■土浦梁太郎の憂鬱【Act.3】
そして、問題の翌週金曜日。
ご丁寧に加地によって予約されていた練習室で、土浦梁太郎は海よりも深い溜息を吐いていた。
「…くそ……なんで俺がこんな目に……」
「梁ってば、往生際悪いよ?」
「うるせー!」
くすくす笑う香穂子にデコピンを一発、土浦は肩にかけていた大きめのスポーツバッグをそっと床に降ろすと、中からバスタオルの塊をもそもそと取り出した。
「そこまでするほど持ってくるのが嫌なら、私の使えばいいのに」
「……慣れたヤツのほうが弾きやすいんだよっ」
子供っぽく拗ねてふくれっ面になる土浦に、額をさすりながら香穂子が苦笑する。
はらりとタオルがめくれ、中から現れたのはグリーンのヴァイオリンケース── あれこれツッコまれるのが嫌で、偽装してきたのである。
逆に『サッカー部復帰!?』と聞かれまくったりはしたのだが。
タオルを乱暴にバッグの中に突っ込んで部屋の隅に放り投げた土浦は、壁際のテーブルの上でヴァイオリンケースを開け、再び溜息を吐いた。
香穂子は不格好に着地したバッグを軽く整えると、その横に自分の荷物を置いて、ピアノへと向かう。蓋を開け、人差し指でポーンとAの音を鳴らした。
「ほら、早く調弦しないと、みんな来ちゃうよ」
「……わかってるって」
とは言ったものの、その動きは鈍い。
ケースの中に鎮座するヴァイオリンを見つめる土浦の口からまたもや溜息が零れた。
「ったく、なんで俺が──」
「もう、まだ言ってる。いいじゃない、人に聞いてもらえば上達も早いってば」
「お前な、ヒトゴトだと思って──」
「だってヴァイオリン弾くの、私じゃなくて梁だもん」
「っ! そりゃそうだが……アイツらに聞かせなくても── いつもお前が聞いてるだろ」
自分で言っておいて、ひとりで照れている土浦。耳がやけに赤い。
「あーダメダメ、私が聞いても意味がないよ」
「はぁ? …なんでだよ」
きょとんとした土浦の顔を見て、香穂子はクスクス笑った。
ピアノの椅子を動かして、ちょこんと腰掛ける。指は再びキーを押さえ、ポーンと音が響いた。
「── だって、弾けてなかったフレーズがちょっとつながっただけでなんか嬉しくなっちゃうから、客観的に聞けないんだもん」
「は?」
香穂子はほんの少し肩をすくめて見せた。
土浦はぽかんとしつつ、今の香穂子の言葉を頭の中で反芻する。
それは、彼女にとって土浦のヴァイオリンは決してヒトゴトなどではなく、その上達ぶりを我が事のように思ってくれている、ということに他ならない。
じんわりと頬が熱くなってくるのを感じて、ごふっと妙な咳払いをしてヴァイオリンの準備をする手を早めた。
土浦が初心者とは思えぬ早さで調弦を済ませたちょうどその時、部屋の扉がノックされた。
「つっちうら〜!」
返事する間もなく開かれた扉から先頭切って入ってきたのは火原。さらに後ろから見慣れたメンバーがぞろぞろと部屋の中に入ってくる。
「うっわ、ホントに土浦がヴァイオリン持ってる〜!」
土浦を指差しながら目を丸くする火原。横にならんだ柚木がなだめるようにその肩をポンと叩く。
「悪いね、土浦くん、無理を言ったみたいで」
「………いえ。…でも期待しないでくださいよ。まだ音が出るか出ないかのレベルなんですから」
「ふふ、わかってるよ。僕たちは、君の新たなチャレンジを見せてもらいに来たんだからね」
「はあ……」
ニコニコ顔の柚木に、土浦は心の中で『わかってるならわざわざ来るなよ』と毒づいた。
ふいにパンッと弾ける音。
叩いた手を合わせたまま、香穂子がピアノ椅子からすっくと立ち上がる。
「それでは、今日はワタクシ日野香穂子が僭越ながら伴奏を務めさせていただきます!」
「ええっ !? 日野ちゃん、ピアノ弾けるのっ !?」
「うふっ、まだまだヘタっぴですけどね」
照れくさそうにペロッと舌を出す香穂子。
「火原、彼女の制服を見て何か思いつかない?」
くすくす笑いながら柚木が問いかけると、火原は腕を組んで首をかしげながら香穂子を見た。
オフホワイトのジャケットに、モスグリーンのボックスプリーツスカートを身につけた香穂子が照れくさそうにえへへ、と笑う。
火原はしばらくしてハッと顔を輝かせると、
「そっか、日野ちゃん、今は音楽科なんだよね! ピアノ、やらなくちゃいけないんだよね〜。おれも今、副科のピアノが大変でさ〜」
ケラケラと笑う火原に釣られるように、香穂子もあはは、と笑う。
そんな和やかな談笑をこめかみをひくつかせながら見ていた土浦は、イライラを隠すことなく香穂子を呼ぶ。
「……おい日野、さっさと終わらせるぞ」
「あー、はいはい、わかってます」
香穂子がピアノ椅子にきちんと座りなおすと、そこは音楽に携わってきた者たちのこと、今までのざわついた空気は一瞬にして静まった。
緊張している今の土浦にとって、その静けさは単に居心地悪いものでしかない。
ごくりと唾を飲み込み、大きな深呼吸をひとつ、香穂子に目配せして演奏開始。
途端にギャラリーが妙な反応を示す。
火原などは今にも吹き出しそうになる口元を必死に両手で押さえつけている。
目の端に入ったその様子に、やっぱりか、と土浦はげっそりとしながらも口をぎゅっと引き締め、演奏を続けた。
ふたりが演奏している曲は『きらきら星変奏曲』。
ピアノを専門にしている土浦にとってはおなじみの曲ということで、土浦のヴァイオリンの師匠である王崎が選んだものだ。
耳なじみのある旋律を土浦のヴァイオリンが取り、伴奏は香穂子の今のピアノの腕に合わせて簡単にアレンジしてある。
その楽器を始めたばかりの二人の演奏は本当につたないものだったけれど、一生懸命に弦を鳴らす土浦と、楽しそうに鍵盤に指を走らせる香穂子の様子に、
聞いている皆の顔にはほのぼのとした笑顔が浮かんでいた。
第3変奏が終わり、土浦はふぅと息を吐いて弓を下ろした。
「あれっ? もうおしまい? 続きは?」
「……まだここまでしか弾けません」
土浦は憮然とした顔で一言答え、尋ねてくる火原に見せつけるようにさっさと弓と弦を緩めていく。
「えー、他の曲は? ね、おれ、トランペット持ってくるから、一緒にやろうよ!」
「……先輩と一緒に演奏するほどのレパートリーはありません。あったとしても、先輩が笑いをこらえるようなものしかありませんよ」
明らかに機嫌を損ねた土浦にやっと気づいたのか、火原は大慌てでぶんぶんと手を振った。
「違う違うっ! 演奏がどうとかじゃなくって、その、なんていうか、土浦ってショパンとかリストとかのイメージがあったからさ!」
「は…?」
「その、土浦がモーツァルトって、なんか可愛いな〜と思っちゃって」
「はぁ !?」
「……ごめん、土浦」
「……いいっすよ、もう…」
叱られた子犬のようにしょんぼりしている火原を見れば、それ以上何も言えなくなって、土浦は溜息を吐いた。
半分は演奏技術の未熟さを笑われたのではないとわかっての安堵の溜息だった。
まあ、ここにいる誰もが、人の未熟さを笑うような人間ではないとわかってはいたけれど。
「ふふ、またいつか聞かせてもらえるのを楽しみにしてるよ」
柚木の笑みに、もう勘弁してくれ、と思いながらも、まあそのうちに、と無難に答えておく。
ようやく厄介事から解放されたと安堵の息を漏らし、無意識に香穂子のいるピアノの方へ視線をやる── と、なぜか視界に入ってきたのは志水だった。
「おわっ! ど、どうした志水…?」
土浦と香穂子の間に立っている志水は、ヴァイオリンのネックを掴んでいる土浦の手をじっと見つめていた。志水はちょっと首を傾げ、
「すみません、そのヴァイオリン、見せてもらってもいいですか?」
と、両手を出す。
土浦は怪訝に思いながらも、おう、と答えて、志水の手の上にヴァイオリンをそっと乗せてやる。
受け取った志水はじっとヴァイオリンを見つめ、再び首を傾げる。そしてくるりと踵を返すとピアノ椅子に座ったままの香穂子のところへと向かっていった。
「…日野先輩、これ、構えてもらってもいいですか?」
「え? あ、うん、いいけど…」
立ち上がった香穂子が志水からヴァイオリンを受け取り、言われるままに構えてみせた。
「あ……ヴァイオリンが小さいんじゃなかったんですね…」
「え…?」
志水は香穂子からヴァイオリンを受け取り、土浦へと返す。
「…ありがとうございました……僕も早く大きくなりたいです…」
「は…?」
ぺこりとお辞儀をして、志水は練習室を出て行った。
「ふふっ、志水くんには土浦のヴァイオリンが分数ヴァイオリンにでも見えたんじゃない?」
「はあ? ……たく、好きでデカくなったわけじゃねぇよ」
くすくすと笑う加地に背を向けて、苦い顔でヴァイオリンをケースに収めていると、突然「あーーーーーっ!」と火原が大声を張り上げた。
「なっ、なんなんですかっ !?」
「ねえねえ、さっきから気になってたんだけどさ、土浦のケースって日野ちゃんのと色違いのおそろい?」
ギクリ。
土浦の手が止まる。
「あ、本当だ。気づかなかったけど、同じ型みたいですね」
「おそろいって……なんだか素敵ですね、香穂先輩」
加地と冬海が追い討ちをかけた。
「あ、あはははは……ありがと、笙子ちゃん」
苦笑する香穂子はちらりと土浦を見て、ぷっと吹き出した。赤くなった顔を深く俯け、丸めた背中がぷるぷると震えていたからである。
「さあ、ふたりも練習があるだろうし、僕たちは失礼することにしようか」
「えーっ、まだいいじゃん」
「オケ部には行かなくていいの? 火原」
「あっ、やべーっ! じゃあね、土浦、日野ちゃん! また今度聞かせてね!」
そして、嵐のようにやってきたギャラリーたちは、土浦が一番触れてほしくなかったところにさらりと触れて、再び嵐のように去っていった。
開けっ放しのケースが置かれたままのテーブルに両手をついて、土浦ははぁーっと大きな息を吐いた。
「あー、なんか楽しかったね」
「……楽しくなんかあるかっ」
「ふふっ、梁、顔真っ赤だよ」
ひょこひょこと傍まで近づいてきていた香穂子がクスクス笑いながらすっと手を伸ばし、そっと土浦の頬に触れた。
「ぅわっ !? 冷てぇ!」
「そう? これでもだいぶ血が通ってきたほうなんだけどな」
土浦は頬から外した香穂子の手を両手で挟む。その指先は氷に触れた後のように冷たかった。
「もしかしてお前…、緊張してたのか?」
「そりゃあね。だって私、ピアノ初披露だもん」
「…そんな風には見えなかった…」
「まあね〜。誰かさんがものすごく緊張してたから、私まで『緊張してますオーラ』出しちゃったら演奏なんてできないでしょ?」
「うっ……お前、すごいな」
「ふふん♪」
空いた手を腰に当てて胸を張る香穂子。
土浦は思わず香穂子をぐいっと引き寄せ、抱きしめた。
「…やっぱり俺は、お前がいないとダメなんだろうな」
「惚れ直した?」
「…直さなくても── 惚れてるよ」
真っ赤な顔を見られたくなくて、土浦は香穂子を抱きしめる腕に力を込める。
「── お前のこと、大事にしないとバチが当たりそうだ」
「それならもう当たっちゃったじゃない」
「は…?」
腕の力が緩んだ隙に、香穂子はぐっと顔を上げてニヤリと笑う。と、するりと腕から抜け出してピアノへと向かい、澄ました顔で『キラキラ星』を弾き始めた。
……なるほど。
今日、皆の前でヴァイオリンを披露しなくてはならなくなったのも、いろいろとからかわれる羽目になったのも、すべては『身から出た錆』。
コンミス試験で大変な思いをしていたはずの香穂子を思いやることも忘れて、自分のことだけにかまけていた罪に対する罰なのだろう。
浮かんでくる苦笑に思わず髪を掻き毟る。
香穂子のキラキラ星が第1変奏に移った。
土浦はヴァイオリンケースをそっと閉めると、香穂子の生み出す星々をさらに増やすべくピアノへと向かった。
── 翌日、実はこっそり入り込んでいた天羽によって、土浦のヴァイオリン演奏姿が号外となって全校生徒に配られることになるのを、まだ彼らは知らない…。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
……時間かかったわりに…なんじゃこりゃ、な感じだなぁ。
結局、土浦さんにはいい思いをさせちゃったかな?
もっといろいろ土浦いぢりをしたかったのだが……むぅ。
ま、とにかく土浦は香穂子さんには敵わない、ということで。
【2007/10/18 up】