■土浦梁太郎の決意【12】
「── あらカホコ、出かけるの?」
外から戻ってきたリザは、スーツケースを引っ張り出して限られた服を物色している香穂子に声をかけた。
日本からウィーンへ戻ってきて以来、香穂子は身を寄せるリザのアパートからほとんど一歩も外へ出ていない。
リザも香穂子の撮影が終わってからは月森のマネージャーに仕事の引き継ぎをして、ずっと香穂子に付き添っていた。今日はどうしても事務所に顔を出さなければならなくて出掛けたが、
留守にしていたのはたった2時間ほどだ。
「……うん、月森くんの演奏、聞きに行こうかなって……好きな曲だし」
「そう……コンクールといっても演奏会みたいなものだし、いい気晴らしになるかもしれないわね。楽しんでいらっしゃい」
「うん、ありがと」
生気が抜け落ちたような弱々しい笑みを浮かべる香穂子。
元々華奢な身体は食欲が落ちたせいでますます痩せ細ったように見える。実際痩せたのだろう。目の下にはうっすらと隈もできていた。まるで病人のようで痛々しかった。
「出かけるなら私がメイクしてあげる。せっかく出掛けるなら綺麗になって行かなくちゃね」
「あ……そっか、メイク……」
呟く香穂子は放っておいたらノーメイクで出かけたに違いない。気づいてよかった、とリザはこっそりと溜息を吐いた。
今日の月森の演奏は撮影されているのだ。そんな場所に出向いて行くのだから、彼女も撮影対象になってしまうことも十分あり得る。
本当は今の彼女の姿をメディアに流したくはないのだが、せめてメイクで誤魔化せたら。
香穂子を椅子に座らせ、リザは自分のメイク道具を持ち出してきた。
基礎化粧品で整えてもまだ荒れの目立つ肌にファンデーションを塗っていると、香穂子が微かに唇を震わせた。
「どうかした?」
「── タイムマシンがあればいいのにね」
ぽつりと呟いて、細い息を吐いた。
「……リサイタルの伴奏者を彼に頼んでたら、こんなことにはならなかったんじゃないかな…」
パフを持つリザの手が止まる。支えがなくなって、香穂子の顔はゆっくりと俯いていった。
「あなた、それ、本気で言ってる?」
「……今とは違う状況になってたのは確かだと思う」
リザは化粧道具をテーブルに置き、椅子を引っ張ってきて香穂子の正面に腰を下ろした。
「確かにあの時『彼を伴奏に』って持ちかけたのは私だけど、もしもあなたが頷いていたら罰としてお友達の結婚式出席をキャンセルさせていたわよ」
香穂子はゆるゆると頭を上げ、意味がわからないというように小首を傾げる。
腕組みをしながら椅子に深く腰掛けたリザは、優雅な仕草ですらりとした足を組んだ。傷心の妹を気遣う姉のような表情は消え、厳しいマネージャーの顔になる。
「── 彼がプロのピアニストなら問題ないの。あくまでビジネスとして依頼するのは可能だわ。けれど── 仕事とプライベートを分けられないようならプロ失格ね」
「そう……そう、だよね……」
風船がしぼんでいくように、香穂子は再びしょんぼりと俯いていく。
「それにね、あの時彼に伴奏を頼んでいたら、今頃彼はピアニストとして注目を浴びていたかもしれないわ。現にあの時あなたの伴奏をしたピアニスト、日本からのオファーがたくさん来ているらしいし。
でもそれでいいの? 彼はピアニストではなく、指揮者を目指しているんでしょう?」
香穂子がはっと息を飲んだ。
リザは身体を乗り出し、両手でそっと香穂子の頬を包んで顔を上げさせた。
「ほら、メイク続けるわよ。早くしないとレンの演奏、終わってしまうわ」
姉の顔に戻ったリザが再び香穂子の顔を飾り始めた。
支度を済ませた香穂子を、リザは玄関で呼び止めた。
「── もしも本当にタイムマシンがあったら、私は泣きじゃくっていたあなたにこう言うわ。『ウジウジ悩む前にきちんと真相を突き止めなさい』ってね」
香穂子が過去を変えようが変えまいが、彼が指輪のケースを隠し持っていた事実は変わらない。そのことから目を逸らそうとしている節のある彼女にやんわりと気付かせる。
案の定、香穂子は触れたくない部分に触れられて、苦い顔になった。
「リザ……」
「でも無理に過去に戻らなくても、今からでも遅くないと思うけれど」
安心させるようににっこり笑う。
学生時代から親交のある月森の言葉を信じよう、とリザは考えた。何か行き違いが起きているに違いない、と。
どちらにせよ、事実から目を逸らして逃げているばかりでは彼女は前に進めない。
しばらく逡巡していた香穂子は微かに頷いた。
「……帰りにアパートに寄ってくるよ……携帯も置きっ放しだし」
「ええ、行ってらっしゃい」
リザは香穂子の身体の向きを扉の方へ変えてやると、トン、と背中を押して送り出した。
* * * * *
神崎はクラシックの本場の由緒ある劇場の最後列の端の座席に身体を埋め、一流のオーケストラの生の音にどっぷりと漬かっていた。
コンクールというものを初めて目にするのだが、素人である神崎にとっては普通のコンサートと何ら変わりはないように思えた。
今は3人のファイナリストのうちの2人目がタクトを振っている。取材対象の月森は次の3人目での演奏。それまではただのクラシック好きとして純粋に演奏を楽しむつもりだ。
曲が終わり、惜しみない拍手に満足そうな指揮者の卵が高揚した顔で客席に頭を下げ、舞台袖に下がっていく。
15分間の休憩に入ると場内アナウンスが流れた。
さて、ここからは仕事モード突入だ。
ずっと空席だった隣の席に置いていたカバンの中から取材ノートと筆記用具を取り出してスタンバイする。
その前に一応トイレに行っておくかと席を立ち、ノートを座席に置いてカバンを抱えたところで、見知った姿が目に入った。
日野香穂子だった。
ふと目が合って、お互いに小さく頭を下げる。
近づいてきた香穂子は、
「あの、月森くんの演奏、もう終わりました?」
「あ、いえ、この後ですけど」
「よかった…」
ここ空いてます?と香穂子が指差したのは直前まで神崎のカバンが鎮座していた席である。
しどろもどろになりながら、はい、と答えると、香穂子はそこへ腰を下ろした。
「あ、あの……先日は本当に申し訳ありませんでした」
がばっと頭を下げる。
「……はい?」
香穂子はきょとんとして小首を傾げた。
「次の号に謝罪記事を載せる予定です。ご迷惑をおかけしました」
「……ああ、そんなこともありましたね」
そう言ってクスクス笑っている香穂子は、本当に記事のことは忘れてしまっていたようだった。
てっきりデマ記事を書かれて悩んでいると思ったのに── 彼女はウィーンでの撮影の時よりもさらに憔悴しているように見えた。
神崎はトイレに行こうと思っていたのも忘れ、ノートを取り上げ席に座った。予期せず訪れた取材のチャンスだ。自然と胸が高鳴ってくる。
「あの……神崎さんは最初から、私と月森くんがそういう関係じゃないって思ってくれてたみたいですけど、どうしてですか?」
何を聞こうかと考えていたら、逆に質問されてしまった。質問することが仕事で質問されることに慣れていない神崎は思いのほか慌ててしまった。
「えっ、あ……その、なんとなく、というか……お二人はそういう雰囲気には見えませんでしたから」
「ふふっ……そうですよねぇ」
「それに」
言いかけて神崎は慌てて口を閉じた。言ってもいいものか、と迷ったのだ。
「何ですか?」
可愛らしく首を傾げる香穂子。
周囲の客たちが有名ヴァイオリニストの存在に気付き始めた。ざわめきが広がっていく。香穂子はそれに笑顔で小さく手を振って応えた。
舞台上には休憩していた楽団員たちがぞろぞろと戻ってきていた。マナーを知る観客たちは名残惜しそうではあったが、舞台へと顔を戻していく。
「── で、何ですか?」
残念ながら有耶無耶にはできそうになかった。神崎は素早く周囲を見回して、東洋人の顔がないことを確認した。
テレビ曲の撮影クルーは少し離れた場所にいるし、近くには日本語の会話を理解できる人間はいないだろう。
「……月森さんと話してらっしゃる時……日野さんには他のお相手がいらっしゃるようなことをおっしゃってましたから」
はっと目を丸くした香穂子はパチパチと瞬きを繰り返す。それからふと寂しげな笑みを浮かべた。
「そっか……そうでしたね」
開演のブザーが鳴り響いた。
取材どころかただの世間話でもない、質問に答えただけの会話はそれきりになった。
香穂子が見せた寂しそうな笑みが頭から離れなかった。これほどまでに憔悴するほど彼女を悩ませているのは、恐らくその『他のお相手』なのだろう、と意味もなく確信した。
『── No.3 リョウタロウ・ツチウラ』
次のファイナリストの名前が呼ばれた。日本人だ、と思うと同じ日本人として少し嬉しくなった。
日本人ファイナリストと日本人ソリストの共演。いい記事が書けそうな気がした。
舞台袖から姿を見せたのはがっちりとした体格のスポーツマンタイプの青年だった。背が高く、身に纏うタキシードがよく似合っている。
距離があるためはっきりとは見えないが、整った凛々しい顔立ちをしているようだ。
客席から拍手が沸き起こる。演奏はこれからだというのに、ついさっき2人目のファイナリストに送られた拍手に負けず劣らずの盛大な拍手だった。
これまでコンクールを見守ってきた客たちがこれから始まる『ツチウラ』の指揮に期待しているのがわかる。
「── ウソ……どうして……」
拍手に紛れながらも耳に届いた切迫した呟きに隣に目を向けて、神崎はドキリとした。
口元を両手で覆った香穂子。舞台を見つめる目は大きく見開かれていた。
『ツチウラ』が客席に向かって一礼すると、拍手はさらに膨らんだ。
彼がオーケストラの方へ向きを変えると、一転して会場はしんと静まり緊張感に包まれる。
指揮台の横にスタンバイしていた月森と『ツチウラ』が顔を見合わせた。二人同時にニヤリと笑い、小さく頷き合う。
タクトを持つ手が上げられると月森を含めた全員が楽器を構えた。
そしてタクトが振り下ろされた瞬間から、神崎の頭の中からは月森の取材のことも香穂子の奇妙な反応のこともすっかり消え失せてしまっていた。
それほどまでに心を惹きつけられる演奏だった。
【プチあとがき】
あー、ついにコンクール出場が香穂子さんにバレました(笑)
さあ、この後どうなる?
【2009/11/13 up】