■土浦梁太郎の決意【10】
空港を出るなり神崎は携帯に齧りついた。普段なら気にならない呼び出し音がやけに苛立たしい。
「あ、もしもし、編集長? お願いが─── はあっ !?」
目の前が真っ暗になった。頭の中は真っ白だ。スーツケースに縋りつくようにして、その場にへなへなと座り込んだ。
「……………それ、ホテルにファックスしてもらっていいですか」
返ってきた能天気にもほどがある答えに脳内の毛細血管がブチブチッと音を立てて一気にちぎれたような気がした。
そしてロケ日。
集合場所にやってきた三人の元に、神崎は駆け寄った。
「あのっ、これ…っ」
金髪の美人マネージャーに1枚の紙を渡し、反応を待たずにジャックナイフのように身体を折って頭を下げる。
「も、申し訳ありませんっ! 止めるには止めたんですが……私の力が及びませんでした!」
はぁ、と呆れたような溜息が降ってきた。
予想通りの反応だ。
『弦が奏でるロマンスの音色! 新進ヴァイオリニストの恋愛協奏曲』
見開き2ページに渡って、香穂子と月森の親密な様子がまことしやかに書かれていた。
空港で神崎がかけた電話は間に合わなかったのだ。
あれほどきつく記事にはするなと念を押したはずの後輩はちゃっかり記事を提出し、電話をかけるほんの30分ほど前に印刷に回したという。
ファックスを送ってくれと頼むと、『なんだ、読みたいのか? あー、ついでに続報の取材も頼むな』と編集長。
神崎としては記事が世に出るのを阻止したかったのだから、血管が切れそうなほど頭に血が昇って当然のことだろう。
「……どうしてこんないい加減な記事が書けるんだ」
ゆるゆると頭を上げると、月森が苦虫を噛み潰したような苦り切った顔で記事のコピーを見ていた。
横から香穂子がひょいと覗き込んで、
「あらー……これってホテルのバーだよね」
記事の片隅には後輩が携帯で写した例の写真が添えられている。荒い単色刷りであまりはっきりとはわからないものの、それでも写っているのが誰なのかは判別できる程度の写真だった。
「ふふっ、みんなで飲みに行ったはずなのに気づいたら部屋で寝てたから、おかしいなーと思ってたんだ。こうやって寝ちゃってたんだ。ごめんね、月森くん」
意外にも香穂子は憤慨するどころか、この状況を楽しんでいるようだった。
「俺よりも……君の方は大丈夫なのか?」
香穂子はおどけたように肩をすくめてみせる。
「こっちじゃ日本の女性週刊誌なんて売ってないでしょ」
「今の世の中は紙面だけが情報源ではないだろう」
「それならそれで、案外『渡りに船』とか思われたりして」
「日野……」
何がおかしいのか、香穂子はくすくすと笑い始めた。少し自嘲を含んだような笑い方だった。
「いっそのこと、この記事、『ほんと』にしちゃう?」
すっと月森の顔色が変わった。記事が出たことへの憤慨とは違う種類の怒りが見て取れる。
その怒りをぶつけるように、持っていた紙をビリビリと引き裂き始めた。
「── 心にもないことを口にするのは、やめてくれないか。あまり気分のいいものじゃない」
「っ……ごめんなさい」
呟いて俯いてしまった香穂子の顔は青褪めて、血が滲みそうなほど唇を噛み締めている。
── この二人は恋愛の絡んだ関係ではない。それどころか、彼女には別の相手がいる。記事を見られると困るような。二人のやり取りと態度を見ていれば、それは明白だった。
小さな紙片の束になってしまった記事のコピーをマネージャーの手に押し付け、月森はその場を離れていった。その背中に向かって香穂子がもう一度、ごめんなさい、と呟いた。
「── 記事の撤回を求める抗議文を送らせてもらいますけど、よろしいですか?」
マネージャーが受け取ったばかりの紙片の束を差し出しながら、静かな口調でそう言った。
「……はい、もちろんです」
神崎は受け取った紙くずをポケットに突っ込み、そのままぎゅっと握り潰した。
二人への申し訳なさがこみ上げてくる。目と鼻の奥の方がツンと痛かった。
慌ただしかったとはいえ、どうして日本を発つ前に電話の一本くらいかけられなかったのか── 悔やんでも悔やみきれない。
記事にした後輩への怒りは、彼女を一発殴ったくらいでは収まらないだろう。
それよりも、こんな状況下でありながら、二人への単独インタビューがまた一歩遠くなった、と冷静に考えている自分がいて、神崎は自分自身に一番腹が立っていた。
撮影が始まると、二人は何事もなかったかのようにカメラの前に立った。さっきまでのやり取りがまるで白昼夢だったような錯覚に陥ってしまう。 さすがプロだ、と神崎は感動しながら撮影風景を文字に変換する作業に没頭しようと必死になった。
* * * * *
梁太郎の二度目の指揮者コンクール挑戦が始まった。
ちょっとした心配事がないわけではなかったが、気力体力ともに万全のコンディション。
順調に予選を突破し、前回の失敗のせいでちょっとしたトラウマになっていた今日のセミファイナルも無事通過した。
ファイナル進出者発表の後に行われた協奏曲のくじ引きで引き当てたのは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。
指揮者として記念すべき最初のヴァイオリン協奏曲は彼女と、などと甘い幻想は最初から持ってはいないつもりだったが、残念に思っている自分に少し驚いた。
高校の頃にアンサンブルで彼女が弾いた曲だが、ピアノパートがなかったため梁太郎は参加していない。いつか指揮者とソリストとしてこの曲で一緒に舞台に立ちたい、
と思って自分なりに曲を研究したこともある。
それに短調の切々と歌い上げるような曲自体、好みのど真ん中だった。
梁太郎はコンクール会場からの帰り、アパートの裏のカフェハウスに寄ることにした。
栄養のバランスは考えたいが、何より時間が惜しい。明日は本番のステージまでに許された、最初で最後の練習。ソリストともその時に初めて顔を合わせるのだ。
しっかり楽譜を読み込んで、的確な指示が出せるようにしておかなければ。
食べるにはまだ時間が早かったので、テイクアウトのサンドイッチを注文して出来上がりを待つ。顔馴染みの店員と話していると、客のまばらな店内に知った名前が聞こえてきた。
「── そういや先週、この辺で日本のテレビがロケしてたんだって」
「へー、何の?」
「内容まではわからないけど、ヴァイオリンのカホコ・ヒノとレン・ツキモリがいたらしいよ」
「そうなのっ !? わー、見てみたかったなー」
若い女性二人組がケーキを頬張りながら興奮気味に話している。
店員に軽く肘打ちされた。見ればニヤニヤ笑っている。学生の頃からここにはしばしば通っているのだから、店員も香穂子のこと、そして梁太郎との関係もよく知っているのだ。
忘れていった携帯もずっとそのままだったから心配していたが、きっちり働かされているらしい。忙しくてアパートに戻る暇もないのだろう。
ほっとしたのが顔に出たらしく、店員がもう一度肘打ちして、ぐっと親指を立ててウィンクした。男にウィンクされても嬉しくもなんともないのだが。
「── やっぱり才能がある者同士、惹かれ合うんだろうねぇ」
「えっ、なになに? 何の話?」
「ネットで見たんだけどね──」
女性二人の会話の内容に不吉なものを感じて梁太郎が眉を顰めると同時に、彼のポケットの中で携帯が震え始めた。
取り出して開いたディスプレイに表示されているのは日本にいる姉の名前。
耳に当てた携帯からいきなり飛び出してきたのは、『あんたいつ香穂子ちゃんと別れたのっ !?』という姉の怒鳴り声だった。
呆然としたまま品物を受け取り、支払いを済ませ、アパートへ戻る。
姉に指示された通りにパソコンを立ち上げてメールチェック。受信した姉からのメールの添付ファイルを開くと、雑誌のページをキャプチャした画像だった。
「……なんだよ、これ」
香穂子と自分ではない別の男とのゴシップ記事。その『別の男』というのが月森だというのだ。
ありえない、と梁太郎は鼻で笑う。
記事を読み進めると、ちょうど梁太郎が師の家に籠っていた頃に二人は日本で一緒に仕事をしていたらしい。その時に滞在していたホテルのバーで親しげに寄り添っていた、と。
縮小されて少し潰れてしまった写真の中には寄り添っている男女。見る人が見れば確かに香穂子と月森だと判別できる程度にはっきりしている。
同じ事務所に所属しているのだから、これまでもちょくちょく顔を合わせていたのかもしれない。共有する時間が増えれば心まで傾いていき──
彼女がアパートに戻ってこないのは忙しくて時間がないからではなく、別の場所に『帰って』いるのだとしたら──
「── くそっ!」
横に置いたビニール袋を力任せに払い落した。床に叩きつけられた袋の中で、梁太郎の夕食は見るも無残な姿に変わり果てていた。
【プチあとがき】
今回の鬼は土浦姉でした(笑)
よりによってファイナル直前に知らせてこなくてもねぇ(笑)
普通、記者さんは携帯で撮った写真は使わないと思いますが……
さあ、いろんなところが繋がってきましたよ〜♪
次回、直接対決(笑)
【2009/11/04 up】