■土浦梁太郎の決意【14】 土浦

 パーティ会場を出た梁太郎は広い廊下を奥へと進んでいった。もちろん掴んだ香穂子の手は離さずに。
 廊下の突き当たり、部外者立入禁止の扉の前で足を止める。ここならフロントからも距離があるし、意図的でない限り人は来ないはずだ。
 前を見ていなかったのか、急に止まったせいで香穂子がよろめいて、扉の傍に置かれた観葉植物の葉がガサガサと耳障りな音を立てて揺れた。
「──── 痛いよ
 俯いたまま小さな声で呟いて、掴まれた手を引っ込めようとする香穂子。
「あ、悪い」
 ほとんど反射的に詫びの言葉を口にするも、手は掴む力を緩めるだけに留めた。今完全に放してしまえば、二度と掴むことができなくなりそうな気がしたのだ。
 梁太郎は香穂子のほっそりした手首を緩く掴んだまま、彼女の正面に立った。いつもなら表情豊かな大きな瞳を捉えるはずの視界には、深く俯く彼女のつむじが見えている。
「その……黙ってて、悪かった── いろいろと」
 彼女を掴む手のひらにピクリと何かが動く感触が伝わってきた。彼女が拳を強く握り締めていた。
「お前がずっと悩んでたって、昨日月森から聞いた……辛い思いさせて悪かった。このコンクールが終わったら── いや、コンクールで優勝できたら言おうと決めてたんだ」
「もう……いいよ。私は大丈夫だから……ひとりで歩いていけるから──」
 香穂子が小さく首を横に振りながら後ずさる。梁太郎はすかさず緩く拘束したままの手に力を込めて引き留めた。
「最後まで聞けって」
 梁太郎は空いている手を懐に突っ込んだ。
 再び引き出される手と、ゆっくりと顔を上げる香穂子の視線が重なる。
 瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「それ……まだ持ってたの…?」
「ああ、お前がくれたんだぜ? 当然だろ」
 懐から出した彼の手に握られていたのは、昔香穂子が彼に贈ったお守り袋。
 片手で器用に袋の口を広げると、掴んでいる彼女の手を引き寄せて手のひらを上に向けさせ、その上でお守り袋を逆さにして軽く振る。コロン、と硬くひんやりしたものが転がり出た。
「あ」
 銀色に輝くリング。その一点で誇らしげにきらめく透明な石に香穂子は目を奪われた。
「こいつと一緒にコンクールを戦ってきたんだ。おかげで何とか優勝もできた。だから──」
 梁太郎は香穂子の手のひらから銀の環をそっと摘み上げた。ふ、と口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「── こいつを、貰ってくれないか」
「え……」
 理解不能な言葉を耳にしたかのように呆然としている香穂子。今の言葉が何を意味するのか必死に考えているのだろう、きゅっと眉根に皺が寄る。
「だからっ! け……け、結婚、するぞ」
「……誰が…?」
「俺がっ!」
「……誰と?」
「お前以外に誰がいるんだよっ!」
 コントのようなやり取りだったが、もちろん香穂子はわざとやっているわけではない。今の今まで彼の口から別れ話を聞かされる心の準備を懸命に整えようとしていたのだから。
 だが、そんな彼女の反応に焦れた梁太郎が声を荒らげる。
 その瞬間、香穂子の姿がすっと掻き消えた。
 いや、力の抜けた足が身体を支え切れなくなって、その場にへたり込んでしまったのだ。 梁太郎の手の中から彼女の細い手首が勢いよくすり抜けて、まるでストンと落とし穴に落ちたような崩れ方だった。
 うずくまるようにして両手で顔を覆い、肩を震わせている。
「香穂?」
 彼女の前にしゃがみ込み、手に隠された顔を覗き込もうとする。
 と、腕の1本が伸びてきて、胸にドンッと衝撃。突き飛ばされてバランスを崩した梁太郎は尻餅をつく。
「イテッ、なっ、何すんだよっ」
「……空っぽのケース見つけた時、私がどんな思いをしたのかわかってるの…?」
 ぞっとするほどに低い、地の底を這うような声に梁太郎はギクリとする。情けない尻餅の恰好を胡坐に変え、背中を丸めて項垂れた。座り方が変わっても、情けなさは変わらなかった。
「……まさか見つかるとは思ってなかったんだ。ほんとに……ごめん。悪かった」
「私に嘘ついて、内緒でコンクールに出てるし」
「だからそれは優勝したら──」
「もうっ! 紛らわしいことしないでよっ!」
 香穂子は手に持っていた小さなバッグを投げつけた。余程力がこもっていたのか、小さいくせにボスッと重い音を立てて梁太郎の肩口にぶつかったバッグはぽたりと彼の膝の上に落ちた。
「なっ !? そう言うならお前こそ、ケース見つけた時にさっさと問い質しゃいいだろうが!」
「聞けるわけないでしょ! 『この中身、どこの誰に渡したの?』なんて……聞ける、わけ…ないよ……」
 顔を覆っていた香穂子の手が力なく膝に落ち、縋るようにスカートをギュッと握り締めた。
「……だよ、な……悪かった」
 二人して床に座り込み、向かい合って深く項垂れる姿は滑稽だった。当人たちにとってはそんなことに気を回す余裕はなかったけれど。
「で……返事は…?」
「……何の」
「『何の』ってお前な……だから、け、結婚、するのか? しないのか?」
 ゆっくりと香穂子が顔を上げた。随分化粧が崩れ、抑えきれない怒りを滲ませた顔を。何かを堪えるようにきつく下唇を噛みしめて。 立っている状態だったなら、恐らく梁太郎は怯んで後ずさりしていただろう。
「うおっ !?」
 いきなりビシッと目の前に手を突き付けられて、彼は思わずのけ反った。
 香穂子がぷっと小さく吹き出して、
「── するに決まってるでしょ」
「お、おう……」
 呆れたような微苦笑を浮かべる彼女の突き出された手── 左手をそっと掴んで引き寄せる。
 いつの間にか手の中に握り込んでいた銀色の環を彼女の薬指に──
「……三度目はないからね」
「う」
 低く呟く香穂子の声に、環は爪の上でぴたりと動きを止めた。
 言われてすぐに脳裏に浮かぶのは高校生の頃のこと。始めたばかりの指揮の勉強が面白くて、いろんな楽器を知ろうと彼女には秘密でヴァイオリンを習ったことがある。 彼女の親友と共に現場に踏み込まれ、ひと騒動あったのだ。
 そして今回のこと。
 一度目も二度目も自分の思い込んだことに突っ走った挙句、彼女を振り回して傷付けている。
 考えれば考えるほど自分自身が不甲斐なくて、梁太郎はげんなりと項垂れた。
「……俺って成長してないんだな」
「だったら、梁が今後過ちを繰り返さないように、私がしっかり見張っててあげる」
 ふんわりと笑う香穂子。
 彼女の笑顔を見るのはものすごく久し振りのような気がして、梁太郎は泣きそうになった。
 急いで銀のリングを指の根元まで押し込んで、そのまま包み込むようにして彼女を抱き締める。
「ああ、頼む。これからずっと……一生、な」

 徐々に頭が冷静になってきて、自分たちがホテルの廊下の片隅で床にぺたりと座ったまま抱きしめ合っていることに気付き始めた二人。 どちらからともなく身体を離して見合わせた顔に気恥ずかしさとバツの悪さが苦笑になって表れた。
 先に立ち上がった梁太郎が香穂子の手を取り、引っ張り上げた。
「── さて、と。やっぱ会場に戻らないとな」
「そうだね、今日のパーティの主役は梁だもん……じゃあ、私は先に帰るね」
 出口の方へと歩き出した香穂子は1歩しか足を踏み出せなかった。梁太郎に手を掴まれたままだったのだ。
「……食い物あるぜ。何か食ってけよ」
「は……はい?」
「あれだけ人数がいるんだ、ひとりくらい増えてもどうってことないだろ」
「い、いや、そういう問題じゃ……リザのとこに荷物取りにも行かなきゃいけないし」
「荷物は明日にしとけよ……俺も行くから」
「え」
「……頭下げといたほうがよさそうだし、いろいろと」
「あ……まあ、そうかも……いっぱい迷惑もかけちゃったし」
「んじゃ、決まりな」
 ぐいっと引っ張られて足を縺れさせながらも隣に並び、パーティ会場へ戻っていく。
「── 話題に、なっちゃうね」
「かもな」
「当分は『あの日野香穂子の夫』って肩書きがついちゃうよ」
「だろうな。だが、すぐに『あの土浦梁太郎の妻』って肩書き、お前にくれてやるさ」
「ふふん、せいぜい頑張ってちょうだい」
「ああ、言われなくても頑張るさ」
 互いにニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ。
 しっかりと手を繋いだまま同時に押し開けた扉の向こうには祝福の拍手とフラッシュの嵐が待っていた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 さあ、いろいろあったお二人ですが、無事婚約なさいましたよ。
 てなわけで、五十音【ん】のバージョンアップ版。
 予告通り流れ的にいろいろアレンジ加えたら「ん」がどっか消えちゃったという(笑)
 ラストの部分は蛇足っぽいけど、まあ書いちゃったからいっか、と。
 ともあれなんとか書き上げることができました。
 ここまで長くなるとは自分でも思ってなかったといいますか。
 裏主役は月森さんだったかもしんないなー。
 長々とおつきあいくださいましてありがとうございました。
 あとはおまけを何本か書きたいと思いますので、そちらもよろしくです。

【2009/11/20 up】