■土浦梁太郎の憂鬱【Act.2】 土浦

 そして、新学期。
 ふたりが進級と共に揃って音楽科へ編入し、新しい制服の着心地の悪さが幾分軽減し、背中の赤いヴァイオリンケースが香穂子のトレードマークとなり、 緑のヴァイオリンケースが自分の持ち物として土浦の手に馴染んできた頃──。
 ある休日、土浦は極度の緊張状態に置かれていた。
 レッスンを受けている王崎信武の勧めで、香穂子を交えてアンサンブルをやろうということになったからである。
 まだまだつたない演奏を香穂子の前で披露しなければならない── からではなく。演奏なら、音楽科へ移ったことで必要になったピアノを練習し始めた香穂子と聞かせ合い、 教え、教えられるのが今では日常となっているのだから。だが、それはいつも土浦の自宅でのこと。
 ふたりは土浦がレッスンを受ける駅前のスタジオへと向かっているのだが、実はこの日初めて、ふたつの色違いのケースが並んで公衆の面前に晒されることとなったのだ。
 『やだーあのふたり、おそろいのケースなんか持っちゃって〜』── そんな声が聞こえてくるのも覚悟していた。
 相当な覚悟をもって通りに足を踏み入れてみれば、音楽の盛んなこの街では楽器のケースを抱えた学生なんて見慣れていて、誰も気にしない。
 土浦は拍子抜けすると同時に、自意識過剰だった自分に苦笑した。
 肩の力もすっかり抜けて、目に入る赤と緑のケースに多少気恥ずかしさは残るものの、香穂子と同じ楽器を持っていることがなんだか誇らしくさえ思えてきたのだった。

 数日後の放課後。
「土浦ー!」
 スポーツドリンクといちごミルクを購買で調達した土浦は、香穂子の待つ練習室へ向うべくエントランスを後にしようとしたところで名前を呼ばれ、足を止めた。
 振り返れば、大きく手を振りながら近づいてくるのは加地 葵。去年の秋に香穂子のクラスに転校してきた男だった。
「── よう、加地」
「ねえ、土浦にちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 まったく邪気のなさそうな笑顔── これが意外とクセモノなんだよな、と土浦の眉根がわずかに寄る。
「…なんだ?」
「土浦ってさ、いつからヴァイオリン始めたの?」
「はあっ !?」
 加地のストレートな質問は、不意打ちでガツンと後頭部を一発、程度の衝撃を土浦に与えた。
 土浦がヴァイオリンを習い始めたことは、ごく少数の人間しか知らない。
 新たに楽器を始めた、ということくらい、別に隠す必要もないのだろうが、土浦のプライドは人知れず練習するほうを選んだのだ ── そのおかげで香穂子との関係も一時は危うくなったのだが。
「なっ…、何のことだ?」
 頭の中で機密情報漏洩した容疑者の顔を思い浮かべつつ、目の前の加地に対してはそらっとぼけてみせる。が、左の頬の辺りがヒクヒクしているせいで、 ごまかそうと必死なのがバレバレなのに気づいてないのは本人のみである。
 加地は楽しげに、ふふっ、と笑うと、
「やだなあ、土浦。この間の休日、ヴァイオリンケース持って駅前歩いてたじゃない。日野さんと一緒に」
 ……見られてた !?
 それは当然のことである。学院の最寄の駅ならば、休日といえど学院の生徒がウロウロしていても何の不思議もない。
 この場合、そんな簡単なことを考慮に入れていなかった土浦が悪い。
 土浦の肩がガクンと落ちる。気分はすっかり『orz』である。
「おーい、加地くーん! 土浦ぁー!」
 大きく手を振りエントランスに駆け込んできたのは、この春学院を卒業し、現在付属大学に通う火原和樹。オレンジ色のパーカーにジーンズ、 というラフなスタイルだが、在籍している頃から制服を目一杯着崩していたせいか、この場にいても何ら違和感がない。
「あ、火原さん、お久しぶりです」
「……先輩、なんでいるんすか?」
「なんでって、今日はオケ部の活動日だもの。毎週月水金は来てるの、知ってるでしょ?」
 にぱっと笑う火原。
 土浦の口から、はあ、と深い溜息が漏れる。
「ねえねえ、何の話してたの? おれも混ぜてよ」
 混ざらんでいいっ! 加地もしゃべるな!── 土浦の心の叫びは果たして届くのか?
「── 土浦のヴァイオリンの話ですよ」
 ……届かなかった。
「え、ヴァイオリンって……。ヴァイオリンといえば日野ちゃん、じゃないの?」
「土浦も始めたそうですよ」
「えっ、ウソっ、マジっ !? 聞きたい! 聞かせてよ、土浦っ!」
 火原は土浦の腕をがしりと掴み、ガクガクと揺さぶる。まるで駄々をこねる子どもそのものだ。
 なんで俺がこんな目に…、誰か何とかしてくれ── 土浦が心の中でひとりごちた時。
「あっれ〜、皆さんお集まりで、一体何事?」
 長いウエーブヘアを揺らし、カメラ片手に階段を降りてくるのは、報道部の天羽菜美。土浦と香穂子の事情を深く知る数少ない人間のひとりである。
「ねえねえねえ! 天羽ちゃんは知ってた? 土浦がヴァイオリン始めたって!」
 火原の問いに、天羽はほんの少し眉をひそめ、じろりと土浦の顔を見た。
「あんたってば……もうカミングアウトしちゃったわけ?」
「ちが…っ!」
 言いたいことはわかる。彼女である香穂子にはひた隠しにしたくせに、関係ない人間にはあっさりバラすのか、と。
「その様子だと…、天羽さんは知ってたみたいだね」
「え、あ、まあ……ほ、ほら、私と香穂は親友だし、ね」
 慌ててごまかす天羽。そのあたりの経緯の暴露はされなかったことに、土浦はほっと胸を撫で下ろした。
「── もういいだろ、俺が何の楽器を始めようと。弦や管専攻のヤツらだってピアノは弾ける。だったら、ピアノの俺が他の楽器ができて何が悪い!」
「ふふっ、いやだな、誰も悪いなんて言ってないじゃない。せっかくだから演奏を披露してって言ってるだけで」
「まだ始めてそう経ってないから、人に聞かせるようなシロモノじゃないんだって!」
 切れかける土浦に、加地がニコニコと食い下がっていると、
「あーっ! やっぱりまだここにいた!」
 エントランスホールによく通る聞きなれた声が響いた。
「あっ、日野ちゃん、こんにちは!」
「お久しぶりです、火原先輩〜。って、こんなとこで集まって、何してるんですか?」
 小走りで駆け寄った香穂子が話の輪に入る。
「うん、今ね、土浦にヴァイオリン聞かせてって頼んでたとこ!」
「………へー」
 香穂子のジト目が土浦に向けられた。その視線の意味は、先ほどの天羽と同じもの。
 すかさず天羽が香穂子の耳元で、
「あっさりバラしちゃったみたいよぉ〜」
 口元に手の甲を添え、格好は内緒話風を装っているが、声を潜めることもなく丸聞こえである。
「へー」
「ち、違うって! こないだお前とスタジオに向かってるところを加地に見られてたんだよっ!」
「ふぅん、そうなんだ……まぁ、休日の駅前通りなら、うちの生徒のひとりやふたり、いてもおかしくないもんね」
「わかってたんなら先に言えよ!」
「言ったところで、スタジオには行かなきゃいけなんだから、どうしようもないじゃない」
「うっ……、ま、まあ…、そりゃ、そうだが……」
 冷静に答える香穂子とバツが悪そうにがしがしと頭を掻く土浦。その様子が可笑しくて、他の3人はこみ上げてくる笑いを必死に噛み殺した。
「ところで日野さん、君は土浦を迎えにここへ?」
「ううん、いちごミルクを迎えに♪」
 と、香穂子は土浦の手からピンク色の紙パックをすっと抜き取る。
「あーっ、ぬるくなってるーっ!」
「んなわけあるかっ! 買ったばっかだぞ!」
「待てど暮らせど帰ってこない……、あぁ、私のいちごミルク…」
「そんな時間経ってねぇだろうがっ!」
 突然、香穂子と土浦の夫婦漫才のようなやり取りがパカンという音で中断させられた。
「じゃあ、来週の金曜日でいいよね! その日なら柚木も来れるって!」
 満面の笑みで携帯を振ってみせる火原。
「い、いつの間に電話を……って、何勝手に決めてんですかっ !?」
「あ、じゃあ僕は志水くんと冬海さんに声をかけておきますよ」
「言わんでいいっ!」
「あ、おれ、そろそろオケ部行かなきゃ! じゃ、来週ね!」
 ぶんぶんと手を振って、火原は勢いよく駆け出す。
「あ、僕も約束があったんだ。じゃ、土浦、楽しみにしてるね」
 と、加地もエントランスを出て行った。
「お、おいっ!」
「……ま、ツケが回ってきたと思って観念するんだね」
 じゃあね、と天羽も踵を返して去っていった。
 残されたのは土浦と香穂子、ふたりのみ。
「…くそっ、なんでこんな──」
 項垂れつつ頭を掻く土浦に、香穂子がくすっと笑って耳打ちする。
「じゃあ、こうしない? ──────、ね?」
 土浦は大きな溜息を吐く。香穂子の提案にも、土浦の気が晴れることはなかった。

→【Act.3】

【プチあとがき】
 えーと……。
 一体あたしは何が書きたいんでしょう?
 ま、土浦いじりってことで(笑)

【2007/10/11 up】