■土浦梁太郎の決意【13】 土浦

 優勝者の栄誉を称える祝賀パーティは、コンクール会場にほど近いホテルに場所を移して行われた。
 どういうルートで頼み込んだかは知らないが、テレビ局の撮影クルーは地元の新聞や雑誌の記者と同様にプレス待遇でちゃっかり会場に潜り込んでいる。 そのおかげで神崎もこの場にいられるのだから感謝しなければならないのだが。
 優勝者を含めたファイナリストたちと、それぞれの協奏曲を担当したソリストたちにオーケストラのメンバー。 審査員やその他の関係者に大勢のプレスが加わって、広い会場は息苦しいほどにごった返していた。息苦しいのはこういう場に初めて参加するからに他ならない。
 恐らく審査員長であろう年配のでっぷりした銀髪の男性の決して短くないスピーチの後、手にした飲み物で乾杯をして。 それからはブッフェスタイルの食事を楽しみつつのフランクな懇談会のようになっていった。
 その中でも一際大きな集団があった。もちろんその中心にいるのは今回のコンクールの優勝者である。
 何か話が聞けないものかと、神崎は意を決してその集団へと飛び込んだ。厚い人垣を無理矢理掻き分けて突進していく。
 なんとか開けたスペースに顔を出せた時に見えたのは、優勝者とソリストががっちりと固い握手を交わしている場面だった。
「── 改めて……優勝おめでとう、土浦」
「サンキュ、月森」
「いい演奏だった── 昨日の時点ではどうなることかと思っていたが」
「……それを言うなって」
「あとは君次第だ」
「わかってるさ」
 日本語で交わされる気安い会話に驚いた。彼らは知り合いだったらしい。
 二人が手を放した途端、周囲を取り囲んでいた人間たちが優勝者へと群がった。彼は照れ臭そうな笑みで祝福の言葉に応え、差し出された何本もの手を握り返していく。
 その時、少し離れた場所でどよめきが起きた。苦労して掻き分けた人垣はあっけなく崩れ、見えたのは会場とロビーを繋ぐ出入り口の扉。 ゆっくりと閉まっていく扉の方へと必死に戻ろうとする女性を、金髪の若い男性が無理矢理引きずっていた。
「── ちょ、は、放してってば、ロイ! 私は部外者なんだからっ!」
「大丈夫だって、レンもいるんだし。それに優勝したのは学生時代の仲間なんだろ? おめでとう、くらい言ってあげなよ」
「ほ、ほんとにいいんだってば!」
 引きずられている女性は香穂子だった。

 神崎は彼女のことをすっかり失念していたことに激しい罪悪感を覚えた。彼女のあんな姿を目にした直後だというのに、薄情すぎるにも程がある。
 『土浦』が舞台に現れた時に驚愕の表情を見せた彼女は、曲が終わって彼が舞台袖に姿を消した後も最初に見た時と寸分違わぬ口元に両手を当てたポーズのままだった。
 結果発表までの待ち時間、彼女の硬く強張った身体から力が抜けていった。手の位置はそのままに、顔がどんどん下がっていく。 結果、彼女の両手はすっぽりと顔を覆い隠し、そのまま深く俯いてしまった。
 優勝者の発表に沸く会場。コンクールの閉幕が告げられ、興奮気味の観客たちがぞろぞろと会場を後にしていく。 香穂子にサインや握手を求める者たちが声をかけてくるが、彼女は一切顔を上げることはなかった。決して無視しているわけではなく、彼女だけがどこか別の場所に隔離されているようだった。
 神崎は只事ではない彼女の様子に動揺した。機材を片づけた撮影クルーから「移動しますよ」と声をかけられたが、彼女を残してここから立ち去るのはさすがに忍びなかった。
 すぐ行きます、と返事をして、少し迷った後で香穂子の肩をそっと揺すった。
「日野さん? 大丈夫ですか?」
 ようやくゆるゆると顔を上げた香穂子は── 泣いていた。
 思わずギョッとして、もう一度、大丈夫ですか、と声をかける。
「え……あ……大丈夫、です」
 弱々しい笑みを浮かべる彼女はとても大丈夫なようには見えなかった。
 撮影の責任者である友人が神崎を呼びに来た。香穂子がいることに驚いていたが、パーティ会場に移動するわよ、と神崎を急かす。 失礼します、と香穂子に向かって一礼し、外へ出ていった。彼女にとっては撮影スケジュールが最優先事項なのだから仕方のないことだ。
「……行ってください」
 香穂子はまだ痛々しい儚い笑みを浮かべていた。
「── よかったら使ってください」
 カバンの中から出したハンカチを香穂子に差し出した。怪訝そうな彼女は頬に手を当て、初めて自分が泣いていることに気付いたように驚いていた。 ありがとう、と小さな声で呟いて、ハンカチを受け取り目元を押さえた。
 神崎は後ろ髪を思いっ切り引っ張られているような思いだったが、待たせるのも置いていかれるのも立場上よろしくない。仕方なくその場を後にしたのだった。

 人垣で作られた花道を引きずられてきた香穂子は、金髪の男性に背中を押し出されてたたらを踏みながら『土浦』の前に立った。彼女を前にした『土浦』は瞠目して呆然と立ち竦んでいる。
「あ、えと……客席でぼんやりしてたらロイに見つかっちゃって……連れて来られちゃったっていうか……」
「来て、た、のか……」
「うん……」
 『土浦』がバッと振り返った。責めるような視線の先には月森がいる。
「……ロイは俺のマネージャーだ。今朝、俺たちが高校時代にアンサンブルを組んだことがあると少し話しただけなんだが……すまない」
「いや……いいんだ」
 申し訳なさそうに表情を曇らせる月森に、『土浦』は諦めたように軽く手を振った。
 何か大失態をしでかしてしまったことを察したロイは気の毒なほどオロオロして三人の顔を見比べている。
「月森くんの演奏聞こうと思って来たら、梁がいるんだもん、びっくりしちゃった。と、とにかく優勝おめでとう。よかったね。頑張って」
 口早に言って、じゃあ、と香穂子は踵を返す。
「香穂っ!」
 出口へ向かう香穂子の足が止まった。
「……なんだよ、他人事みたいな言い方しやがって」
 微かに怒気を含んだ絞り出すような声に、香穂子は小さく身体を震わせる。
「── 悪い、そうじゃなくて……」
 戸惑いがちに言いよどむ『土浦』の手から月森がグラスを抜き取り、小さく顎をしゃくった。『行け』ということだ。
 サンキュ、と小さな呟きを残して『土浦』は香穂子に向かって大股で歩き出した。足を止めることなくすれ違いざまに彼女の手首を掴む。
「ちょっと来い」
「えっ」
 香穂子はついさっきマネージャーに引きずられてきた道を逆に辿ってロビーへと連れ出されていった。

 主役である優勝者が姿を消してしまった会場は水を打ったように静まり返っていた。 会話がずっと日本語で行われていたため、何が起きたのか理解できないまま取り残された者たちはポカンとして立ち尽くしている。 ただ、頭の中ではプロ指揮者の道を掴んだ青年と有名ヴァイオリニストの関係に関する憶測がぐるぐると渦巻いているのだろうということは、どの顔を見ても容易に推測できた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ふふふ、マネージャーsの名前の出典にお気づきになりましたね?(ニヤリ)
 ええ、大佐と中尉ですわ。
 ちと短めなんですが、キリが悪いのですみません(汗)
 次回は五十音【ん】のばーぢょんあっぷ版。(相当アレンジしてますが)

【2009/11/17 up】