■土浦梁太郎の決意【11】 土浦

 ファイナルで演奏される協奏曲の練習日。
 オーケストラの団員たちは指揮台に立つ梁太郎の姿を訝しげに見つめ、隣同志でひそひそと囁き合った。 佇む彼は演奏前に集中力を高めているわけではなく、ざわめきが耳に届かないほどに呆然自失の状態に見えたからだ。 顔からは昨日までの溌剌さも鋭さも全く失われ、この世の終わりが来たかのような悲愴感を纏っている。
 結局昨日は何も手につかないまま今日を迎えてしまっていた。何もかも、どうでもよくなっていた。今日この場所に来ることも直前まで迷うほどに。
 舞台袖からソリストが姿を現した。団員たちは拍手代わりに足を踏み鳴らして迎え入れる。
 その足音に促されるように、梁太郎が舞台袖の方へゆっくりと視線を巡らせた。その瞬間の彼の行動と、その形相にオケの団員すべてがハッと息を飲み、あるいはゴクリと唾を飲み込んだ。
 カッと目を見開いたかと思うと、ダンッと足を踏み鳴らして指揮台を降り、いきなりソリストの襟首を掴み上げたのだ。
「月森っ、てめぇっ…!」
 ゴホ、ゴホン。
 客席から聞こえてきたわざとらしい咳払いに我に返り、梁太郎はチッと小さく舌打ちして月森の襟を跳ね除けるようしてに手を放す。
 曲を作り上げていく過程である練習風景も審査の一部である。がらんとした客席の中央より少し前の一列に陣取った数人の審査員が咎めるような渋い顔で梁太郎を見ていた。
 月森は空いていた片手で乱れた襟元を整えながら、
「── 君は何のためにここにいるんだ? 与えられた時間を無駄にしないでほしい」
「はっ、お前に言われたくないぜ」
「話なら後で── いや、話したいことがあるから、後で時間を作ってほしい」
 感情の見えない声色でそう言った月森は、じっと梁太郎を見据えている。静かではあるが挑んでいるようにも見える眼差しに、言い知れぬ不安を覚えた。心拍数の上がった胸が張り裂けそうに痛い。
 ファイナリストとソリストの間に流れる不穏な空気振り払うようにオケがチューニングを始めた。月森もそれに合わせて調弦を始める。
 梁太郎は重い足取りで指揮台に戻り、譜面台に軽く手をついて目を閉じた。心の中を無にするように、何度も深呼吸を繰り返す。
 舞台に立つ以上、プライベートな負の感情をタクトに乗せるな。音楽の世界にのめり込め── 暗示にかけるように、心の中で何度も何度も繰り返した。

 曲の理解度が高かったおかげか破綻をきたすことはなかったけれど、怒りと絶望に満ちた今の彼の指揮は荒々しいばかりで、とてもファイナリストのものとは思えない。 審査員全員が困惑して顔を見合わせた。
 そして何人ものコンクール参加者の指揮で演奏し続けてきたオケの団員たちの誰もが、優勝候補だと噂し合っていた青年は残念ながら優勝を逃すだろうと考えていた。

 誰もいない控え室に戻ってきた梁太郎は近くにあった椅子を力任せに蹴り倒し、別の椅子に落ちるように腰を下ろした。頭を抱え、そのままの勢いでテーブルに突っ伏す。
 全てにおいて腹が立っていた。平然と自分の前に姿を現した月森にも、まともな指揮ができなかった自分にも。
「── くそっ!」
 知らず握り締めていた拳でガンッとテーブルを殴りつけた。置きっぱなしの紙コップがカタカタと揺れて、僅かに移動する。
 コンコン、と扉がノックされたが応える気も起きなかった。そのまま放っておくと、カチャリと小さな音を立てて扉が開かれた。
「今、いいだろうか?」
 梁太郎はテーブルに突っ伏したまま動かない。
 問いかけてきた人物── 月森は一体自分に何を話そうというのか。死刑宣告を待つ囚人はきっとこんな気分に違いない、と梁太郎は身体を固くした。
 はぁ、と小さな溜息を吐いて、月森が部屋に入ってきた。
「……嗤(わら)いに来たのかよ」
「話したいことがあると言ったはずだが」
「……さっさとしゃべって、とっとと帰れ」
「ああ、そうさせてもらう── 日野のことだ」
 やっぱりか、と梁太郎は顔を伏せたままぎゅっと目を瞑った。じくじくとこめかみが痛い。
「── 一体君は何をやっているんだ?」
 月森の溜息混じりの一言に、梁太郎は跳ねるように立ち上がる。ついさっきの舞台上での出来事を再現するかのように月森の襟首に掴みかかった。 梁太郎が座っていた椅子が大きな音を立てて勢いよく後ろに転がっていった。
「『何をやってる』と聞きたいのはこっちのほうだぜ。何が『恋愛協奏曲』だ!」
「……記事を、見たのか」
「ああ、姉貴が美容院の待ち時間に見たっつって、ご丁寧にメールで送ってきたぜ」
「そうか」
 ふと笑みを浮かべる月森。『女性週刊誌は美容院でたまに見る』と香穂子が言っていたのを思い出したから、などということを梁太郎が知るはずもない。 嘲笑われたと感じた梁太郎の怒りは膨らんだ。
「何が可笑しいっ! 二人して俺を裏切りやがって!」
 襟を掴む手に力が籠り、月森は苦悶の表情を浮かべた。それだけではなく、寄せた眉根には憤慨の感情も見えた。
「裏切る…? 先に彼女を裏切ったのは、君の方じゃないのか?」
「なんだとっ !?」
「君はマエストロの家に泊まり込んでいると聞いたが」
「ああ、ついこないだまでな」
「本当に『君の師事するマエストロ』の家にいたのか?」
「当たり前だろっ! コンクールのために特訓受けてたんだよ」
「彼女にも秘密にして、か?」
 淡々とした口調は一貫して変わりはなかったが、月森は明らかに何かを疑っている。まるで浮気疑惑で尋問されているようだ、と梁太郎は思った。 本来なら自分が月森を追及する立場のはずなのに、妙に迫力がある彼の質問に答えるのが精一杯だった。
 だが、最後の質問には答える義理はない。
「お、お前には関係ないだろっ! ……変な勘繰りはやめてくれ」
「なら、『中身の入っていない指輪のケース』に心当たりは?」
「── っ!」
 怒りのあまり真っ赤に染まっていた梁太郎の顔からすっと色が落ち、驚いた表情のまま固まった。襟を掴んでいた手からも力が抜け、重力に逆らえずにパタンと下に落ちていった。
 ── まさか彼女に見つかっていたとは。絶対に彼女の目に触れない場所だと自信があったのに。
 月森は乱れた服を直しながら溜息を吐いた。
「彼女は── 君が別の女性に指輪を贈ったと思っている」
 別の意味での死刑宣告のようだった。
 ── そりゃそうだ。ご丁寧にピアノの中に空っぽの指輪のケースが隠されていたら、その中身の行方が気にならないわけがない。
 梁太郎は無意識に左胸のポケットに手を当てた。
 いつもはあるはずの感触がなかった。大切に指輪をしまってあるお守り袋は昨日着ていたシャツのポケットの中に入れたまま、自宅のどこかに脱ぎ散らかされている。
「……日本での仕事の間、彼女は夜も眠れないほどに悩んでいたらしい。それで気晴らしをさせようとマネージャーが酒に誘ったんだが、 彼女が仕事で席を外している間に口にした僅かなアルコールで日野は眠ってしまった。力を失って支えられなくなった身体が倒れた方向にたまたま俺がいた。それをゴシップ記者に見られたようだ。 記事については事務所が抗議文を出版社へ送ることで処理している」
 報告書を読み上げるかのような淡々とした状況説明を聞きながら、梁太郎はがしがしと頭を掻いた。視線は垂直に足元に落ちて彷徨っている。
 結局のところ、梁太郎が指輪のケースをピアノの中に隠したりしなければ香穂子が眠れないほど思い悩むことはなく、あんなゴシップ記事が世に出ることもなかった、ということになる。
「……君のその様子からすると、どこかで誤解が生じているんだろう。何か事情があるのかもしれないが、一刻も早く彼女の誤解を解いてやることだ」
 疲れたように溜息を漏らすと、月森は踵を返して扉へ向かった。ノブに手をかけたまま動きを止め、肩越しに振り返る。
「── 明日はいい演奏ができることを期待している」
 梁太郎は顔を上げずに頭を掻いていた手を持ち上げ、ひらりと振って応えた。
 扉が開き、閉められた。
 控え室は再び梁太郎ただ一人になった。
 身体から力が抜けて、ぺたんと尻餅をつくようにして座り込む。そのままごろんと床に転がった。
 できることならあの時まで戻ってやり直したい──
 そんな願いは叶うはずもない。
 ── 明日のファイナルが終わったら彼女を迎えに行こう。優勝と指輪を手土産にして。
 そこで梁太郎は何かに気づいてガバッと起き上った。片膝を抱え、眉間に皺を寄せる。
 香穂子の居場所を知らない彼は、一体どこに迎えに行けばいいのだろうか?

〜つづく〜

【プチあとがき】
 あ゛あ゛、気に入らねぇ……
 うまい展開が浮かんだら書き直すっ!
 ……と公言して、書き直したためしはないのだが。
 序盤からずっと悩み続けている香穂子さんに比べ、あっという間に復活の土浦氏(笑)
 いや、そうじゃないと話が進まないし。
 うぃーんシリーズを読んでくださった方にはご理解いただけているかと思いますが、
 月森さんは土日の痴話喧嘩にしょっちゅう巻き込まれているので、
 対処法をよく知ってるというか。まあ、そんな感じで。

【2009/11/09 up】