■愛しのディーヴァ【1】
「えぇぇぇっ !? ヴォーカルっ !? わ、私がっ !?」
日野香穂子が自分の鼻を指差しつつ、目を真ん丸にして素っ頓狂な声を上げた。
「そう、ヴォーカル。やっぱりバンドの華といえばヴォーカルでしょ」
「いいね、それ!」
「ヴォーカルが女の子なら、さぞかし華やかになるだろうね」
この秋、この星奏学院に転入してきたばかりの加地の提案に、火原先輩と柚木先輩もニコニコと同意する。
「そ、そんな〜、無理ですよ。私、人前で歌ったことなんてないですもん!」
少し青ざめた顔で、日野は顔の前でぱたぱたと手のひらを振って拒否の意思表示をするのに必死だ。
音楽科のあるこの学院では、当然のごとく音楽活動が盛んだ。
クラシック音楽には縁のない普通科の生徒だって、軽音楽部や気の合った仲間同士でバンドを組んでいたりする。
練習するからには披露する場が欲しくなるのは当然で、その唯一の機会が文化祭のステージということになる。
観客は全校生徒とは言わないまでも、相当な数の動員があるのは毎年のこと。
その観客の投票によるコンテスト形式になっていて、3位までに入ればささやかながら賞品も出る。
文化祭が近づくごとに勉強そっちのけで練習に励むバンド同士の間には激しい火花が散るほど。
そのステージで歌を歌うなんて、自分だったら天地がひっくり返ってもまっぴらごめんだ。
「わ、私……タンバリンとかならやれると思うんですけど──」
「── 日野」
何とかヴォーカルという大役から逃げ出そうと捲し立てる日野の言葉を遮ったのは、意外にも月森だった。
腕を組み、いつも不機嫌そうな顔に疲れのような色を見せ、ポツリと口を開く。
「俺も…… 俺もなんとかギターをやってみる。だから君も──」
「他人事だと思って!」
日野はつかつかと月森の前に歩み出て、拝むように両手を顔の前でパシンと合わせた。
「だったら私がギターやるから、月森くんがヴォーカルやって!」
「は !?」
「お願い! この通り!」
周囲の人間から一目も二目も置かれ、人との関わりを自分から断っているような男が、たかが1日限りのバンドのことでそんなフォローをするのも意外だったが、
そんなヤツにそんなお願いを躊躇なくすることができる日野という女もたいしたもんだと改めて感心する。
そんな女だからこそ、身構えることなく接することができるのだろうが。
他のヤツらには決して言わない『音楽への思い』を口にできるのは、なぜか日野の前でだけなのだ。
『普通科同士』で『戦友』であり『ライバル』だった彼女に、今では違う想いを抱いていることに気付いた時には狼狽した。
けれど逆に『ああ、やっぱり』と納得している自分がいたことも事実だった。
そしてそれは俺だけのことではなく、ここにいるメンバー── 堅物の月森や『日野ファン』を公言して憚らない加地も含め── も同じであることは明白なのだ。
それは、音楽にひたむきに取り組む日野の姿と、それをそのまま表現したような真っ直ぐで伸びやかな、聴く人を魅了する音色のせいであることは間違いない。
日野がヴォーカルを頑なに拒否するのならば無理してバンドなんかやらなくても、とも思ったが、歌うようなヴァイオリンの音色を声に置き換えた時にどのように『歌わせる』のかに
興味のあった俺は、日野には悪いと思いながらも沈黙を守ったのだった。
「じゃあさ、こうしない?」
延々と続く日野と月森の『お願い!』『いやだ』の押し問答に、加地が割り込んだ。
「とりあえず練習してみて、最悪本番はヴォーカル抜きで。でも──」
「でも?」
加地の提案に日野の顔が一瞬輝き、一瞬の後に眉を曇らせた。
「日野さんの奏でる音楽は僕の心を捕らえて放さないほどに魅力的だから、ヴァイオリンをマイクに持ち替えてもきっと素敵だと思うんだよね。僕、聴いてみたいな」
「そんな…… おだてても無理なものは無理だよ」
「ふふっ、おだてなんかじゃないよ、僕が君の音色に捕らわれているのは事実だからね」
加地の口をついて出る、歯の浮くようなセリフに内心呆れながら日野の顔を見ると、気持ちが揺らいできたのが手に取るように見て取れた。
「僕たちは君のヴォーカルが輝けるような演奏をすることを、君に誓うよ── ね、みなさん?」
いきなり話を振られ、皆の顔に苦笑の入り混じった同意の笑みが浮かぶ。
唯一俺だけは、険しい視線を加地に向けていたが。
日野はそれぞれの顔をぐるりと見回して、「じゃあ…… 練習してみます」と、消え入りそうな声で呟いた。
こうしてコンクールメンバー+1による即席バンド『Stellato』は結成されたのだった。
数日後。
下校の時間を知らせる放送が校内に響き、俺はピアノを弾いていた手を止め、楽譜を片付けて練習室を出る。
手にはいつものカバンと、もう一方の肩に持ち慣れないベースを引っ掛けて。
たかが学内の文化祭での演奏とはいえ、手を抜くことはできない── アンサンブルでのピアノも、バンドでのベースも。
アンサンブルで他の楽器と合わせる楽しさを知った今、ベースで低音部を支えるということが意外と楽しかったりもする。
だが── 一番大変なのは日野だろう。
文化祭2日目のステージで演奏する3曲のうち、編成にピアノが含まれるのは1曲のみ。
しかしリリ絡みで仕方ないとはいえ、彼女は3曲全てに1stヴァイオリンで参加する。
その上、ヴォーカルとしても舞台に立つ── その練習量と緊張感はいかばかりのものか。
いろんなことに巻き込まれ、巻き込まれたからには泣き言ひとつ言わずやり遂げる── コンクール然り、アンサンブル然り。
あの細い身体に似合わぬ根性は、漢(おとこ)らしいとも言える。
女に向かって『漢らしい』もないよな、と苦笑したところで二つ隣の扉から出てきた日野と出くわした。
「あ、土浦くんも練習中だったんだ?」
たった今、考えていた当の本人と出くわしたせいでよほど驚いた顔をしていたのか、日野は不思議そうな顔で小首を傾げた後、ちらりと肩のベースに視線を走らせてからニコリと笑った。
その笑顔に、トクンと鼓動が高鳴る。
「まあな…… で、どうなんだ? 歌のほうは」
「あぅ…… 聞かないで……」
露骨に眉を曇らせて、がっくりと肩を落とす。
「こればっかりは練習すればうまくいくってもんでもないし…… 毎日胃が痛くて」
へへっ、と弱々しい笑みを浮かべる日野の顔は、ヴァイオリンを奏でる時の堂々とした表情からは想像できないほどに引きつっていた。
「── 練習終わったんなら、一緒に帰るか」
「ごめーん、実はこれから天羽ちゃんに付き合ってもらって、カラオケで特訓なんだ」
「………そうか、頑張れよ」
落胆を必死に隠しながら、俺はニヤリと笑って日野の肩をポンと叩いた。
「うん、ありがと── あっ!」
俺の背後に何かを見つけたのか、突然駆け出した日野は俺の横をすり抜けて行く。
「月森くーん! ちょうどいいところに!」
振り返れば、ちょうど練習室から出てきた月森の姿があった。
カバンといつものヴァイオリンケースしか持っていないところを見ると、ギターは自宅でのみ練習しているのだろう。
眉間に皺を寄せた月森と一瞬睨み合う。間違いなく、俺も似たような表情をしているに違いない。
月森のところへ駆け寄った日野は、ヴァイオリンケースをそっと床に置くと、カバンから数枚の紙を取り出した。
それは俺も、もちろん月森も持っているバンドで演奏する曲の楽譜。
「ここなんだけど、CD聞いてもよくわからないし、何度やっても口が回らなくて。正しい発音、教えてくれない?」
「…… なんで、俺に…?」
「あれ? 月森くん、英語得意って言ってなかったっけ? とにかく、正しい発音ならいけるのかな、と思って」
確かに、途中少し早口めの英語の歌詞がある。
それを適当にごまかしてしまおうとは思わず、発音でなんとかしようと考えるとは、なんて前向きな。
日野が指差した単語を月森が綺麗な発音で口にし、それを日野が復唱する。
何度かそれを繰り返した後、
「うん、なんとなくわかったような気がする!」
満足そうに楽譜をカバンに片付け、ひょいとヴァイオリンケースを持ち上げる。
「ありがと、月森くん。また聞いちゃうかもしれないけど、その時はよろしくね。じゃ、ふたりともまた明日〜!」
バタバタと慌しく走っていく日野の後ろ姿が見えなくなった後、突っ立ったままだった俺と月森は顔を見合わせて、お互いに思わずふっと笑ってしまっていた。
ステージ本番まであと3日── 『Stellato』全員が揃っての初めての練習。
メンバーそれぞれが忙しく、これまでは個人練習か、たまたま時間が合った数人だけでの練習しかできなかった。
講堂を貸切にしての練習は今日1回のみ、後は本番前日の最終リハーサルだけとなる。
チューニングしつつ音を出しているメンバーの雰囲気は、なんとなく浮き足立っているようだった。
それは、これまで誰とも一緒に練習してこなかった日野のヴォーカルが初披露されるからに他ならない。
まずはヴォーカル抜きで合わせてみる。
楽器は違えど、さすがに音楽をずっとやって来た者たちばかりだけあって、細かい部分を直せばいい程度に出来上がっていた。
「うん、いい感じだね! じゃあ、次は日野ちゃん入ってみようか!」
貸切で誰もいないはずの客席から声が飛ぶ。
取材がてらプロデュースを買って出た天羽の大きな声だ。隣には冬海がちょこんと遠慮がちに座っている。
「僕らのディーヴァ、満を持しての登場だね!」
加地が書けた声に、日野の頬がかっと赤く染まった。
「もう、そんなこと言わないでよ! 心臓バクバクで死にそうなんだから!」
マイクスタンドのマイクの位置を調整しながら、小さく地団駄を踏む。
そして、俺たちの方にくるりと振り返ると、ペコリと頭を下げた。
「日野香穂子、精一杯歌いますので、よろしくお願いします!」
火原先輩がドンドンドンと拍手のようにバスドラムを打ち鳴らした。
「楽しもうね、日野ちゃん!」
「はい!」
スティックを鳴らし、カウントを取り──。
初めて聞く日野の歌声に、皆が一様に目を見開いた。
スタンドのマイクを握り締めたまま、肩幅に開いた足でテンポを取りつつの歌には硬さがあるものの、音程は正確、声量も十分で高音の伸びもいい。
月森に発音を聞いていた英語の歌詞も澱みなく見事に歌い上げていた。
聞き惚れるには十分の歌声だった。
【プチあとがき】
さーて、文化祭バンド話でございます。
妄想と大袈裟とわけわかめが渾然一体となった問題作(笑)
まあ、てきとーに読み流してください。
【2007/04/02 up】