■土浦梁太郎の決意【8】 土浦

 撮影は順調に進んでいた。
 学生たちのオール・ヴァイオリン・オーケストラの練習も本格的に始まった。向学心旺盛な若者たちのエネルギーには圧倒されるばかりだった。
 だが、肝心のあのふたりへの取材はまだできていない。
 神崎は焦りに唇を噛んだ。
 彼らには『空き時間』というものがないのだ。
 学生たちの指導中に声をかけるわけにはもちろんいかないし、それ以外の時間は大抵自分の練習に当てている。
 音楽家といえば優雅に聞こえるが、彼らの世界もまた厳しい世界なのだと身に沁みた。
 その彼らが日中唯一音楽から離れるのが食事の時間なのだろうが、近づいて聞いてみれば食事中に交わされる会話もほとんど音楽の話だったのには少し笑ってしまった。
 こうなったらチャンスは夜しかない。

*  *  *  *  *

 ホテル内にあるカクテルバー。
 少し照明を抑えた店内はしっとりとした落ち着いた雰囲気で、音量を下げたスタンダードジャズが心地よく身体に響いてくる。
 店の奥の壁沿いに一続きになったソファ。ぽつんぽつんと華奢なテーブルが置いてある。その一席に月森は香穂子と並んで座っていた。
 ここにやってきたのはリザの提案だった。たまには息抜きしましょう、と。
 提案した当人は着いた途端鳴り出した電話に応対するために『先に始めてて』と言い残して部屋に逆戻り。部屋に置いてある資料を見なければ解決できない内容らしい。
 白いシャツに蝶ネクタイ、黒いベストに黒いスラックスというお決まりの格好のウェイターが滑るようにやってきてメニューを出す。
 ずらりとならんだカクテル名だけではどんなものなのかわからず悩んでいると、よろしければ今のご気分に合ったものをお作りいたしますが、とウェイターが言った。
「んー、じゃあ……切ないっていうか、この世の終わりっていうか……そんな気分なんですけど」
 『この世の終わり』という言葉に、月森は絶句した。一体何があったのだろう?
 かしこまりました、と一礼したウェイターが業務用の笑みを月森へと向ける。
 進んでアルコールを嗜むことのない月森も香穂子同様カクテルの知識はあまり持っていないため、同じものを、と答えた。
 ウェイターからオーダーを聞いたバーテンダーがシェイカーを振り始めた。
 カクテルグラスに注がれる、シャンパンのような色の液体。
 銀色のトレイに乗せられたそれが、テーブルに運ばれてきた。
「── 『ラスト・キッス』でございます」
 テーブルにグラスを置いてウェイターは去っていく。
「バーテンさんって見ただけでその人のことがわかるってよく聞くけど……おみごと、っていうか…」
 最後の方はほとんど独り言のようだった。
 乾杯、とグラスを掲げてからひと口、口に含む。
 思っていた以上にアルコールが強くて、思わず顔を顰めた。
「うわ、強っ」
 グラスをテーブルに戻した香穂子もしかめっ面。彼女は元々アルコールに強くない。
「── 注文し直そうか?」
「ううん、いい……こういうの飲みたかったのかも」
 ふ、と微かな笑みを零す。
 彼女はこの仕事の前にウィーンに戻っていたようだし、またいつもの喧嘩でもしたのだろう。
 そう見当をつけて、月森は彼女が『ちょっと月森くん聞いてよ!』とぼやきとノロケが絶妙に混ざり合った愚痴を語り始めるのを待った。愚痴って発散させるのは精神衛生上良いことだ。
 ただ並んで、ちびちびとカクテルを啜り、流れるジャズに耳を傾ける。
 どれくらいそうしていただろうか。
 とん、と肩に重みがかかった。
 凭れかかってきた香穂子はすぅすぅと寝息を立てている。グラスは空になっていた。
 いくら彼女が酒に弱いとはいえ、カクテル1杯で酔い潰れるとは思えないが──
「── やっと眠れたのね」
 いつの間にか戻っていたリザがウェイターにドライマティーニを注文してから香穂子の隣に腰を下ろし、彼女の頬にかかる髪をそっと退けてやった。まるで姉か母親のように。
「最近眠れてなかったのよ、この子」
「……そうか」
「まったく、不実な男を好きになった女は辛いわよね」
「……は?」
「レンも知り合いなんでしょ? この子のカレシ。ピアノやってて指揮者目指してるってのは聞いてるけど、一体どういう男よ?」
「ちょっと待ってくれ── 彼と不実という言葉が結びつかないんだが」
「あら……もしかしてカホコから聞いてなかった?」
 しまった、という顔でリザは口元を指先で押さえた。が、それまで静かに燃やしていた怒りの火の勢いが戻ってきたらしい。すぐに、まあいいわ、と呟いて、
「私も知っておきたいから聞かせてちょうだい。贈った指輪のケースを後生大事に隠し持ってるような男?」
「そこまでは……だが、知る限り、物に執着するような人間ではないと思う」
「二股かけて平気な男?」
「それはない。何事にもケジメを付けたがる男だから……もしも日野から気持ちが離れるようなことがあれば、真っ先に彼女に告げるはずだ」
「そう」
 リザはしばらく何か考えていたようだったが、いつしかテーブルに届いていたマティーニを一気に飲み干すと、すっと立ち上がった。
「部屋に戻りましょう。レン、そっち抱えて」
 くったりと力を失った香穂子の身体を両側から支えて店を出る。
 ── あの男は一体何をやっているんだ。
 リザの怒りが飛び火してきたらしい。月森の口から漏れる溜息はいつも以上に重かった。

*  *  *  *  *

「── せんぱ〜い♪」
 背後から飛びついてきたのは、編集部の後輩だった。
 ふんわり内巻きのお嬢様ヘアの彼女は恵まれた容姿を持つ、いわゆる社内アイドル。媚びるような態度は女性社員からは顰蹙を買っているが、男性社員からの人気は高い。 うっかり近づけば痛い目を見る、そんなタイプの女なのに。
 『目を覚ませ、男どもよ!』と声を大にして言いたいのをぐっと堪えているせいでどちらかといえば邪険に扱っているというのに、なぜか彼女は神崎に懐いていた。
「どうしたの、こんなとこに」
「陣中見舞いです♪ 先輩がよその畑を荒らしてるって聞いて♪」
「あ、そ」
 女性誌所属の自分が音楽家を追いかけているのだ。畑違いなことはもちろんわかっているが、荒らしているつもりなど毛頭ない。
「あ〜、差し入れ持ってこなかったのを怒ってるんですかぁ?」
 滲み出てしまった不機嫌さがさすがに彼女にも伝わったのだろう。的外れもいいところだが。
「じゃあ、今度来る時はあんぱんと牛乳、持ってきますね♪」
「……張り込み中の刑事じゃないって」
「やだ先輩っ、古〜い! 超ベタ!」
「あんたが先に言い出したんでしょうがっ── ていうか、もう来なくていいから」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよぉ。で、先輩はここで何を?」
 確かにバーの入り口に置かれた観葉植物に身を隠しながら内部を窺う様子は挙動不審者に間違われても仕方ない。
 意を決して日野香穂子の部屋を訪ねたら留守で。隣の月森 蓮の部屋も留守。さてどうしようとうろうろしているうちに3人がここに入っていくのが見えて追いかけてきたものの、 偶然を装い同席させてもらうか、ストレートに取材を申し出るかで悩んでいたのである。
 どうやら結婚式場での月森とのやりとりが少々トラウマになっているらしかった。そんなことでは雑誌記者など務まらないとはわかっているのだが。
「……ここに日野香穂子と月森 蓮がいるのよ」
「えっ、そうなんですかぁ! きゃっ、本物見てみた〜い!」
「あんた、知ってるの? あのふたりのこと」
「知ってますよぉ〜。私、高校までピアノ習ってたから、クラシックにはちょ〜っとウルサイんです♪」
「……へー、意外」
「うわ先輩、それ失礼すぎですよぉ」
 そう言いながら、後輩記者は店の方へと歩いていく。
「ちょっ、何してんの!」
「決まってるじゃないですかぁ、中に入るんですよぉ。ほら、先輩も♪」
「わっ、ちょっと、やめ──」
 結局引きずり込まれた店内は、酒といえば居酒屋の神崎には場違いにも思えるような雰囲気に包まれていた。そのまま引っ張られてカウンター席へ。
「あっ、ホントにいた!」
 後輩の見ている方へと目を向けると、奥のソファ席にふたりが並んで座っていた。
「あ、私、チェリーブロッサムにしよっと。先輩は?」
「……同じでいい」
 後輩がバーテンダーに注文するのを聞きながら、肩越しに背後を窺う。
 彼らは会話をするでもなく、ただ座ってグラスを傾けている。楽しいお酒、には見えない深刻な様子で。とても声をかけられるような雰囲気ではなかった。
「── やっぱりあのふたりって、そういう関係なんですね〜」
 出されたピンク色の酒を啜りながら、ふたりしてちらちらと背後に視線を送りつつ。
「そういう、って……どこをどう見ればそういう結論に達するのよ」
「えー、でも、こういうところでお酒飲むのって、そうじゃないんですかぁ?」
「違うって言ってるでしょ。そんな甘ったるい関係じゃないわよ、あのふたりは。第一、さっきまでマネージャーもいたし」
「でも今はいませんよ? 普通、マネージャーっていうのはフェイクなんですってば」
「……いい加減にしなさいよ。あんた、もう帰んなさい」
 爆発しそうな苛立ちを込めて後輩を睨みつけようとした時、ピッ、と電子音。
「わおっ、スクープいただきっ♪」
 いつの間に取り出したのか、彼女は携帯で何やら撮影していたのだ。
 慌てて振り返った先には我が目を疑う光景── 静かに目を閉じた香穂子が、月森の肩に頭を預けていた。
「じゃ先輩、お先に〜♪」
 後輩は背の高いスツールからぴょんと飛び降りて店の外へ。
「ちょっ、待ちなさいっ!」
 追いかけようとした神崎は、はたと気づいて財布からなけなしの千円札3枚を取り出しカウンターへ置き、改めて飲み逃げした後輩の後を追う。
 半分以上残ったお酒と、幾許か戻ってくるはずのお釣りは泣く泣く諦めるしかなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ……何も言わないで、お願い。
 あぁ、またひとりオリキャラが……
 思いっきり昼ドラ風展開。おまけに先が見え見え。

【2009/10/29 up】