■土浦梁太郎の決意【9】 土浦

 僅かに眉を顰め、梁太郎は耳に当てていた携帯をゆっくりと下ろした。
 しばらく前に送ったメールの返事がいくら待っても来なくて直接電話をかけてみたのだが、しばらく待ってみてもコール音が続くばかり。
 お互い忙しい身であり、滞在している場所によっては時差もあるから、まずはメールを送る。手が空いていれば折り返し電話をかけるし、無理なら少々時間が経っていても何らかの返事は返す。 それがふたりの間にいつしか生まれたルールだった。
 時間を置いて何度かかけてみたが、そのうち聞こえてくるのがコール音から電源オフを知らせるアナウンスに変わった。
 仕事の関係でマナーモードにすることはあっても、電源を切ることはないはず。 たとえ電源を切らなければならない事情があったにせよ、1日に1回くらいはチェックしていそうなものなのだが。
 パタン、と携帯を畳む。
 ── まるで拒絶されているみたいだ。
 ふと心にそんな懸念が生まれた。
 馬鹿馬鹿しい、と梁太郎は頭を振った。
 喧嘩しているわけでもないのに彼女から拒絶される理由がない。携帯に触る時間がないくらい忙しいんだろう。 コンクールまであとわずか。彼女も頑張っているのだから、自分も頑張らねば。
 いつものように、パン、と左胸のポケットを叩いて気合いを入れ直す。
 けれど心の中に生まれてしまった奇妙なざわめきは、完全に消えることなく澱になって残ってしまっていた。

*  *  *  *  *

 丸っこい小さな窓から外を見下ろせば、広がるのは雲の海。
 ウィーンへ向かう飛行機の中、額をつけていた窓から離れながら神崎は深い溜息を吐いた。
 頭痛の種が多すぎる。
 たまたま撮影スタッフの一人が直前に別の仕事へ引っ張られて欠員ができたためチケットの手配などは自分でしなくて済んだが、 料金までテレビ局が面倒見てくれるほど世の中甘いわけもなく。
 バーから飛び出した後輩記者は何とか捕まえて『今見たことは絶対記事にはするな』と脅しをかけて無理矢理頷かせたけれど、その程度で安心していられる相手ではない。 慌ただしくて連絡できないままになっていたけれど、向こうに着いたら編集長に直接クギを刺しておかなければ。
 おまけに胃にダメージをくらって気分は最悪。離陸の時の押し潰されるような重力はやっぱり嫌いだ。
 シートに身体を埋め、ムカムカする胃の辺りをさすりながら、少しでも楽になるよう静かに細く息を吐く。いっそ眠ってしまおうと目を瞑った。
 途端、前日の公開収録の光景が蘇ってくる。
 すべてヴァイオリンで構成されたオーケストラは音量は豊かだったけれど、やはり音域の厚みが物足りなかった。 それでも参加したヴァイオリニストの卵たちは楽しそうで、特に自分で弾くことのないパートを担当した学生たちには良い勉強になったに違いない。
 だが最も心に残っているのは、実験的オケの前に披露されたゲストふたりの演奏なのだ。
 小耳に挟んでいた通り、彼らが選んだのは有名なピアノ曲。
 1曲目はモーツァルトの『トルコ行進曲』。右手役が月森で、左手役が香穂子。原曲の軽やかさはそのままに、どことなく艶っぽい行進曲だった。
 2曲目はベートーヴェンのピアノソナタ『悲愴』第2楽章。右手役と左手役を交代して。
 崖っぷちに追い詰められていくような切迫感のある第1楽章と第3楽章と違い、第2楽章はどんなに悲愴感溢れる心の中にも落ち着ける安らいだ部分があるものだと思わせるような曲であるにも関わらず、 香穂子の奏でるメロディは聞いていて涙が出そうになるくらい切なくて、胸が痛くなった。
 どんな思いで弾けば、あんな演奏が生まれるのだろうか── 本人に直接訊いてみたいと思った。
 残念ながら神崎が今いるのはエコノミーの客室。音楽家たちはファーストクラスにいる。
 取材はウィーンに到着後に持ち越すしかなかった。

*  *  *  *  *

 ガサガサと耳障りな音に香穂子は目を覚ました。しばらくうとうとしていたらしい。
「── すまない、起こしてしまったな」
 そう言う月森は本当にすまなそうな顔をしていて、香穂子は思わずへらりと笑ってしまった。
「ううん、大丈夫── あ、それって……」
 隣の座席に座る月森の手には見覚えのある封筒があった。確か、ホテルのカフェでオケの楽譜を受け取った時、次の仕事だと言われて彼だけに渡されたもの。
 香穂子が聞いたのは、手荷物の中からその封筒を取り出す音だったらしい。
「ああ、協奏曲のソリストを依頼されたんだ」
「へぇ……曲は?」
「以前君と組んだアンサンブルでも演奏した──」
 月森は昔を懐かしむように表情を和らげ、楽譜の表紙を香穂子に向けた。
 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だった。慌ただしくも楽しかった高校時代を思い出す。
「わ、メンコンだ、いいなー。どこのオケと?」
「さあ」
「え゛……なにそれ」
「演奏会ではないんだ。指揮者コンクールのファイナルなんだが、まだ詳細は聞いていない」
 本番は来週だというのに、と不服そうに呟いて眉間に皺を刻む。
「……へぇ……指揮コン、ね」
「── 土浦は出場しないのか?」
 やはり聞かれたか、と香穂子はこっそりと溜息を吐いた。
 話の流れからして、現在の事情を知らない月森が話題に出してしまうのではないかとは思ったが。
 多少なりと事情を知った上で、この流れで指揮者志望の彼のことに全く触れないのもおかしいだろうと月森が考えていることなど、香穂子が知る由もない。
「……先生の家の資料整理で泊まり込みって言ってたから、今頃まだこき使われてるんじゃない?」
 そうか、と言っただけで月森は膝の上で開いた楽譜へと目を落とした。
 あっさり引き下がってくれてよかった── 今は彼のことを考えたくなかったから。

「── ごめんなさい、また予定が変わったわ」
 テレビ局の人間との打ち合わせで席を離れていたリザが戻ってきた。ひらりと1枚の紙を差し出す。
 受け取った月森が紙を香穂子の方へと寄せ、香穂子は横から覗き込んだ。書かれていたのは日本語の手書き文字。簡単なタイムスケジュールのようだ。
「……どういうことだ、これは」
 険しい顔で見上げる月森に、リザはひょいと肩を竦めてみせる。
「普通の演奏会じゃなくていいから、舞台に立つレンの姿をカメラに収めたいんですって」
 手書きのスケジュールによると、ヴァイオリニストふたりによるウィーン案内が大幅に削られたところに『月森 蓮・指揮コン演奏密着』と書かれていた。
「ま、特別なことをやってくれって言われてるわけでもないし、好きに撮らせておけばいいんじゃない?」
「……そんないい加減なことでいいのか…?」
「その分、休養と練習に当てる時間が増えたって思えばいいんじゃないかしら」
「……それは、そうだが…」
 月森はしばらく考え込んで深い溜息を吐いたかと思えば、何かを諦めたように軽く頭を振ってから小さく片手を上げた。『了解』よりも『降参』の意味が強いようだ。
「とりあえず撮影らしい撮影はあと1回なんだから頑張ってちょうだい。明日1日は自宅でゆっくり休んで」
 リザの発破をかける言葉に、香穂子は顔の色を失ってピクリと身体を震わせた。
「あ……あの、ね、リザ……」
「ああそうだ。ねえカホコ、うちの近くに新しいイタリアンのお店ができたんだけど、おいしいって評判なの。よかったら付き合ってくれない? 遅くなったらうちに泊まっていけばいいし」
 狭い部屋だけど、とリザは茶目っけたっぷりにウィンクひとつ。香穂子の顔の強張りがみるみるほぐれていく。
「ほ……ほんと? ……嬉しいな、うん、ぜひ」
「じゃあ、決まりね」
 座席に沈んでほっとしたように長い息を吐く香穂子。明らかにおかしな態度を取っていることに彼女は気づいく余裕もないらしい。
 だがリザも月森もわざわざ指摘するような無神経なことはせず、彼女をそっと見守ることにした。

*  *  *  *  *

 梁太郎は師との特訓を終え、自宅に戻っていた。
 後は心を落ち着け、コンクール本番に臨むのみ。
 会場のホールは自宅とは目と鼻の先。普段の行動範囲内にある。この点はわざわざ国境を越えて参加してくる大部分の出場者よりも精神的に有利なはずだ。 慣れないホテル生活と普段暮らしている自宅から通うのとでは緊張の度合いは格段に違う。もちろん油断と気の緩みは禁物だが。
 久しぶりに自宅の鍵を開けて、中に入る。
 数歩進んだところで目に入ったのは、小さなダイニングテーブルに無造作に投げ出された携帯電話。梁太郎の持っているものと色違い── 香穂子のものだ。
「……なんだ、ケータイ置きっ放しかよ。そりゃ何度かけても出ないはずだな」
 持って帰ったバッグを床に落とし、携帯を手に取った。開いてみればブラックアウトしたままのディスプレイ。
「── んで、電池切れ、と」
 片手で器用に携帯を閉じながらつかつかと部屋を横切り、壁に作りつけられた棚に置いてある充電器にガチャリとセットして。
 放り出していたバッグの中身を洗濯機に放り込んでから、壁に掛けたコルクボードに貼ってあるスケジュール表の本日の予定を確認する。
 充電が終わったら買い物に出るついでに届けてやってもいいんだが、と笑みを浮かべた梁太郎の眉間に皺が生まれた。
 ── あいつ、今どこにいるんだ?
 指先で辿って行った今日の日付の欄は空白になっていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ちょっと前にテレビでヴァイオリンのトルコ行進曲が流れてたので使わせてもらっちゃいました。
 ヴァイオリン2本の演奏だったと思うんだけど。
 悲愴2楽章は無印土浦のコンクール演奏曲のひとつ。
 そんな曲を選ぶ月森は鬼だと思う(笑)
 ま、事情を知る前に決めたんだからしょうがないけど。
 つか、いろんな部分を端折りすぎだなー。
 メンコンはアンコで吉羅がくれる楽譜。
 ふぃー、やっと土浦さんが出てきたよ(笑)

【2009/11/01 up】