーんか、幸せ」
鼓膜を震わせる声と、言葉を紡ぐたびに動くこめかみがぴたりと寄せた胸に直に伝える振動が、同時に香穂子の想いを運んでくる。
そうか、この胸に広がる温かさを言葉にすると、『幸せ』ってことになるのか。
そんな気持ちを香穂子と共有できることが嬉しくて。
── ガラじゃねぇな、と心の中で苦笑する。
「梁は?」
梁太郎の無言が気に入らなかったのか、香穂子はぐいっと頭をもたげて問い詰めるような目で睨んでいた。
そんな視線とぶつかって、梁太郎は思わず目を逸らす。
「── 当たり前のこと聞くな、バカ」
言葉に表すのは気恥ずかしいから── 代わりに抱きしめる腕に力を込めた。
【プチあとがき】
ど、ど、ど、どですかぁーっ !?
こんなんで許してもらえますかっ !?
当社比200%増で砂糖投入したつもりなんですけどっ。
設定としては、香穂子はどこかのオケの楽団員、もしくはソリストで絶賛活躍中。
土浦はそこそこ人気の若手指揮者で客演オファーもぼちぼち。
20代後半で子作りお預け中(笑)
そんな感じで。
k@n@さま、リクエストありがとうございました。
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【2007/10/27 up】